ニセモノドリア ─真喜─
▼連作短編です。そのままでも読めるけど、ここから読んでもらうのがおすすめ。
薄氷の上を歩くような10年が終わった。
やっと解放された──そう思っていたのに。
娘が、戻ってきてしまった。
大学生のころ、構内の藤棚の下でぼうっとするのが好きだった。
枝から垂れ下がる淡い紫の花々が、まるで風そのものみたいにそよぐのを眺めていた。
周りの学生たちは、皆せかせかと急いで歩いていくけれど、何も考えずに、ただ風に身を任せている時間は贅沢に思えた。陽に透けた花びらが、紫色の光のカーテンのようで、世界が少しだけ静かになる場所だった。
村とは違って。
子どものころ、祖父から託された秘密の仕事があった。離れへ夕餉を届けること。
「真喜、おまえはいつか、ここからお逃げ。登喜にも幾度となくそう伝えたのに」
それが祖母の口癖だった。
あのころ、村のためだけに生きていた。
男たちが酒盛りをしているあいだ、女たちは何品も何品も熱々の料理をつくり、配膳する。戯れに身体を撫ぜられ不快感に耐えることすらあった。拒絶できるのは羽黒女──、つまり、私の母である香村登喜だけだった。
母の後ろには、黒い羽を生やした騎士が視える。母は村の女王のような存在となり、私は村の女たちに育てられた。きっと、アレが憑いたときから。
一方の祖母は村の外から嫁いできた人だ。登喜の”儀式”へ反対したら、こうして幽閉されてしまったと。
「本当は死んだことになってるんだろう。……そう考えると、殺されなかっただけ愛はあったのかもしれないねえ」
18のとき、祖母が亡くなった。
とっくの昔に死んでいたはずの祖母が見つかり、村は大騒ぎになった。
その合い間に脱出できた。東京へ逃げた。祖母に持たされていたのだ。大叔父の住所と、手紙とを。
次期・羽黒女の名を捨てた。大叔父には歓迎された。姓を変え、大学にも通わせてもらえた。就職して、結婚して、梓が生まれ、──平穏に生きてきたはずだった。
今から四半世紀も前のはなしだ。
娘の梓が誘拐された。
警察にも届けたがなかなか見つからない。
行方がわかったのは、私の”母”である香村登喜が死んだときだった。
知らせを受けて駆けつける。母は棺桶の中。神社の中で亡くなっていたという。
「おかあさーん!」
何事もなかったかのように、にこにこしながら駆けてくる娘の姿は、どう見ても梓だ。ちょっと吊り目がちの猫みたいな瞳も。小さくて薄いくちびるも。手を広げてかたく抱きしめた。
でも。
じりじりと頭の中で警鐘が鳴っている。
これは誰? どうしてソレが後ろに居るの。
村を離れてからもう10年以上が経っていた。
昔なじみの人たちは、ずいぶん入れ替わっているような気がした。あの頃感じていたどんよりとした曇り空のような雰囲気が少しなくなっている。
なぜこんな辺鄙なところにと思うが、新しい家もいくつか建っていた。
「あんこちゃーん」
梓と同じくらいの女の子が、駆け寄ってくる。
「あんこ……?」
「おばーちゃんが、私のこと”あずきちゃん”って呼んでたの。だからいつも友だちには、あんこみたいだねって」
ぞわりと肌が粟立った。
ああ、やっぱり母は。あの人は、この子を”器”にしようとしたのだ──。
「あたしはね、足の腱を切られて歩くことができない。でもねえ、あたしなりに調べたことがいろいろあるんだよ」
祖母は生前、そう口にした。
「目的はわからないが、この村は、異形を飼ってるんだ」
「飼う?」
「そう。そのための”生贄”として、村の女が選ばれる。女は直系である必要があるから、外から来たあたしじゃあ生贄にはならないのさ」
「どうして?」
「”許し”がいるのだと思っている」
祖母の家は祈祷や呪術のような霊的な営みに関わっていたらしく、彼女なりの知識から仮説を教えてくれた。
「あたしがあの子に……おまえの母親につけた名前はね、違う名なんだ。登紀。”登る”に、”のり”で、登紀。却下したのは夫だ。必ず”喜”という字をつけなければならない、とね」
私の名にも「喜」の字が入っている。それに気づいた瞬間、背筋が冷えた。
