【#創作大賞2026】一架の声が聴こえる?(六)
前回
(六)
電話が震えたあの時、恐る恐る話しかける声を聴いた時。あぁ、きっとこのために私はいたんだと思った。
長谷川、という名前を聞いて藤波は一瞬「全く話が見えん」という顔をしていたけれど、すぐにその名が前日に会った女性教師を指していることに気づいたようだった。
彼女がベテランそうな藤波ではなく私に電話を掛けてきたことにはきっと意味がある。だから、どうしても一人で行かせてほしいと頭を下げた。
──その長谷川って女の先生、ウチに赴任してきたの先月だよ。
話してくれる。あの日あの部屋で押し殺されていた彼女の声を聴ける。
誰がどう見ても重要で、誰がどう見ても上司に同行してもらうべき状況だけど、それでも私は彼女の覚悟に報いたかった。
私にできる精一杯の誠意で、安心して話してほしかった。
藤波は「お前には力不足だ」とか言って付いてくるかと思ったが、意外にも「おぅ、気張れよ」などと言いながら一人でオフィスに帰っていった。肩透かしを喰らった気分。憎らしかったが、急に一人にされるとちょっと寂しい。心配だ。本当に私一人で大丈夫だろうか。
はやる心臓を紛らわせるために、このクソ暑い季節に妙に早歩きで約束の場所まで辿り着いてしまった。
指定された店に先に入っておく。昌徳高校からは電車で二駅ほど離れた人気の少ないカフェだった。
待つこと五分、彼女が姿を現した。
「それで、お話ししたいことというのが……」
「長谷川さんがこの学校にいらした経緯でしょうか」
「あぁ、もう知ってらっしゃるんですね」
理事長室で見せた不安そうな顔よりずっと柔らかく、でもどこか気まずそうな笑みを浮かべて彼女は話し始めた。
「お話しできることが何もない、というのはある意味本当なんです」
長谷川唯(ゆい)という名のその女性教師は元々昌徳大系列の他の附属高校で働いていた。二年目でまだ担任を持ったことはなく、突然の移動についても「大きな影響はない」と自他ともに思えるポジションにいた。
担任教師の育休や病気、急遽代わりが必要になることは珍しくないし、そういう時に系列校から余裕のある教師が移動するのはよくある話のようだ。
「おかしいなって思ったのは引き継ぎの時からなんです」
前担任はすでに体調不良で退職しており、書面のみでの引き継ぎ。二、三年でクラス替えはないコースのはずなのに何故か三年からの記録しか書面には残っていなかった。
普通なら退職が決まってからも少なくとも数ヶ月程度猶予があってもいい。受験も重なるこの時期にここまでバタバタと担任が入れ替わるのは決してよくあることとは言い難いケースだった。
「教室の雰囲気もなんかちょっと変なんです。最初は私が経験不足なだけかなって思ったんですけど」
「でも違った?」
「はい、たしかに」
みんなどこか距離があるんです、と彼女は言った。
このクラスには何か触れてはいけないものがあって、それに触らないよう、踏まないよう、みんなそっと薄氷の上を歩いている。
外部から突然入った自分には何があったのかわからない。それでも彼らと自分を隔てる〝何か〟があって、それを誰もが教えてくれない。引き継ぎ資料にもない。同僚や先輩たちには曖昧に濁されて実態が見えない。ただ危うい〝何か〟に包まれていた。
「宮島さんは特に問題行動があるようなタイプではなくて。少し無気力気味なことがずっと気になっていましたが、捉え方を変えれば物静かな子ともいえます」
高校の教師というのは小学校のそれとは違い、一日中受け持ちの生徒を見ているわけではない。
出会った時から「大人しい子」だった宮島は特別注視される存在ではなかったらしい。
「どちらかと言えば一人でいることの方が多かったような気がします。でも、別にクラスで人間関係に問題を抱えていたというわけではなさそうなんです」
和やかな雰囲気で彼女が話しかけられたり笑っているところもあったので……と話す長谷川の姿はどこか自信なさげに見えた。こんな話何かの役に立つかな、と困ったようにはにかむ。
彼女はそういうけれど、私は内心初めて〝普通の子〟〝普通の女子高生〟〝普通でなんの変哲もないクラス〟が揺らいできたような気がしていた。
「今の話、理事長さんや校長先生には……」
「はっきりと話したことはありません。なんというかタブーみたいな空気だったんです。昨日の受け答えだって、僕らがなんとかするから明確な答えは避けろって」
「学校は一体何をそんなに隠したがっているんでしょう」
長谷川はしょんぼりと首を振る。
「わかりません。でもっ、今日はこれを渡したくて!」
彼女がテーブルに出したのは二つ折りのメモだった。受け取って中を開く。細いボールペンの文字で何やら住所と名前が書かれている。
「これって……」
「そうです。前任の住所だと思います。彼女本当に急に退職したみたいで、だから一回荷物が届いたんです。ほら返却するものとかあったみたいで」
彼女は自分のメモを慈しむように見つめながらポツリと呟いた。
「なんでかわからないけどメモしとこうと思ったんです、あの時。きっとこのためだったんですね……」
「どうして……」
怖がっていたはずだった。昨日初めて出会った長谷川唯という人間はあの部屋でずっとビクビクしていた。曖昧で、自分の言葉を持つことを許されず、小さくなって与えられた役割を全うしていた。
