オリーブに満ちる月
見たことのない色の雲だ。
そう思っていたら、ぼとりぼとりと大きな雪が降り出した。歩いていても押し流されそうな強い風が吹きつけて、店の窓を叩く。
数日後だった。店の前に置いてあったオリーブの木が枯れてしまった。

※※このおはなしは、『恋が叶うサロン・アンシャンテシリーズ』の最終話です。単体でも読めますが、この順番で読んでもらうとより楽しめます※※

「せっかくのシンボルツリーなのに」
アシスタントの崎本悠真が残念そうに眉を下げた。
「新しい木、探しに行ってこようかな」
「HUSHっすか? 俺行きましょうか」
Lenaは首を振る。そして彼の耳元に近づいて「今日デートでしょ」と言った。悠真の顔がぼっと赤くなった。
行き先は同じ方向だったので、店を閉めたあと、いっしょに向かう。
「でも、Lenaさん。ほんと、仕事休んだほういいですよ。店休日でもなんかいろいろしてるでしょ。休んでるの本当見たことない」
「うーん。私の生きがいだからなあ」
雲はほとんどないのに、ちらりちらりと、また雪が降ってきた。街のネオンに照らされて色づいていた。新月の夜だった。
「じゃあまた」
分かれ道で悠真がひらひらと手を振る。
悪いことをしたな、と思った。Lenaに合わせてゆっくり歩いてくれていたと思う。悠真の姿が見えなくなったのと同時に、たったっと軽快な足音が遠くなっていった。
「あれ」
園芸店『HUSH』は、臨時休業だった。扉が開いて、背の高い童顔の男性と、同じく童顔の女性が出てきた。
「あ、Lenaさん!」
女性──花村沙希が駆け寄ってきた。
「どうかされたんですか?」
男性のほうは沙希の夫だ。この店の店主で、花村健太郎という。ふたりは一年ほど前に結婚したばかり。まるで運命に出会ったとでもいうようなスピード婚だった。
「店の前に飾る木を探そうと思って来たの。オリーブが枯れちゃって。寒さのせいかなあ」
「ああ、そうだったんですね。店開けましょうか」
「ううん、だいじょうぶ。もしかして、なにかの記念日?」
健太郎は照れくさそうに「結婚記念日です」と言った。
「え、もうそんなに経つんだっけ。おめでとう」
「ありがとうございます!」
沙希がはにかむ。はじめて店に来たときは、地味で野暮ったいと自分を否定していた沙希は、すっかり垢抜けた。
Lenaが教えたメイクやヘアアレンジだけじゃなく、今は自分が好きで似合うものを、自分の目と手で見つけ出せるようになっていた。沙希の目には、以前はなかった余裕があった。
こういう変化を目の当たりにすると、この仕事をやっていてよかったと思える。だれかの人生の分岐点に立ち会えたというような、特別感。
Lenaは店に戻った。
隣の店との狭い隙間を通って、アンシャンテの裏側に回る。
そこには水色にペイントされた木戸がある。抜けた先にあるのがLenaの家。ビルに囲まれた中にぽつりと佇む、洋風の古い平屋だ。
玄関をくぐると、Lenaは橘南海子に戻る。
「女性は本名を出さずに活動するのがいいよ」と教えてくれた先輩といっしょに考えた名前は、旧姓の「連城」のれ、名前の「南海子」のなをかけ合わせたもの。
外は風が冷たくて、ほんの少し歩いただけなのに、顔がひりひりと痛かった。室内のあたたかさにほっと顔がゆるむ。キッチンからいい匂いが漂っていた。
「おかえり」
夫の誠が言った。
「ただいま」
ダイニングテーブルの上には、ほかほかと湯気を立てる食事が並んでいた。誠の分はない。先に食べたのだろう。
鮭のムニエルは、外側がカリッと焼けていておいしかった。レモン味のソースが爽やかに鼻を抜ける。
パセリとコーンのバターライス。これは粉末や缶詰を使ってもいいけど、フレッシュなものを使うと格別においしいのだと前に誠がはなしていたっけ。
グリーンサラダには自家製のにんじんドレッシングがかかっている。スープはクラムチャウダー。
ふくふくと笑顔になって「ごちそうさま」と言うと、誠が変な顔をしていた。
「……どうしたの?」
「なみちゃん」
「うん」
「あのさ」
そのまま俯いてしまう。
南海子は立ち上がって誠のそばへ言った。目を合わせてくれない。そんなことははじめてで、なんだか嫌な予感がした。
すっと差し出されたのは、記入済の離婚届だった──。
「なみちゃん……?」
モーツァルト・ミルクをちびちび飲みながらぼんやりしていると、声をかけられた。志帆だった。