「これはあくまでも、あたしの見立てだ。違うかもしれない。でもね、”羽黒女”というのは、あの異形の”うつわ”なんじゃないかと思うんだ。あいつは、今の登喜は、あたしの娘なんかじゃない。違うんだよ。あいつの持つ記憶は確かに同じだ。だが、違う」
祖母はくちびるを噛んだ。
「……それを受け入れるための”許し”が名前なんだ、きっと。”喜んで器を差し出します”ってね」
母の登喜は、攫った梓の持ちものすべてに名前を書いていた。
「杏喜」と。
そういえば昔もこんなことがあったような気がする。私がずっとずっと小さかったころ。
神社の中で、前の羽黒女のおばさんが死んでいた。その日からだ。母の様子がおかしくなったのは。
羽黒女から羽黒女へ。
アレが乗り移っているのだと思った。
梓は、絵を描くのが好きな子だった。
毎日まいにち、何枚も私や夫の顔を書いては「これあげるね!」と渡してくれた。最初は缶に入れていたが、箱にも、段ボールにも入り切らなくなり、最近3つ目の段ボールを用意したところだった。
けれども、あの集落から戻ってきた梓は、絵をすっかり描かなくなっていた。
大好きだったはずのドリアも食べない。
祖母の言葉を思い出す。
娘が娘じゃなくなった、と。
そうわかってしまうと、ソレに今までのように接することはできなくなってしまった。おまえは娘なんかじゃない。感情を抑えられなくなり、きつい言葉をかけたり、イライラしてひどく叱ってしまったりした。
そういうとき、決まって夢の中で大きな烏に追いかけられる夢を見た。私は小さな虫になっていて、最後には食われてしまう。
まるで、アレを大事にしろという警告のように──。
卒業アルバムをなぞる。
梓には、つねに”死”が纏わりついていた。いじわるをした男子が死んだ。梓を仲間外れにした女子も死んだ。梓に手を出そうとしたサラリーマンは首刈峠から落ちた。
皆同じだ。そこになにもないのに怯え、狂い、死んでしまう。私が殺されなかったのは、単に、梓の庇護者だったからなのだろう。
薄氷の上を歩くような人生だった。梓は大学進学を機に家を出た。やっと、平穏な日常が戻ってきた──。
梓が結婚したのは、いかにも軽薄そうな男だった。私は疲れていた。どうせこの人もすぐに死ぬのだろうと思った。
ところが、数年が経っても、子どもが生まれても、あの男は生きていた。
何より驚いたのは、子どものことだ。
梓はすでに違うモノになり果てているはずなのに、どうして愛莉に「喜」のつく名をつけなかったのだろう。
離婚届を置いて家に戻ってきたときも驚いた。
もしかして、後ろのアレは、自動的に発動するようなものではない? この子が許している者には攻撃しないのだろうか。
梓はどうにもあの男に”執着”しているように見えた。悪感情ですらその一端でしかなくて。
家に戻ってきた梓の機嫌を損ねないように慎重に暮らした。
孫娘の愛莉にも「いい子でいるように」と何度も念を押した。そうしないと死んでしまうのだから。
やがて電話があり、あの子の夫がやはり首刈峠で見つかった。
大叔父はもうすでに亡くなったが、その伝手を辿って、拝み屋のようなことをしている人を探してもらった。
待ち合わせに指定されたのはサイゼリヤだ。
メニューをぱらぱらとめくってみる。こうした店に一人で入ったことはほとんどない。何を頼めばいいのか迷いながら、あるページで手が止まった。
ミラノ風ドリア。
これは、あの子の──梓の好物に、似ている。
ほかほかと湯気を立てるドリア。
うちで作るときは、鶏ひき肉を使って作ったっけ。そのほうがあっさりした感じになって、梓の好みだった。
「おまたせしました」
そう言って現れたのは、ずいぶん若い女の子だった。明るい茶髪を後ろでまとめ、パンツスーツを身にまとっている。全体的に見ると今どきの女の子という感じがするのに、化粧っ気がないのが妙にアンバランスだった。
眉もほわほわとした地毛だけ。ぽってりとしたくちびるには色がなく、印象が薄く見えた。
「水守 楓です。父に言われて参りました」
彼女はそう言うと頭を下げた。
「……驚きました」
「え?」
