【暗がりを、抜ける】 │ ヤンデレ猫ちゃんの使命 #9 day4
すべてが凪いでいた。
わたしという存在がばらばらに壊れて、まるごと作り変わった。
フカの死には、それくらいの衝撃があった。
▼このお話は「ヤンデレ猫ちゃん」シリーズです。愛猫フカが亡くなったあとの7日間で、生活をどう立て直したのかを綴っています。
単体でも読めるように書いていますが、最初から読むとわかりやすいです。
Fになったふたり(4日目/月曜日)
朝目を覚ますと、横で眠っていたはずの猫がいなかった。
夫が口を開けて眠っている横顔が、ぼんやりと見えた。
アラームを止めて、しばらく布団の中でもがいていたけれど、月曜日だ。
意を決してごろりと身体を左に向ける。
手にふわふわしたものが触れた。機関車トーマスのパジャマ。
よろよろと立ち上がり、コンソールテーブルに置いたはずのめがねに手探りでたどり着いた。
クリアになった寝室には、バロの代わりに、アルファベットの「F」みたいな寝相の夫と息子の姿があった。
思わずくすりと笑みがこぼれる。
「にゃあん」と声がした。
入り口のところにバロがいる。
とたんに ”F” になっていた息子がバッと飛び起きて、「バロー!!!!」とバロにしがみつく。
バロは目を細めて喉をごろごろ鳴らした。
電車観測のために
「ああ、外に出たくない」
息子を素顔で送ったあと、わたしはぶつぶつと何度もくり返しながら、なんとかメイクをした。
もう、適当だった。
人によって「これをしておけば大丈夫」というポイントは違うらしい。
ある人は「チークがないと血色が悪くて無理」と話していたけれど、わたしの場合、それはリップだった。
どんなにアイメイクやチークをしっかりしてみても、くちびるに色を乗せないだけで素顔に見える。
そんなわけでじつは、すべてのバッグに口紅を忍ばせている。
リップなしだと鏡やガラスに映った自分を見てぎょっとするレベルで不健康になってしまうから、コンビニで何度も何度もリップを買っていた。
そうして増えに増えたものを、思い切って「リップを忘れたとき用のリップ」にしてみたのだった。
バッグ一つにつき、予備のリップを一本。
これで、出先で慌てて買うことがなくなった。
わたしが渋っていたのは、移動が大変だったから。
その日は息子の習い事があり、迎えに行かなければならなかった。
涼しくなってきたから自転車で行きたいけれど「電車に乗りたい」というのが彼のリクエストだった。
夏の暑い時期に、自転車での送迎に限界を感じて電車に乗ってみた。
それ以来、息子のなかにルーティンが生まれた。電車を見つけたり乗ったりしたら、日づけと見つけた数を記録するもの。

記録用の紙はA4のコピー用紙。
彼が自分で枠を書き、数字を記入している。
数字を書く練習にもなるし、可愛い習慣なので、そっと見守ることにしている。
そう、わたしは息子の”電車観測”のために、自転車で行くことができないのだった。
乗り継ぎや待ち時間を合わせて、1時間半はむだにしてしまう。
「乗せてやろうか」
夫がえらそうな感じで言った。
わたしたち夫婦の関係性について補足を入れておくと、17歳からの付き合いなので、ふだんは互いにふつうの夫婦よりかなり子どもっぽい感じで対応している。
習い事の近場のファミレスまで送ってくれるという。
めずらしく夫のほうからの提案だった。
たぶん、わたしが本当に限界だとわかっていたのだろう。
わたしは「乗せてくれてもいいよ」と、傲慢な感じで答えた。
7日目の約束
柔らかい日差しがわたしの手元に落ちていた。
今年の夏は暑かったからか、道路沿いに立ち並ぶ木々はまだ青々としている。
夫が「あれ、いつまでやるん」と訊いた。
「線香」
「……ああ」