そういえば、バー『Nagi』は彼女に教えてもらったのだった。
「どうしたの」
志帆は、ぱきっとしたライムグリーンのスカートに、線の細いボーダーのトップスを着て立っていた。
黒いロングコートを脱ぎ、椅子の後ろにそっとかけると、南海子のとなりに腰をおろした。
「……旦那が出て行ったの」
「え?」
「離婚届置いて。理由もわからない」
南海子はグラスに残っていたカクテルを一気にあおった。
「マスター、1杯だけ飲んで帰ります。早めにできるやつで」
志帆の家に来るのははじめてだった。
店や南海子の家がある中心地から3駅ほどの、閑静な住宅街。数年前にできたばかりのマンションの5階だった。
「きょう、子どもたちいないから」
扉が開いてまず目についたのは、綺麗に整頓された靴棚だった。その上には、結婚式のときの写真や、子どもたちの七五三の写真などが置かれている。
「母さんの家に泊まってるの。うち、父が亡くなってからは、母もいっしょに転勤族やってるのよ」
志帆はそう言うと、おろしていた髪の毛を後ろでひとつにくくった。すっすっと髪の毛を引き出していく様子はすっかり手慣れていた。
「母はね、この近くのアパートに住んでるの。引っ越しは慣れっこだからあまり苦にならないみたい。私も助かっててさ」
志帆に案内されてシャワーを浴びる。ぼんやりと浴室を出ると、そこにはきっちり丁寧に畳まれたTシャツとスウェット、それからふかふかのタオルが置かれていた。
「あのね、こういうときは一人にならないほうがいいよ。旦那には事情話してるから。帰ってはくるけど気にしないで」
ソファの上に体育座りをする。
テレビのバラエティ番組がかかっており、蛍光灯の光がこうこうと照らしている部屋は、南海子と誠の家とはずいぶん違った。
誠は、地元の名士の息子だ。
家は一等地にあり、豪邸と言っても差し支えのない広さ。だだっ広くて、隠し通路があると言われてもおかしくない雰囲気。周りをビルに囲まれているからか、街中にあるのにいつも静かな場所だった。
誠はテレビをあまり見ない。だから、ふたりの家にはいつも、音がなかった。互いの生活音だけがしんしんと雪のように積もっていく。
「誠さんって、あの橘家の人でしょ? どうやって出会ったの?」
志帆が聞いた。
「お客さまが、誠さんの妹だったの。それで縁をつないでもらったというか……」
義妹と夫は10も年が離れている。
誠は物静かでおっとりとした性格だけど、義妹はまったく違った。いつも明るく、好きなものがたくさんあって、くるくると表情が変わる人だ。
プロポーズはなかった。
気がつくと結婚する流れになっていた。周りが。
もちろん嫌だったら受けるわけがない。誠といっしょに過ごす時間は静かでゆっくりと流れていたし、彼は、南海子の秘めた思いに気づいてくれたはじめての人だった。
燃えるような恋情はなくても、隣でゆるやかに年を重ねていける相手だと、そう思っていたのに。
誠の言葉に甘えて、家事を任せっきりになってしまったのがいけなかったのだろうか。
22時半を過ぎたころ、志帆の夫・直哉が帰宅した。ネクタイをゆるめ、くつしたを脱いで放る。
「ちょっと! 友だちが泊まるってLINEしたじゃない」
ぷりぷり怒る志帆を見て、不思議な気持ちになる。
志帆はキッチンに戻り、鍋に火をつけた。炊飯器からごはんを出す。白いつやつやの粒の一つひとつから立ち昇るように、湯気が上がっていた。
次にフライパンに入れたままだった麻婆豆腐を温めはじめた。
味噌汁を掬うのに伏し目がちに見える志帆を、なぜだかとても、綺麗だと思った。
直哉は、とても感じのいい人だった。
けれどもトレイにきれいに並べられた料理を見ることもなく、テレビに視線を移して、無感動に食べていた。南海子はふと思った。
(これは、私たちだ)
けれども男女が逆転している。
南海子が家に帰ると、いつもふわりと湯気の立ち昇るごはんがあった。
南海子は誠の顔を見てはなしはするけれど、彼のはなしを聞いたことはあっただろうか。仕事のことばかりはなしていなかったか。
食べ終えた食器を下げたり洗ったり、そういうことをしたことがあっただろうか。
誠は公務員だった。
外で働きながらも、家のこともすべて担ってくれていた。それを、志帆の動きを見て思った。どれも南海子がしたことのないことばかりだったのだ。
