いいエッセイは身を削らないと書けないのだろうか

いいエッセイが書きたい、おもしろいエッセイが書けない、そんなつぶやきをこの時期にはたくさん見た。

いいエッセイってなんだろう。おもしろいエッセイってどんなのだろうとふと考えた。
つぶやいている方には明確にあるのかな。いいエッセイは人を感動させたいとか、おもしろいエッセイはくすりと笑える話とかだろうか。

むずかしいね。

じゃあわたしは何を書いているんだろう。


いいエッセイ…イメージとしては感動エピソードとか、家族愛とかも入りそうだ。困難をのりこえたりもあるだろう。


なんとなく、身を削っている気がするのは気のせいだろうか。家族のこんな話、自分の内面の話、それをたくさんの人に読まれることを覚悟する。それを超えた先に読者との心理的な壁が取り払われ、近くなり、人によれば共感する。

一方で書く方は、身を削り心を削りボロボロに近くなるのではないだろうか。

なんでこんなことを言ってるかと言うと、まさにわたしはこうやって書いてきたからだ。メンタルの記事を書くときに、とくに創作大賞に出すときなんて、それはそれは全ての自分の内面とできごとと過去に向き合った。おそらくこれはカウンセリングなどでやることなのでは?と思った。内容に必要だからあの出来事にも触れておこう…これも…あのときの気持ちも…扉をいくつもあけて向き合った。しんどかった。泣いた。

できあがったのはわたしの内面モリモリの重くて暗いメンタルの話だ。

これは…いいエッセイなのか?

届く人はたくさんいた。うれしかった。実際にメンタルで悩んでいる人、同じような人が共感してくれた。

でもそのほかの人はどうだろう。重たすぎるよね。
わたしが書いてボロボロになると同時に読む人にも重たい。これを読んで「ああ、いいエッセイだった」と思うだろうか。

書ける人もたくさんいらっしゃると思うけど、わたしの技量だとちょっと難しそうである。


最近思っていることがある。
ああ、もう昔のことはいいかもしれない。

もう見つめなくても、昔の自分を癒そうとしなくても大丈夫かもしれない。
きっと、ボロボロになりながらも、その頃の自分に向き合ったことは大事なことだったんだと思う。幼少期の自分と、昔の自分と向き合うということ。
まぎれもなく、わたしはわたしを癒したのだ。


うつ病になったときに買った本がある。わたしはそれをバイブルのようにしてずっと読んでいた。その本の後ろの方にはワークと称して、マッサージとか、思考の方法などが書いてあった。それぞれのワークには星マークがついていて、星が多くなるほど要注意という意味だった。心が疲れているときはするべきではない、むしろやらなくてもいいという意味だ。

だいたいが、過去の記憶をたどる作業だったと思う。

その本ではうつ病の原因のほとんどは「幼少期の経験にある」と書いてあり、その内容におどろくと同時にいろんなことに合点が行ったことを覚えている。

だからその幼少期のことに向き合うということは大事ではあるけれど、それほど危険でもあるということだった。


おそらく、わたしは無意識にこのワークのようなことをやっていたのだと思う。
書いてあるとおり、すごく大変なことだったけれど「もういいかも」と思えている自分がいる。
「満足感」とか「達成感」とかそんな言葉はちょっとちがう。「もういいかも」と思っている。

それは紛れもなく、このnoteを書いてきたからだ。書いて、向き合って、泣いて、書いて。たとえ重くていいエッセイではないとしてもわたしには必要なエッセイだったはずだ。


いいエッセイが書きたいとわたしも思う。でもそれが何なのか、わたしはまだわかっていない。
できることならば、悲しくなくて、重くなくて、気分が晴れるようなものがいいなと思う。

そんなことができるだろうか。やり方がわからないかもしれない。
書いていたら見つかるだろうか。生きてるうちに一つでも書けたなら。楽しそうだ。


いいエッセイも、おもしろいエッセイもそれをきめるのは自分ではなく読者の方なんだと思う。でもできるなら書く方も書いてよかったと思うものを書きたい。そうできたなら、きっとたのしい。

おわり


わたしなりの答えを書きました。

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