そのうち言われるだろうなと、思っていた。
硬いシートに体を預ける。
風が窓を叩くのにぼんやりと気をやりながら、どう答えようか考えていた。
「毎晩やっとるやろ。習慣になったら抜けないんじゃないの」
夫は前を向いたまま続けた。
「いや、7日間でやめる」
わたしはきっぱりと言った。これは断言できた。
「できんやろ。……怪しい方向に進んどらん?」
「本当にやめるから大丈夫だよ」
非科学的なものが許せないというくらい苦手な夫は、わたしが騙されていないか怪しんでいた。
「……でもさ、あれって本当だね。供養は、亡くなった人じゃなくって、遺された人のためにあるものだっていうこと」
「ああ……」
わたしが話題を変えると、夫は頷いた。
フカが亡くなるまで、わたしには、その感覚がさっぱりわからなかったのだ。
「親世代の人らってさ、信心深い人多いじゃん」
わたしは、運転する夫の横顔に目をやった。
「今までマジでわからんって思ってたけど、ちょっとだけ、気持ちわかるわ」
わたしも同感だった。
真夜中のリビングで線香が燃え尽きるまで、フカを偲び、夫と話す時間が、確実にこころを癒しているのを感じていた。
(……お父さんもそうだったのかな)
声に出さずに思った。
祈る背中
父のことを問われて、まず思い浮かぶのは、祈る背中だ。
犬の散歩中、必ず立ち寄る神社があった。
水仙の花に囲まれた土手を通り、鬱蒼とした木々に囲まれた神社にたどり着く。
鳥居から社までほんの数メートルしかない、とても小さな神社だ。
さくさくと砂利を踏みしめ、父は力強く歩みをすすめる。
賽銭箱に硬貨を落とし、ひもを力強く引く。
鈴の残響のなかで静かに手を合わせ、家族の健康と無事を祈る──それが、父の日課だった。
幼少期、わたしが週末を過ごしたのは、じつはほとんど、病院かお墓だった。
当時はそれが当たり前だと思っていたけれど、親になってみて「あれ?」と思った。
今のわたしたち家族は公園に行ったり、水族館に行ったり、アスレチックをしたりしている。
カラオケに行ったり、コンビニでおにぎりを買って車で食べながら他県まで足を伸ばしてみたり、家でみんなでマリカーをしたり。
……そう。遊んでいるのだ。
もちろん、わたしにもそういう記憶はある。
いろいろなところに連れて行ってもらった。
けれども、人生の中の一定の時期 ── たとえば、わたしが娘と同い年の8歳だったころ、入院していた祖父母のお見舞いに頻繁に連れ出されていたことを思い出した。
祖母の見舞いは毎週末。
ベッドのそばに腰掛けて、祖母の話をたくさん聞いた。病室はあまり明るくなかった記憶あがる。記憶はくすんだ水色。
戦争の話や猫の話、少女時代近くに住んでいた人がのちに著名な芸術家になったはなしなど。
それを一つひとつノートに書き留めて、自分でパソコンに打ち込み、冊子のようなものを作ったのを覚えている。
今思うと、あれがわたしがはじめて、自発的に自分で文章を書いた瞬間だった。
一方、祖父の見舞いは毎晩必ずだった。
夜7時になると、必ず病院に連れ出された。
こんなに毎日来なくてもいいのになあなんて薄情なことを思っていた。
だって、漠然と大丈夫だと思っていた。
祖父は家に帰ってくるって。
当時のわたしは、死というものに一切触れたことがなかったので、祖父がいない未来なんて、想像したことがなかったのだ。
そのうち帰ってきて、嫌いなピーマンをわたしの皿に乗せたりするんだろうなと思っていた。
だから、毎日続くお見舞いが大げさに思えた。
祖父の同室には、同じ小学校に通う3つ年上の男の子がいた。
自然と仲良くなった。
祖父と両親が話している間、わたしはその子のベッドの横の丸椅子に腰掛けて、その子やそのお母さんといっしょに他愛のない話をしたり、アニメの「怪盗セイント・テール」を観せてもらったりしていた。
