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境界

まだ、名のないわたし

ここは、はじまりよりも前。
時間が、息をひそめている場所。

上下も、昨日も、明日もない。
ただ、淡い光がゆらゆらと揺れている。

わたしは、そこで眠っていた。
眠りと目覚めのあいだで、
「まだ、来ていない存在」として。

あるとき、空がひらいた。

音もなく、裂けることもなく、
ただ、水面がほどけるように。

その向こうに、世界があった。

光の粒が舞い、
たくさんの想いが行き交う場所。

笑いは風になり、
涙は雨になって、
祈りは静かに昇っていく。

わたしは、空から覗き込む。

ひとり、またひとり。
数えきれない命の気配。

その中に、
不意に、ひとつの灯りが見えた。

大きくも、強くもない。
けれど、揺らぎ方が、なぜか懐かしい。

理由はない。
選んだのでもない。

ただ、わたしの奥が、知っていた。

──あそこ。

わたしは、天使のもとへ向かう。
羽も影も持たず、
願いだけを連れて。

天使は、星の縁に座っていた。
顔は見えない。
けれど、声はとても近かった。

「見つけたのね」

天使は、問いではなく、
確信の言葉でそう言った。

「わたし、あの人たちのところへ行きたい」

声は震えなかった。
決まっていたことのように。

天使は、しばらく黙っていた。
沈黙が、空を満たす。

「その世界には、形がある」
「痛みがあり、別れがあり、
戻れない時間がある」

それでも、と
天使は言葉を続ける。

「それでも、行く?」

わたしは、光の中で、うなずいた。

「行きたい
名前を持って
呼ばれて
忘れられて
それでも、また思い出される場所へ」

天使は、微かに微笑んだ。

「じゃあ、準備をしよう」

わたしは、待つ。

想いは糸になり、
糸は輪郭をつくり、
輪郭は、ぬくもりを覚える。

心臓の音は、まだ遠く、
けれど確かに、こちらへ近づいてくる。

そして、光が重くなった朝。

「今よ」

空が、道になる。
雲は階段になり、
風は、背中に触れる。

「怖れは、置いていかなくていい」
天使がささやく。

「それも、一緒に持っていきなさい」

わたしは、境界に立つ。

光と音のあいだ。
静けさと、最初の息のあいだ。

ここを越えたら、
もう、この場所は思い出せない。

だから、最後に、空を見上げる。

まだ、名のないわたし。
まだ、呼ばれていない世界。

世界が、静かに、息を整える。

——わたしは、
まだ、ここにいる。

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