「私、あなたのお嬢さんにお会いしたことがあります」
「梓に?」
「ええ。それから亡くなった二人の男性にも」
私は息を飲んだ。
「本当にたまたまだったんです。でも、お会いしたからこそわかります。……ごめんなさい、私の手には負えません」
「そんな……」
「アレは、神の領域のものなんです。私じゃあ手が出せない。対峙したときも震えが止まらなくて」
「神……」
集落の言い伝えを思い出した。
首刈峠の奥には古い神社がある。そこには二柱の神さまがいて、集落を守ってくれるのだという。神との通信役をするのが、羽黒女と、羽白女──。
そういえば、どうして忘れていたのだろう。神は2柱いる。羽黒女は村にいた。では、羽白女とはなんだったのか。
私は、彼女……水守楓を伴って、首刈峠に出かけた。
ガードレールを乗り越える。
草で覆われた岸壁には、じつは秘密の入り口があるのだ。きっと私を”羽黒女”にするつもりだった母に、教わっていた。
蔦を掴んで慎重に降りていく。足をすべらせた。荒い呼吸が止まらない。なんとかたどり着いたのは、ぽっかりと口を開けた洞窟。その奥へ進んでいく。
「ああ、ここそのものが、神域なんですね」
楓が眩しそうに言った。
「本当は、村から直接行くことができる。でもそうしたら、妨害されるかもしれない。だから緊急用として教えてもらった通路で来たの」
「妨害……」
楓がぶるりと震える。
本当に頼りなさそうで、不安になってきた。
「あの、お話聞いてて思ったんですけど」
楓が控えめに切り出した。
「”喜”の名をもつ人は、器という話。あれはたぶん合っていると思います。じゃあ、なんの器だったのか。神が顕現するための器だったんじゃないでしょうか」
「顕現?」
「そうです。梓さんの中に入っているのは、梓さんじゃない。神そのものだと思っていて。あの後ろにあるものは、防御装置みたいな意思のないものなんじゃないかな、って……」
だんだん自信がなさそうに尻すぼみになっていった。
「負の感情に反応して攻撃する感じに思えました。だから、攻撃してきた人は亡くなってしまった。真喜さんは、アレの正体を見抜いていて、悪感情を持ってる。でも庇護者だから警告だけ……」
「怖いこと言うのね」
「っ、すみません、すみません!」
「……いいの。もう少し聞かせて。私がわからないのは、アレは、自分を梓本人だって思ってるような気がすることなの。母は違った。自分のことを”羽黒女”だと言ってて、まるで女王のような感じがあった」
「……推測でしかないんですが。半分成功して、半分失敗してるんじゃないですか?」
「半分?」
「えっと、梓さんの身体を乗っ取ることには成功した。だから中身が別物であることは確かだと思うんです。でもその中身の、神の記憶までは引き継げなかったんじゃないかなって。なんていうのかな、エラー? バグ?」
「なんでそんなことが起こるのよ」
「”許し”がなかったからとか?」
「あ」
確かに母は”杏喜”と名前を変えさせていた。でも、後付けじゃ効果がなかったとしたら。
洞窟を奥へ奥へと進んでいった。外は日差しが強くなってきて、汗ばむくらいだったのに、ここはひどく寒い。
「うわあ……」
開けた場所についたとき、楓が声を上げた。
「綺麗」
洞窟の奥は、すべて水晶のような透き通った鉱物でできていた。
その奥には御神体があった。丸い古びた鏡だ。ひどくぼろぼろなのに、山奥の浅い泉を覗いたかのように、怖いくらい透き通っている。
その中に、小さな背中が見えた。
「……っ、梓!」
「あ、近づいちゃだめです!」
楓が服の裾を引っ張る。
「なにするのよ!」
「今は触っちゃだめ。今度はあなたが取り込まれます」
「いいの、いいのよもう」
「梓ちゃんには、ちゃんと、自分の身体を返しましょうよ」
そう言われて、私は手を下ろした。
鏡の中からこちらが見えるのだろうか。小さな梓が硝子を叩くように、泣いている。
そのとき、かつかつとヒールの音が響いた──。
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