たぶん最終回を見た日も、彼といっしょだった。
男の子とは家も近かったので、彼が退院し、中学生になるまでの数年間、たまに道ですれ違って話をした。
もう名前も思い出せない。
今はきっと会ってもわからないだろう。
大人になってから後悔した。
きっともっと、祖父と話したほうが良かったのに。
でもわたしがいないほうが、両親は祖父と一緒にゆっくり過ごせただろうか。
祖父は、初雪の日に亡くなった。
危篤の知らせを聞いたわたしはピアノ教室から飛んで帰った。両親はすでに服を着込み、エンジンをかけて待っていた。
車で病院に向う途中、ふみきりで止まる。
きとく、キトク、危篤。
テレビかなにかで聞いたその不穏なワードはあまりにも現実味がなく、それでいて、心臓はばくばくしていた。
でも、その時点でもまだ、わたしには想像がついていなかった。
真っ暗な夜にしんしんと雪が降っていて、踏切の赤いランプがいつもと違って怖くて不安になったことを、よく覚えている。
キリギリスは墓地の蟻を眺める
ふたりともが亡くなったあと、週末を過ごす場所の多くが、お墓になった。
月に1、2回は、絶対に家族全員でお墓参りをする。
それがわが家の習慣だった。
たぶん、わたしが中学生になる前くらいまでの。
広大な霊園では、車を止めたあと、長いこと歩かなければいけない。
途中、売店でお供えの花と、お菓子を買う。
いつも行くから売店のおばちゃんにはすっかり覚えられていて「今回もペロペロキャンディでしょ」と、緑と白の縞模様のキャンディを差し出された。
ピンクと白のものもあったけど、わたしはいつも「おじいちゃんのだから」と緑の方を選んだ。
大人になったわたしのてのひらくらい大きな棒付きのペロペロキャンディ。
ずっと祖父の好物だと思っていた。
祖父と暮らしていたころ、ペロペロキャンディを小さく割って食べているのを何度も見たから。
おとなになってから「おじいちゃんってペロペロキャンディが好きだったよね」と母に言うと、弟が残したものを、もったいないから食べていただけだったのだと、微妙な顔で言われた。
それじゃあ、毎回わたしがお供えするペロペロキャンディには、祖父は苦笑しただろうなと思った。
祖父はクリームソーダも大好きだったと思うけれど、頼むだけ頼んで「ジカジカする」と残してしまう、幼いわたしのために飲んでいたのだろうか。
祖父母の声はまったく思い出せない。
顔はぱっと思い浮かぶけれど、遺影の澄ました顔だけ。笑ったり怒ったりするような表情が想像もつかなかった。
わたしは今、炭酸を好んで飲んでいる。
お墓に行きたくないのには理由があった。
子どものころから怠け者だったわたしは、単に、労働がきらいだったのだ。
恥ずかしくて人に言ったことはないのだけれど、自分のことはずっと童話『アリとキリギリス』のキリギリスのようだと、はっきりと自覚していた。
お墓に着いたらまず雑草を根こそぎ抜く手伝いをしなければいけない。
わたしは、これがとびきりきらいだった。
ちぎれた草から出てきた白い汁がぬるりと指先に絡みつくのも、青臭いにおいが鼻につくのもいやだった。
それを見た父に手渡される軍手の無機質なデザインも、汗ばむ手にごわごわとこすれる感じも不快だった。
強い日差しで背中がじりじりと焼かれていく。
墓の裏側に回り込み、”草抜きをするふり”をしてしゃがみこむ。
額にじわりと浮かぶ汗の珠をぬぐい、しゃがみこんで、土の上を列をなして動く蟻を眺めていた。
運んでいるのは、どこかほかのお墓から持ってきたのだろう、お供えの菓子の、かけら。
あのころ、墓地にいる蟻が大きいのは、お供えものをたくさん食べて太っているからだと、本気で思っていたっけ。