翌朝、店に出勤したあとは、また家での生活がはじまった。これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。家に帰っては落ち込み、バーに足を運ぶ。ほろ酔いでかえって沈むように眠る。
誠からの連絡はなかった。
離婚届を出したいとは思えず、けれども彼に自分から連絡することもできずに、どんどん日が過ぎていく。
「Lenaさん、最近肌荒れてません?」
悠真が尋ねた。お酒もあるだろうし、たぶん、コンビニ弁当ばかり食べているからだろう。
Lenaは料理ができない。
もちろん、どんなものを食べるか組み合わせを吟味すれば栄養バランスはよくなると思う。でもLenaはそれをしなかった。
その時食べたいものを、数も決めずにただカゴに放り込んでいた。
誠の料理は、どれもお店のような味と見た目で、とても凝っていた。
もしかしたら彼は、料理をつくるという作業がとても好きだったのかも。
離れてみて、そんなことを思う。
「Lenaさん!」
その日は、同じ時間にふたりの予約が入っていた。女子高生だったときにはじめて会った永田未羽は、もう大学3年生になっていた。
その日は、恋人と一緒に来店した。恋に苦しんでいた彼女は、解き放たれて羽化して、どんどん綺麗になっていく。
その目には恋人しか映っておらず、また、相手もそうだった。Lenaは眩しくなった。
誠と会うのをこうして楽しみにしていたころが、たしかにあったのだ。
学習発表会のとき、男役をやるように言われたことがある。
幼稚園のときだ。南海子は背が高く、顔立ちもシャープだった。しかも、母がざくざく髪を切ってショートヘアにしてしまっていた。
切りっぱなしで、けれどもざくざくと段がある髪だった。段が空気を含み、もこっとふくらんで、おしゃれとは言い難い髪で、鏡を見た南海子は泣いた。あれから髪をショートにしたことはない。
みんなが桃色のふわりとした衣装で踊る中、南海子は光沢のある燕尾服のような衣装を身にまとい、男役を演じた。
「なみちゃんには似合わないよ」
みんなが口々に言った。そんなの言われなくたってわかっていた。でも南海子は桃色が好きだった。かわいいものを愛していた。
南海子には歳の近い兄がおり、服はたいていお下がりだった。そしめて、そういうシンプルで飾り毛のないものが似合ってしまう自分のことが、きらいだった。
ある日、百貨店に行ったとき、ピアノの発表会で着る服を自分で選んでいいと母が告げた。
迷わず桃色のふわふわしたドレスを選んだ。
花びらのように重なったスカートは、胸の少し下あたりで切り替えられており、共布のリボンで結ばれていた。妖精みたいで一目惚れだった。
はじめて好きな服を着てうれしかったけれど、鏡の中の自分はひどくちぐはぐだった。
結局南海子は、ストンとした黒いサテンのワンピースを選んだ。
可愛いものは、バッグの中だけ。
いつからそういうルールを自分に課したのだろう。
誠からはじめてもらったのは、ファンシーな絵柄の缶に入ったチョコレートだった。
「こういうの、好きそうだなって」
誠は顔を赤くして、言葉少なに言った。
奈美子の鞄を指していた。鞄そのものは革のシンプルなものを使っていたけれど、頻繁に取り出さないようなポーチは、パステルカラーでかわいいものばかり選んでいた。
南海子はこのとき感動した。この人は自分のことをよく見てくれていると、そう思ったのだ。
改めて園芸店『HUSH』に足を運んだ。
花村健太郎が経営するこの店は、男のための花屋といった雰囲気だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁。棚は黒いアイアン系の金具と、こっくりと、深いブラウンの木でできている。
可愛い花は置かれておらず、店内に入るとまず目につくのはエアプランツやビカクシダと言った吊るされた植物たち。そして、シャープな雰囲気の観葉植物が、ゆったりと並んでいた。
南海子は店の前に所狭しと並んだ屋外用の鉢植えを見繕っていた。枯れてしまったオリーブの代わりになるものを探した。
「いまのイチオシは、ツリージャーマンダーですよ」
花村が言った。彼はもう30を過ぎているのだが、20代前半にしか見えない。
「シルバーリーフっていって、こう白みがった茎や葉なんです。そろそろ花も咲きます。このままだとクールな感じなんですけどね、花は薄紫で可愛いんですよ」
