ニセモノドリア ─千景─
▼連作短編です。そのままでも読めるけど、ここから読んでもらうのがおすすめ。
玄関の扉を開けると、娘の千尋がとてとてと駆けていった。
── ふふ ──
千尋の靴を出船に揃える。ネギが倒れてきて、ビニールががさりと鳴った。
今夜は麻婆豆腐。
千尋も食べられるように、味つけは塩麹だけ。白くてあっさりした優しい味の麻婆豆腐は、私や夫には少し物足りない。
食卓に回転皿を置く。
塩コショウ、密閉ボトル入りの醤油や、粉チーズなど、常温保存できるものをまとめてある。ここには四川辣油や花椒もあって、大人は食べるときにこれを振りかければ手軽に辛い麻婆豆腐にできるのだ。
千尋が生まれる前に住んでいた街の、小さな中華料理屋の麻婆豆腐が夫は格別に好きで。千尋が大きくなって、辛いものが好きになったら、またああいう本格的な麻婆豆腐を夫のために作ってあげたいと思っている。
千尋が眠ったあと、そっとベランダに出る。ガーデンチェアにそっと座って、手作りの梅酒を少しずつ飲んだ。眼下に広がる東京の街が綺麗。宝石箱みたい。
なんて穏やかで幸せなのだろう。時々、不安になる。なにか、忘れているんじゃないか、と。
──いいのよ……──
瞼がとろりと重たくなってきた。
その日は、朝寝坊をしてしまい、弁当をつくる時間がなかった。普段は社内で弁当を食べるのだけれど、珍しく同僚とランチに出かけることにした。たまにはこういう日も悪くない。
とりとめのないことを話しながらエントランスを出ると、入り口広場に見覚えのある人が立っていた。
「なにあの人。不審者ですかね」
同僚がこっそりと耳打ちをする。
くたびれたスウェットを着て、ぼさぼさの髪の毛で無精ひげを生やしたその人は、なにもかもが整然と整えられたこの場所には異質でひどく目立っていた。
でもどうしてだろう。
あの人を、知っている気がする。
気のせいじゃなければ目が合った気がした。なにか話したそうな、そんな顔で。
数日後、記憶が蘇った。電車でWebニュースを見ていたときのことだ。
『S県・首刈峠で男性の遺体を発見』
そんなタイトルの記事だった。なにげなくタップして、亡くなった男性の名前を見たとき、ばらばらになっていたパズルが一気に完成したような気がして、頭が痛くなった。
「山田くん……」
物語理論の授業でいっしょだった、山田くんだ。
頭の中の声が警告を鳴らしていた。でも、なにかに突き動かされるように私は会社に電話をし、反対の電車に乗り込んでいた。
「行ったら帰ってくる、ねえ」
山田くんは、つまらなそうに言った。授業のときは大体眠っていて、見た目も派手で、ちょっと怖そうな人だ。髪の毛を染めて、雑誌に載っている服を買ってみただけの私からすると、遠い人だと思っていた。
でも、テキストを貸したのをきっかけに少しずつ話すようになった。お笑いが好きで、よく笑う素敵な人だと思った。
だから、早織から彼との飲み会に誘ってもらえたときはうれしくて。この夜でなにかが変わるような気がしていた。
飲み会──といっても、男子の半分くらいはバイクで来ていたのでシラフだった──のあと、肝試しに行こうというはなしが持ち上がった。バイクじゃない人とか、飲んじゃった人は後ろに乗せてくれるという。
肝試しなんて怖くて行きたくなかったけれど、山田くんの後ろに乗れるならいいかも。そう思っていたのに。残念ながら、崇くんとペアになってしまった。しかも、トンネルの手前で引き返しはじめた。
「待って、なんで?」
「いいじゃん」
彼は強引だった。
真っ暗な山道には私たちだけしかいなくて、怖かった。行き先は崇くんの家で、襲われそうになったけど、なんとか身を守った。彼は「冷めたわ」と言ってねむってしまった。
もう終電なんかとっくに過ぎている。道を見ていたけれど、ここがどこなのかもわからない。当時はスマートフォンもなくって、途方にくれた私は、崇くんの部屋の隅っこで体育座りをして朝を待った。
でも、いつの間にか眠ってしまっていた。
まぶたを刺す光で目を覚ます。
ここがどこだか一瞬わからなくなって困惑した。目の前には、背中を丸めるようにしてテレビに向かう姿。肘のあたりが小刻みに動いていて、その動きに合わせて効果音が鳴る。ゲームをしているのだと気がついた。