蟻にも小さなものから大きなものまで、さまざまな種類がいると知ったのは、夫と娘が蟻の飼育キットを買った、ほんの数年前だ。
父が枯れた花を取り替え、持ち運びできるラジカセのボタンをカチリと押した。
広大な墓地の、見える範囲にはわたしたち家族しかいない。
静まり返ったなかに響く単調なお経の音が、じっとり湿った夏の空気を揺さぶっているように感じられた。
父は、暑い日には墓石に水を打つ。
木のひしゃくを振ると、水がきらきらと飛沫を撒き散らしながら弧を描き、乾いた石の表面にじゅわりと広がっていく。
そのたびに、灰色だった墓石は濡れて黒く光り、太陽を反射して、きらめき出す。
最後に、父が墓石を隅から隅まで、ていねいに拭きあげる様子を、すこし離れた場所からぼんやりと見ていた。
父の動きは、なにかを修復する職人のように見えた。
高いところから水を落とすように、きゅっ、きゅっと力を込めて拭く音が聞こえるなか、わたしは少しずつ気配を消して墓から遠ざかり、木陰に逃げ込んだ。
あのころ、わたしは思っていた。
祖父母のことは大好きだったけれど、肉体も心も、ここにはもうない。
ここまで力を入れて供養をする必要があるのだろうか、と。
今思い返してみると、それくらい、両親の様子は必死に見えた。
わたしにとって、死というのは、無だった。
永遠に覚めないねむりのように、その場からぷつんと消えてしまう、そういうイメージを持っていた。
でも、今ならわかる。わかってしまう。
よく言われることは本当だった。
供養は、遺された者のためなのだ。
甘露
両親は、祖父母といっしょに暮らしてきた。
当時もう珍しくなりはじめていた、核家族では無い、二世帯住宅のわが家。
母にとっては血のつながりのない義両親だけど、母はふたりを尊敬していると、何度も何度もわたしに話した。
わたしが結婚するときにも、口を酸っぱくして言われたことを思い出す。
「おかあさんもそうだったんだけどね、尊敬できるお義母さんといられることは、かけがえのない幸せだよ。
いいお義母さんに出会えて、よかったね。感謝しないといけないよ」
義母──夫の母のことを、わたしはとても慕っている。
実母もまた、彼女の義母にあたるわたしの祖母を、敬愛していた。
看取ったのも母だったと記憶している。
お盆のころ、長い時間をかけて、丁寧に作られる母の"煮しめ"を思い出す。
わたしはそういう背景に思いを馳せたりせずに、好物のこんにゃくを真っ先に狙っていた。
母は、真夏でも銀色のステンレスの、大きな水筒に、熱いほうじ茶を入れて墓参りに持参していた。
舌をやけどして、なかなか飲めないことに苛立ち、わたしは「どうして冷たいのにしてくれないの」と口をとがらせた。
でも、あれは甘露だったのかもしれないと思う。
わたしはごくわずかな働きしかしていないけれど、動いて疲れたあとにちびちびと口に含む温かいお茶は、格別においしかった。
父も母も淡々としているように見えたけれど、本当は、深く傷ついていたのだ。
フカが亡くなってから実感した。
あの頻繁に出かけたお墓参りは、父と母の癒やしの儀式だったのかも。
今ならそう思う。
はじめて”死”が間近に迫る経験
そしてわたし自身も、記憶にないだけで祖父の死に重いショックを受けていたのだと、今になってわかる。
わたしは「-4.5」のコンタクトレンズをつけている。
「めがねざる」
男子にそうからかわれたのは、2年生の冬だった。
祖父が亡くなった直後にわたしの視力は急激に落ちて、とつぜん、めがねが必要になったのだ。
それは自業自得だったのだけれど、思い返すときっかけがあった。
暗い部屋で眠れなくなったことだ。