「へえ」
気になってネットで検索してみる。
「あ、かわいい」
「でしょ。二面性があるのもいいし、地植えだったら生垣みたいにも使えるんすよね。ちょっと暴れるけど」
「そうなんだ。いつも思うけど、こう、四季の姿とかさ、成長イメージみたいなのを見られたら、買う決意がつきやすいよね」
Lenaが言うと、花村はぱちぱちと瞬いた。
「それいいっすね。うわあ、メモしておこう」
『HUSH』は、最近すごく変わった。
以前は経営が苦しいと言っていた。
親から花屋を引き継いだ花村は、男が入りやすい花屋を、と大改装した。
Lenaはこのスタイリッシュさが店に合うので初期からよく通っていたけれど、客足は伸びず、花村は店を閉めたあとコンビニでバイトをしていたくらいだ。
けれども今は、男性から女性まで、さまざまな客が店内には見られる。
「Lenaさん、店まで運ぶんで、あっちで座っててください」
「いいの?近いのに」
「もちろんっす」
店の中には、四人がけのテーブルセットが置かれている。
沙希のアイディアだと言う。彼女は結婚後、仕事をやめて夫の店を手伝うようになった。
もともと得意だった事務仕事だけを請け負っていたが、彼女にSNSの運用を任せ、ある日ぽつりと漏らしたアイディアを採用したら、急に客が増えたのだと言う。
このカフェスペースもそうだ。
包んだり配送したりするあいだ、ここでハーブティーを飲むことができる。ドリンクバーのようにさまざまな茶葉からセルフで入れられるようになっていた。
休憩中だった人同士で話が弾んだ。好きなものが同じ人たちだったから、あっという間にコミュニティが生まれ、口コミで広がって言ったのだという。
面白い試みだと思ったのは、「植物保健室」だ。
こちらで買った植物に限り、無料で生育相談に乗るものだ。動画を使ってオンラインでも対応しているため、出張したり持ってきてもらうことなくできるという。
花村といっしょに、店まで数分の距離を歩く。
「ツリージャーマンダーの花言葉は、誠実らしいっす。こういうの俺は疎いんだけど、沙希がひとつひとつ調べてPOPをつけたらね、なんか女性に人気で」
花村の口からは、いつも沙希をほめる言葉が出てくる。いいな、と思った。
誠実。
頭の中に浮かんだ2文字がまた、夫を想起させる。
店の前についた。
「あれ、Lenaさんこれ……」
花村が、枯れたオリーブの前にしゃがみこむ。
「枯れた部分だけ剪定したら、大丈夫っすよ」
「え、そうなの?」
「はい。この程度なら大丈夫。オリーブって強いんですよ……うわあ買ってもらって申し訳ないな、Lenaさんもよかったら今度使ってください、保健室」
剪定したらやり直せる──。
ひとりきりの家に戻って、美容院の口コミを確認する。
『Lenaさんに切ってもらって、恋が叶いました』
こんな感想がたくさん書かれている。
Lenaはふしぎだった。どうしてこんなことに。まるで魔法の店みたいに広まっていく、うわさ。
Lena自体にはそんなちからなんてないのに。
(もし私に魔法が使えるのなら)
満月の光が落ちてくる静かな部屋に、はさみの音だけが響いていた。ずっと伸ばしていた髪の毛を、Lenaは思いきりよくカットした。切りっぱなしにして、クールな雰囲気に。
それはロングヘアよりもずっと、南海子に似合っていた。
カップラーメンの空き容器がいくつもテーブルの上にあった。食べ終えるとすぐに眠気が来る。急いでお風呂に入り、歯磨きをして、沈むようにねむる。
ここは誠の実家なのだ。別れるならば、出ていかなければいけない。店は、……どうしよう。
「それにしてもLenaさん、思い切りましたね」
すうすうする首元が気になって、毛先に手をやっていたら、悠真が言った。忙しい日だった。
ようやく落ち着いてきたところでドアベルが鳴る。
様子を伺うように入ってきたのは、スーツ姿の男性だった。キノコ柄のネクタイが印象的だ。
「魔法にかかりにきました」
にこにこしてそう言う男性に、Lenaは「なんのはなしですか」と返した。
「いや、じつはですね。私が出会う女性がどんどんきれいになっていくんですよ。みんながここに通っているというのでね。私も女性にモテる髪型にしてほしくて」
白いクロスをかけると彼はそう言った。
「はあ……」
しばらく伸ばしていたのだという少し長めの髪。