バッと飛び起きる。着衣の乱れは、ない。
「なんもしてねえよ」
崇くんはそう言うと、可笑しそうに笑った。
セーブしてテレビを消すと、キーを持って「行くぞ」と立ち上がる。その髪の毛には寝ぐせがついていた。
「……ここ、どこ?」
「とりあえず風呂行きてえんだって。あとで送ってやるからさあ」
彼は適当な感じで言った。
バイクではなくて、彼が向かったのは銭湯だった。
「じゃ」
番台でそういうと、彼はすたすたと男湯へ入ってしまった。困惑している私に、頭上から声がかかる。
「410円。タオル借りるなら80円ね」
置いて帰ってしまったのではないかと、8割くらい思っていたけれど、女湯を出ると崇くんは待合の畳でフルーツ牛乳を飲んでいた。
「ん」
私にも1本差し出される。
なにを話していいかわからなかったけれど、彼がなにも言わないので黙っていた。思っていたよりずっと心地がよかった。
ふと崇くんの横顔を眺めてみる。早織が、彼は学年でも一番に格好いいと話していたけれど、確かに落ち着いてこうして見てみると、俳優のように整った造作をしているのだと気がついた。
それから私たちは、彼のバイクでサイゼリヤへ向かった。
崇くんは、ずっと無表情だったけれど、ミラノ風ドリアを食べるその一瞬だけ、目尻が下がった。あ、これが好きなんだ。そう気づいた。
「んじゃあ俺、大学だから」
崇くんは、私をマンションの前で下ろすと、バイクで走り去っていった。
なんだったんだろう。本当に意味がわからなかった。でも、それからも気が向くと崇くんはふらりと家にやってきた。おなかすいた、と言って。ごはんを食べて、なにもせずに同じ部屋でねむって、翌朝銭湯に行ったらサイゼリヤに向かう。
そんなふうに何度も会っているうちにだんだん絆されていった。毎回懲りずに襲ってくる彼に抵抗するのをやめたのはいつだったのだろう。
馬鹿だった。言葉なんてなかった。それなのに付き合っていると、これからもずっといっしょだと無防備に盲信していた。
卒業を控えたある日、彼に言った。
「いっしょに暮らさない?」
その一言が、終わりになった。
卒業式の日、崇くんは、袴姿でもスーツ姿でもない、ちょっといい普段着を纏ったとても美人な人と連れ立っていた。そのとき悟った。そういうことかって。
悔しくて、妬ましくて、もやもやした真っ黒なものを、崇くんではなく彼女に抱いてしまった。目が合った。
卒業式のあとの、記憶がない。
ぴしゃりと頬が濡れた。壊れた屋根を伝うようにして、しずくが落ちてきたのだ。朝の淡い色の空が見えた。
打ち捨てられたような場所で、床のすき間から一本だけ雑草が伸びていた。わたしの手の下には、丸い曇った鏡がひとつ。ひどく古いもののようで、あちこち欠けたり罅が入ったりしている。
恐ろしくなって建物を飛び出すと、どうやら打ち捨てられた神社のようだった。灰色のすべすべした石になにかが掘られていたが、擦り切れていてほとんど読めない。
「羽……白……?」
すぐそばに川が流れていた。導かれるようにその流れに沿って進む。どれだけ歩いたのだろう。きっと何時間も経って、ようやく上に上がる石段を見つけた。
首刈峠──。ずっと前に、肝試しのために来た場所だった。
あの一日の空白がなんだったのか、私は今でも思い出せない。
それだけじゃない。山田くんのことも、崇くんのことも、あの記事を忘れるまですっかり頭の中から抜けていた。悲しみとともに。
Webニュースにはあまり詳しい情報が載っていなかったけれど、首刈峠で遺体が見つかったとあった。バスを降り、長いこと歩いて、あのとき向かったトンネルの前まで降りる。
トンネルには立入禁止のテープが貼られていたが、近隣に警察がいる様子はもうなかった。
そこには、女性が一人佇んでいた。山には似合わないスーツを着込んだ、同い年くらいの女性。
「……どうして、こんなところにスーツで?」
女性が聞いた。自分の格好を見下ろす。確かに。でも。
「あなたも」
──はぐちゃん……
頭の中で、声が響いた。
今まで疑問に思ったことがなかった。でも、これはなに。同じことが彼女にも起こっているのだろうか、目の前の女性もまたうるさそうに顔をしかめた。