はじめて死に触れたからなのだろう、当時のわたしは、部屋の電気を落とすと、目の前にいろいろなものが飛び交っているような幻覚に襲われた。
真っ暗な部屋に、同じく真っ黒な人魂のような影が、光らない蛍のように飛び回る。
今でも鮮明に思い出せる。
はじめは布団をかぶっていたけれど、アレがふとんの隙間から入り込んできそうな気がしたし、息苦しくてむりだった。
だから、常夜灯をつけて眠るようになった。
ところが、それが今度は眠りを妨げてしまった。
もともと寝るのが不得手なのに、明るさが気になって、まったく眠れない。
ひまな時間がなによりもきらいだったわたしは、親に見つからないよう、常夜灯のぼんやりとした橙色のあかりだけで、こっそり読書をするようになった。
それを続けているうちに、視界がどんどんぼやけていった。
冬のはじめに、眼鏡を買った。
同じようなことが、娘にも起こっている。
フカが亡くなったあと、娘が一人で寝たがらなくなった。
弟とふたりで、弟の部屋で眠るようになった。
すると、昨夜からバロが”寝かしつけ”にやってくるようになった。
場所は子ども部屋。
娘のベッドにごろんと寝転がる。
そうして子どもたちをじいっと見つめて、にゃん、と催促する。
弟は「バロー!」と叫んで、バロのお気に入りのブラシを持って突撃する。
娘は狭いからいやだと、弟の部屋に残り、姉弟はしばらく部屋を交換して過ごした。

この日も。息子がバロの毛並みをなでながら眠りに落ちる。
ブラシを手に持ったまま寝息を立てる。
それを確認すると、バロは寝室にやってきて、わたしが絵を学ぶのを近くで見守っているのだった。
子どもたちだけじゃない。
わたしも同じだ。一人で眠れない。
祖父が亡くなったあとと同じように、灯りを落とすこともできない。
わたしは、フカの毛並みに似た、ふわふわの灰色のクッションを図書室から持ち出した。
そうしてバロがさわりにくい位置にいるときは、毎晩それを抱きしめて眠るようになっていた。
迷い込んだ路地裏のはなし
ファミレスの駐車場で夫に下ろしてもらったわたしは、はじめて立ち寄る店に多少もたつきながらも、窓際の明るい席を選んだ。
カフェオレを頼み、パソコンを開く。外で仕事をするのはいつぶりだろう。
「クリアファイルの捨てない活用法」をいくつかしたためる。
まだ時間があったので、飲みもの1杯では申し訳なく、デザートも追加で頼んだ。
そうして久しぶりに2時間ほど仕事をした。
パソコンを開けば、文章はいくらでもするすると出てきた。頭ではなく、手で書いているという感じがあった。
スマホを見る。
そろそろいいだろう、息子を迎えに行くために外に出た。
この場所から歩いて行くのははじめてだ。
道がさっぱりわからずにナビ通りに進んで行くと、ちょっと不安になるくらい狭い道にたどり着いた。
横幅は、人と人が、身体を傾けてやっとぶつからずにすれ違えるくらい。
高い塀に囲まれた家と家の隙間にあるその道は、まさに”路地裏”という感じだった。
ほとんど陽の差さない場所なのに、なぜか不思議な清涼感があった。
風が吹き抜ける感じだとか、コンクリートの隙間から、雑草がたくましく顔を出している様子だとか。
物語がはじまりそう。
わたしの頭のなかに、あるアイコンが浮かんだ。
そうだ、あの人に「おめでとう」を伝えたいな、と。
創作大賞で受賞した人のことが思い浮かんだ。
わたしがずっと放置していたnoteを再開したのは夏休みだったので、そういったコンテストがあることも知らずに、応募することもしていなかった。
それからしばらくして、8年続けた連載が打ち切りになったり、自分の書く意味がわからなくなったりして落ち込んでいたとき、わたしはその人を見つけた。