いくつか聞いてみたけれど、長さを変えずに雰囲気を変えるのが良さそうだと思った。
サイドの髪の毛を少し短くして、後ろは長さを残したままウルフカットにしてみる。
「うわあ、いいっすねー。これで私にも魔法がかかったかな」
Lenaは吹き出した。
「お客様が色々おっしゃってくれてますけど、魔法じゃないですよ。その人が本来持っている魅力を引き出してるだけなんです。素敵じゃない方なんていません」
「……いいっすね。私もそう思います。女性はみんな素敵だ。Lenaさん自身も、考え方も美しいと思います」
小西氏が帰った後、ふと鏡を見てみる。
シャープにカットした髪型は、とにかくLenaに似合っていた。しっくりと来た。
でも、好きなものは。
Lenaは少しだけはさみを入れた。やわらかさと軽やかさを足してみる。顔の形に合うように気をつけながらも、好きなものを入れ込む。
お客さまには当たり前のようにしていたそれを、Lena自身がやっていなかったことに気がついた。
「アシスタントの面接希望なんですけど……」
悠真が頭をかきながら言った。
「あの子なんですよ。……断ります?」
小比類巻雛乃は、初めてこの店に来たときと同じように、ピンクベージュのロングヘアだった。後ろの低い位置でまとめて編み込んでいる。人形のようなメイクも変わらない。
けれどもLenaは「おや」と思った。あのころにはなかった、目の輝きがあった。
「以前は、迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
開口一番、雛乃は頭を下げた。
「それがわかっていて、あたしの面接を受けてくれて、ありがとうございます」
「どうしてうちに?」
悠真が、警戒した感じで訊いた。
「未来がはじめて思い描けたんです。あなたの、Lenaさんの言葉がきっかけでした」
Lenaは面食らった。記憶にはなかった。
「ただ流されるように生きてきました。自分の足元は不安定で、それを埋めるようにいろんなことをしていました。悪いとも思わなかった。やりたいことなんてなくて、今しか見えてなかったんです」
雛乃はまっすぐに顔を上げた。
「あなたが、美容に向いてるかもと言ってくれて。それで目の前が変わったんです。お客さんを綺麗にしていく自分の姿が、はじめてイメージできた。すごくわくわくした。顔を変えるの、好きです。髪だって結び方ひとつで印象が変わる。カットそのものを学びたいって思って」
彼女は、専門学校を卒業し、資格もとっていた。正直意外だった。
「小比類巻さん、ずいぶん変わりましたね」
Lenaは思わずそう口にしていた。雛乃は目をぱちぱちと瞬かせたかと思うと、長いまつ毛を伏せた。
「祖父が亡くなったんです」
雛乃はぽつりぽつりと話しはじめた。両親にも見放されたこと。高齢の祖父が迎えに来てくれたこと。祖父といっしょに田舎で暮らしながら学校に通ったこと。
その生活の、地味で大変だけど、愛おしかったこと。
「虫がね、やばいんですよ。あっちはもう本当に」
雛乃はうげという顔をした。昔の彼女が顔を覗かせた。
「祖父が亡くなって、思ったんです。時間って限りがあるんだなって」
時間は有限。
その言葉が引っかかって、南海子は誠にメールを送った。
誠はメッセージアプリを使っておらず、やりとりはいつもショートメール。
スタンプもないそれは、無機質だった。でも、遡ってみる。短くて無骨だけど、そこには労りがあった。
どうして誠は別れを切り出したのだろう。
これまで自分たちは、ふつうの恋愛結婚の夫婦とは違うと思っていた。身を焦がすような恋心はなくって、月の光みたいに穏やかで静謐な愛情だと。
でも離れてみて、身を引き裂かれるような思いに気がついた。
──新月の夜だった。
空には月の光がなく、星々が冷たく瞬いている。
一人の男が、水色の木戸をくぐる。周りを取り囲むようにぐるりと建つビルの灯りがこぼれてきて、家そのものに照明が当たったようにくっきりと見えた。
男は、これまで自分が帰ってきたときとなにかが違うことに気がついた。玄関の灯りがついている。いつも自分がつけていたのに。
古い平屋の玄関をカラカラと開けると、ほんのわずかに軋んだ音がした。
家の中はほの暗く、靴を脱ぐと板の間がひやりと足裏に触れた。ふと、鼻をくすぐるものがある。煮炊きのにおい。炊きたての米のふくよかな匂いと、なんだろう。卵を焼いている、におい?