目の前の彼女と昨日見た彼女とで何が違うのかにわかにはわからない。推し量るように目を見ると長谷川は少し表情を緩めて言った。
「ずっと怖かった」
その声音はもう怯えた色は持っていなくて、どこか清々しささえ感じるものだった。
「まだ担任を持ったこともなくて、棚ぼたで急に担任になれて。絶対チャンス逃したくないって思った。それに来てまだ一ヶ月でしょ。ここで下手なことしていられなくなったら次どうしようって思っちゃった」
「どうして、話してくれたんですか」
そう訊くと何故か長谷川は髪を耳にかけながらふふっと笑った。
「あなたが言ったのよ。〝大切な生徒の尊厳を守るため〟って。たった一ヶ月だけど大事にしたいって思った生徒だもの。何か、彼女の助けになれますかね」
あぁ、やっぱり私がこのヤマに付けてもらったことに意味があったんだ。
アポなんて取れるわけないと思っていたけど、あの電話に意味があったんだ。
電話口で話を聞いてくれた人。断ろうとしていて、それでも最後には上に取り次いでくれた。それは彼女の教師としての矜持だった。
「必ず、意味のあるものにしてみせます」
怖かっ〝た〟と彼女は言ったけど、絶対に今だって怖いはずだ。それでも彼女がスッキリした顔で去っていくから、私は頑張らなければと自分に喝を入れた。ここまで来てくれた長谷川唯のために。今も静かに心を閉ざす宮島結愛のために。
無駄にしたくない。もらったメモを大切にしまって、藤波の元へ走った。
***
初めて一人でいった取材は緊張どころの騒ぎではなかった。やってるときは会話にいっぱいいっぱいで、緊張というより目の前のことに必死で集中し切っていた。
別れた途端、急激な疲労感に見舞われた。
「お腹空きすぎ〜。糖分! 糖分! あぁ、もうこれでいいか」
夕方のコンビニは品薄で、不服だったがあんホイップパンを買って咥えた。一瞬あの意地悪男が私を呼ぶ声が耳に甦ってこないわけでもなかったが、あんホイップに罪はない。
一人で取材に行けたし、しっかり次に繋がる情報も得た。早く報告したくてオフィスへ半ばスキップしながら向かう。
「あれ?」
そういえばまだ藤波はオフィスにいるだろうか。
どっちみち今日はデスクに戻らなければならないが、彼はもうとっくに帰っているかもしれない。せっかくのいいニュースなのに会って報告できないとなると少々残念だ。
「いなかったら電話しとくか〜」
多少の遅くなっても藤波さんは電話に出るだろう。どう考えても夜行性っぽそうだし。
とはいえ、今日は誰かに優しく褒められたい。歩きながらそんなどうでもいいことに頭を悩ます。
「あ、先輩がいるじゃん!」
先輩、というのは名を東堂(とうどう)といい、入社してからずっと私の指導係についてくれていたあの女性社員である。今日はデスクでゆっくり残業できるので会えるかもしれない。
これまでは心のイナジマリー東堂さんに藤波の悪業を言いつけてきたが、今日は久しぶりに先輩の発するマイナスイオンを直に吸える可能性が高い。
そう思うとより一層足取りは軽く、駅からオフィスまでの道のりも若干縮んだような気さえした。
デスクに着くなり近くの社員に先輩の居場所をさりげなく訊いてみる。はぁ〜、早く会いたい。
仕事もできて、美しく、何より優しい。この体力勝負な出版社で誰よりも逞しい憧れの先輩。資料室にいるというので喜び勇んで突撃しようと思ったその時だった。
「それ、いつまで続ける気なの」
資料室から漏れ聞こえてきたのは先輩の声だった。喜び勇んで扉を開けようとノブに手をかけたその時。
「ご遺族だってあなたがそうし続けるの、望んでないわよ。藤波くん」
その名を聞いて足が止まる。
ご遺族……? 先輩はたしかに「藤波くん」と呼びかけていた。ということは話しかけている相手は……。
「これぐらいしかできないからよ。せめても、だ」
ここ数日、すっかりと聞き慣れた藤波のざらついた声だった。
「もう五年よ」
「罪滅ぼしにしては短すぎる」
盗み聞きはいけないと頭ではわかっていても、進むことも立ち去ることもできなかった。罪ってなんだ。藤波に罪があるのか。五年前に何があったんだろう。頭の中が疑問でいっぱいで、でもどこにもぶつけられない。
聞いてはいけない。聞いたら何かが変わってしまう。それが恐ろしくて、聞きたくなくて、それなのに無性に知りたかった。何があったのかどうしても自分の耳で聞きたかった。息を潜めて耳をそばだてる。
「そろそろ本当の意味でヒヨリさんの死に向き合う時なんじゃないの?」
「彼女の背中を最後に押したのは俺だ。赦される気はない」
会話が聞こえたのはそこまでだった。静かになった資料室から足音がこっちに向かってくるような気がしたで踵を返してトイレに逃げ込む。
「ヒヨリさん……」
噂に聞いた亡くなったという彼女さんだろうか。
──元恋人かなんか自殺? してるらしいよ
彼が「人殺し」と噂される理由が彼女の死に関わっている。
背中を押したのは自分だと藤波ははっきりとした口調で言っていた。藤波が彼女を死へ追い詰めた。
そんな人だっただろうか。
壁にもたれかかり目を瞑る。
ここ数日の藤波を何度も何度も脳内で再生する。
わからない。わからない。わからないことだらけで、聞けないことだらけだ。
──気晴れよ。
それでも私は心のどこかで、あの男が「やっていないでほしい」と願っている自分にどうしようもなく気づいていた。
続く