これまでは「活用法」「ライフハック」「術」がつくもの以外、わたしの書くものに意味がないと思っていた。
生活を注意深く観察し、頭をひねり、たくさんの実用的なことを書いては世に送り出してきた。
けれども、近ごろはそれに意味があるのか疑問に思っていた。
わたしが凛花という名前を自分につけた10年前とは、世界のありかたがなにもかもが変わっていたからだ。
彼を見つけたわたしは、恐る恐る、わたし自身のことを書いてみた。こんなこと書いたって、誰も興味ないだろうというような、わたし自身のことを。
硬い文章だった。
すぐに反応してくれたのがその人、コニシ木の子さんだった。
彼と、彼が創り上げた「路地裏」と呼ばれる世界に迷い込んだことが、わたしの視野を大きく広げた。
「なんのはなしかわからないことでも書いていい」
それはひどくあたたかな世界に思えた。
少しずつ文章はほぐれていった。
コラムを書くうえでは不必要な、ふわふわできらきらの装飾をほどこすと、すごくしっくりくる感じがあった。
少女時代の自分の文体に戻ったような。
安心して書ける場所を提供してもらっている。
だからこそ、少しずつ慎重に羽を開くように、わたしの書くものは変わってきた気がする。
あたたかなつながりの中で出会った人たちの多くが参加していたことから、自分には無関係でありながらも創作大賞の結果が気になり、そわそわしてひっそりと行方を追っていた。
フカが亡くなったのは、そんなとき。
noteの創作大賞の結果が発表されたあたりだった。
ベストレビュアー賞の中に、コニシさんの名前がある。
それを知ったのはたぶん、Xで誰かが書いていたからだと思う。絶望の中に、一瞬日が差し込んだように、口元がほころんだ。
でも、たった一言の「おめでとうございます」を書くことができなかった。
そのころのわたしは、絵文字を打てなくなっていた。普段と違いすぎて、お祝いムードを欠片も演出できないとわかりきっていたからだ。
ツイートもその数日間は、普段と相当雰囲気が変わり、このまま戻れないのではないかとすら思っていた。
でも、迷い込んだ路地裏を見たとき、わたしは、うずうずした。
歩いていくと、こんな狭い道にもかかわらず、赤と白の縞々模様の庇テントが見えた。昭和にタイムスリップしたようなクリーニング屋さんがそこにあった。
一見すると暗く見えて、閉まっていそうな店内は、奥のほうにわずかに蛍光灯の光があることから、営業中なのだとわかった。
路地裏を創り上げる壁は、それぞれの家の外壁だ。
新しくておしゃれな今風の家から、ふるさとでは見ない瓦屋根の重厚な雰囲気の家までいろいろな家で構成されていた。
わたしは、その道の、地面の写真を撮った。

このエッセイも、彼を見かけていなければ、はじまってすらいない。
コニシさんは母だった。
( #なんのはなしですか )
お祝いとお礼、両方を伝えたいと思った。
家族やフカ以外にこころが向くのはとても久しぶりだったけれど、すっかり頭が鈍くなっていて、どうすればいいか迷った。
”サポート機能”がいいのかな。そう思いつつも、この時期はnoteを開くこともできずにいた。
Xをさっと一瞬だけ開き、DMとスタバのギフト券を贈ることにした。
これは相手の名前や住所を聞かずに贈れるので、仲良くなったSNS上の人へのプレゼントとして重宝していた。
「すっかり遅くなってしまったけれど」と、路地裏に立ち止まりお祝いのメッセージを打ち込んだわたしは、時計を見て焦る。
お迎えに遅れそう。
結局、わたしがDMを送れたのは翌朝だった。
コニシさんはフカが亡くなったというつぶやきを目にしてくれていたみたいだ。
ものすごく忙しいだろうに、気遣ってくれて、一文字一文字じっくり考えて送ってくれたのだろうなと思う返事が、とてもありがたかった。