男が仕事から戻ると、家はいつもひんやりと冷たくて、暗かった。
音もにおいもない空間だった。
その真っ暗な箱に、一つひとつ灯りをともすように、音を、においを、家族が待つ温かさを植えるのが男の生きがいだった。
でも、こうして迎えられてみると、感極まるものがあった──。
「……なみちゃん」
久しぶりに会う誠は、なんだか窶れていた。別れを切り出したのはあなたのほうなのに。
「おかえり」
その言葉を言うのは、はじめてだった。いつも「ただいま」だったから。
ダイニングテーブルには、2人分の食事が湯気を立てている。
焼いたウインナーに硬めのスクランブルエッグ。そこにマヨネーズをかけただけのもの。ごはんと、インスタントの味噌汁。
その日は、駅前のスーパーで冷蔵庫から溢れ出しそうなくらいたくさんの食材を買って帰った。レシピを見ながら作ったものの、どれも絶望的に不味い。
料理をせずに生きてきた南海子が作れるのは、兄が教えてくれたこの名もなき料理だけだった。
「誠さん、ごめん。あなたみたいにうまく作れなかった」
涙がじゅわりと滲んできた。
彼が離婚したいと思ったのは、こういうところが原因なのだろうか。
そう思って顔を上げると、誠はぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。
驚いて、涙がぴたりと止まった。
「──つらかった」
誠は言った。
「君に会わないのがこんなにつらいなんて思わなかった」
ふたりは無言のままテーブルについた。
「……君は、悠真くんのことが好きなのだと思った」
だから身を引こうとした。そんな告白からぽつりぽつりとはじまり、普段は寡黙な誠が、せきを切ったように語りだした。
はなしはあちこちに飛び、そこに南海子も自分のことを付け加えた。
気づくともう、なんのはなしかわからなくなっていた。
それに気づいたとき、ふたりは思わず笑った。
── 一年後。
美容院アンシャンテは、新しいサービスをはじめた。
店舗を増築し、その一角にオープンキッチンを作ったのだ。
硝子張りになっているそこは、料理教室になっている。硝子張りといっても、路面側ではなく、橘家の庭を削ったものだから、外からは見えないプライベートな雰囲気になっている。
講師は橘誠。夫は仕事をやめた。Lenaのサポートを選んだ。
経営から事務までなんでもこなす彼に料理教室を提案したのはLenaだった。
自分でキッチンに立ってはじめて、教えてもらわないとむりだと思ったのだ。美容のことならなんでも感覚でわかった。それを理論と知識で補強してきた。けれども料理は理論を知ってはじめて作れるようになった。
コースはいろいろ。
一番人気なのは、女性に人気の”恋飯”コース。おしゃれだけどがっつり食べられる料理を学ぶことができる。
店を閉めたあと、悠真と雛乃を見送ったふたりは、手をつないで自宅へ戻った。
ふくふくした満月の日だった。
自宅前に移植したオリーブの葉がつやつやときらめいていた。
(10,000字)
恋を叶えるサロン・アンシャンテシリーズ『完』
あとがき
このおはなしは、美容院について書いたエッセイについて、コニシ木の子さんから創作が読んでみたいとコメントをもらったことから生まれたものです。
月曜日にエッセイを出し、コメントをもらいました。
それから火曜、水曜、木曜、金曜と毎日1つずつ書いて公開し、今日の土曜日で回収期間中に完結までたどり着けました。
すべて合わせて38000字と中編小説になってしまいました……!
(コニシさんごめんなさい……コンパクトにするはずが……)
自分とはまったく違う人たちのはなしなので、バックグラウンドまで掘り下げながら書いていったのですが、すごくたのしかったです。
仕事や月刊誌作成、そしてワンオペ家事育児をしながら書き上げました。
先週は公募用に5万字を3日で書いていたし、こうやって「自分に〆切を課すこと」で書けるんだって思いました。
今までは時間がないって諦めてきたことでもあるので。言いわけをせずに、楽しくたくさん書いていきたいです。
読んでくださった全ての方に、お礼を!
お付き合いいただき、ありがとうございました。
※『まいにち魔女』のおつぼね様・田中視点のリクエストがあったので、思いついたら来週書きます。
※『まいにち魔女』のはなしだけ課長が出ていなかったので加筆修正しています!
※この小説は裏テーマとしてそれぞれにモチーフを用意していました。わかった方がいたらこっそり教えてください。笑
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最後までお読みいただき、ありがとうございます♡