身体が勝手に動き出す。女性も近づいてくる。強い引力で突き動かされているように、私たちは驚いた顔のまま、鏡に触れるときのようにぴたりと手を合わせていた。
「羽白あねさま……」
女性が目をまんまるに見開いてつぶやいた。ぼろぼろと大粒の涙が落ちてくる。
そのとき、頭の中にチカチカと膨大な量の映像が流れ込んできた──。
山の中に逃げ込んだ家族。呪術的な素養があるようだ。誰にも迷惑をかけず、自給自足で静かに暮らしていた。
ある日、戦に敗れた者たちが落ち延びてくる。羽白と羽黒というふたりの少女とその家族は、快く受け入れた。けれども。
両親が流行り病で亡くなった途端、ふたりの家に男が押し入ってきた。
「なにも、こんな幼子を殺さのうても」
そう言って止める男の顔は、崇に似ていた。
抑え込まれていた男が前に出た。
「いいや。俺の故郷では双子はあやかしを呼ぶと言われておってな。すぐに始末せねば」
「いやだいやだ! 死にたくない」
そう言って泣きわめいた羽黒が斬り殺された。両親の亡骸にすがりついていた羽白の目の前で。
「せめてひとりだけでも」
男が止める中、羽白は静かにその場を立ち去り、身投げしてしまった。
それからというもの、夜になると羽黒の幽霊が現れ、人や獣、鳥などを山へ引きずり込むようになった。それを喰ったのだろうか。最初は子どもの幽霊だったのに、いなくなった人の鎧や、鳥の羽などを寄せ集めたハリボテを動かすようになった。
恐れた村人は彼女を神として祀り、「生きたかった」と恨めしそうに口にする彼女をなだめるため、「器の女」を一人ずつ選んで差し出した。
羽黒の幽霊は考え込んだ。
そうして「喜」という名をつけた女を差し出すように告げた。
器の女は羽黒の依り代として“羽黒女”と呼ばれ、村の守り神として丁重に扱われた。器は生け贄だ。けれども、怪異の機嫌を損ねぬように、なによりも丁重にもてなした。村の中心にした。
時が流れ、正しい史実は失われていった。虐殺の歴史はなかったことになり、羽黒は災いを払う神とされた。
“羽黒女”は女王のような存在として”子を生んだ村の女たち”の中から選ばれるようになっていく。
だが、羽黒の怨念は決して鎮まらなかった。
選ばれし器に取り憑き、「かつて自分がされたように」、理不尽な暴挙をくり返したという。羽黒女が目を覚ますと、不快な者がひとり、またひとりと消えていった──それは偶然か、それとも。
一方で、羽白の存在は語られることが少なかった。
彼女は最後まで何も言わず、「忘れたい」「眠りたい」と願って命を落とした。羽黒の幽霊が夜な夜な現れるため、羽白のためにも祠が建てられたが、大して世話はされなかったという──。
特集『首刈峠の哀しい姉妹』(平河千景)
書き終えた原稿を印刷して上司のデスクに置くと、私は保育園へ向かった。夕方4時の電車は、座ることはできないけれどぎゅうぎゅうに詰まっているわけではない。つり革をつかんでぼんやり外を見ていると、むしょうに悲しくなった。
保育園につくと、千尋が「ままー!」と満面の笑みで駆けてきて、「走っちゃだめだよ」と叱られていた。愛おしくて、悲しくって、抱きしめる。
電車に乗っていたとき、崇のことが思い出されて苦しかった。自分が遊ばれていただけだと知ったときの絶望を、彼の隣に立つ人がいる妬みを、ずっと忘れて生きてきた。
ともすれば溢れそうなくらい、もやもやと燻っている。
「まま、今日のごはん、なあに?」
「おさかなフライだよ」
「タルタルソースも作ってね!」
「うん。ちーちゃんの好きな、卵たっぷりの作ろうね」
小さなちいさな千尋の手をにぎって家に帰る。
ああ、なんて静かな十年だったのだろう。頭の中の声は消えたのに、自分の思考がひどくうるさい。でも、このノイズも抱えて生きていく。
私はずっと、守られていた。
もう凪いだこころは持てないのだろう。でも、これからもずっとここで生きていく。
(5,000字)
次で最後です。でも、”幽霊側”でなにがあったのかの補足的なはなしだから、ここで終わってもだいじょうぶです。
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