最後に路地裏の写真を送ったら「ちょっと本当に何言ってるかわからないです。笑」と言われて、久しぶりに笑った。
そのとき、わたしの頭の中には、早歩きで路地裏を抜けたときの情景が鮮明に浮かんでいた。
高い塀が両側にそびえ、木々の枝葉が塀を覆うように垂れ下がっていた。
昼間でもどこか薄暗く、木漏れ日が点々と地面に落ちて、ざらざらとしたアスファルトの質感を浮かび上がらせていた。
向こう側にかすかに明るさを感じながら一歩一歩進むたび、空の広がりがちらりと視界に入る。
塀の終わりにたどり着くと、一気に空があらわになった。
薄青の空に、綿のような雲が棚引いていた。
あとがき ── 痕跡を消す
この日、銭湯から戻ってきたわたしを見て、夫がヘッドホンを外した。
久しぶりのひとり時間はどうだったかと尋ねられた。それからぽつりぽつりとなにかを話し、わたしはすぐに2階に上がった。
頭の中は、取りこぼしたくない記憶でいっぱいだった。
この章は午前3時までかかって一気に書き上げた3章分の記事のうち、ふたつめ。
この日は子どもたちに寝室を占拠されていて、書斎を使えなかった。
書斎を寝室の横につくったのは、子どもたちが寝たあとに仕事をするからだ。それまでのわたしは、子どもが眠ったあとに、真っ暗な部屋の中で、パソコンの光だけを頼りに書いていた。
書斎をつくり、ようやく明るい部屋で書ける。そう思ったのに、フカがじゃまをした。
フカは閉じている扉がきらいだ。
わたしがそばにいても、二本足で立ち上がってどんどん叩きつける。
フカが自由に出入りできるようにするため、書斎の扉はつねに10cmほど開けておく必要があった。すると、書斎の灯りが子どもたちの顔のあたりに当たってしまう。
そういうわけで、わたしは念願の書斎でも、真っ暗な部屋でパソコンを打つしかなかったのだった。
時は遡り、フカが亡くなって3日目、日曜日のはなし。
午睡を防ぎたかったわたしは、書斎の大掃除をはじめていた。
デスクの上は割ときれいだったけれど、一時置き場として用意している金色のフレームのバスケットの中身を、それぞれ図書室や、書斎の引き出しの中へ戻していく。
大理石風のデスクの天板を、綺麗に拭き取る。窓のサッシは久しぶりに掃除した。
どんどんきれいになっていく書斎で、家具もどかして、床をそうじしていく。
「これは……」

フカがあまりにも邪魔をしてくるので、フカ専用の居場所として引っ張り出してきたそれは、書斎のテイストに合わない、フカのためだけの居場所だった。
わたしは、グレーのオットマンを、図書室に戻した。
ここにフカがいないこと。
それが辛くてもとに戻したのだけれど、それはそれで、また一つフカの痕跡を消したようで辛かった。
残すのとどちらがよかったのだろう。正解はわからない。

もうフカはいないのだから、書斎の扉を締め切って、堂々と明るい部屋で書くことができる。
けれども、わたしの頭の中からその考えはすこんと抜け落ちていた。
わたしは娘の部屋の、ガラスのテーブルにパソコンを広げて、まっすぐに画面に向かい、時折涙を拭いながらこの章を書いたのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

▼次回のおはなし。
わたしたち夫婦は、5日ぶりに動物病院に向かう。バロの健康診断をするためだ。フカはあっという間に病状が悪化してしまった。バロは何度も検査やエコーをしていたけれど、念のため調べようということになったのだった。その結果は……。
▼最初から読む
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最後までお読みいただき、ありがとうございます♡