見出し画像

ベルナール・ライール『社会学のために』:(結論)民主主義のための科学

全6回にわたってお届けしてきた、ベルナール・ライール『社会学のために』の読解連載も、いよいよ今回が最終回です。

ここまで、現代社会を覆う「自己責任論」がいかに強者の特権を隠蔽し、弱者を脱現実化して追い詰めているか、そして世界を実体ではなく「関係」として捉えることの重要性を学んできました。

最終回となる今回は、原著の「結論(Conclusion)」をもとに、ライールが最後に私たちへ手渡してくれる壮大なメッセージ、『民主主義のための科学』についてお届けします。


1.「役に立たない学問」と叩く、国家のシニシズム

ライールは本書の最後で、政治権力による社会科学への執拗な攻撃に怒りを燃やしています。 かつてサルコジ大統領は、高校の経済社会科学コースを「冗談(blague)」と呼び、人文学への投資を「経済的に割に合わない」と切り捨てました。

そしてこの冷酷な実利主義は、現代のエマニュエル・マクロン大統領にも見事に引き継がれています。

現在、フランスでは高等教育や研究予算が次々と削減され「市場の役に立つ、すぐにカネになる資格を配る銀行」として教育を再定義しようとする圧力が強まっています。これは、いまの日本における人文学・社会科学バッシングと全く同じ構造です。

しかし、ライールはこれに強く反論します。学校とは単に「儲かる資格」を配る場所ではなく、共通の文化を築き、世界を解読し、人間が主体的になる(エマンシペーション:解放)ための思考の習慣を授ける場所です。

社会学の祖デュルケームは、次のような不朽の名言を残しています。

「ある民族が民主主義的であるかどうかは、公共の事柄の進め方において、討議、反省、批判精神がどれほど大きな役割を果たしているかによって決まる。 逆に、無意識、告白されない慣習、不透明な感情――要するに、検証から遠ざけられた『偏見』――が支配的であるほど、その社会は民主主義から遠ざかるのだ」

社会学をバッシングし、大学から予算を奪おうとする国家の狙いは明白です。市民に「批判的知性」を持たれると、自分たちの政策の失敗(構造の欠陥)が暴かれてしまうからなのです。


2.道徳のお説教より、社会学という「レッスン」を

私たちは日々、自分の身の回りの極めて限定された領域でしか生きておらず、社会の全体像を見渡す時間も手段も持っていません。その空白に、お上やメディアが都合の良い「自己責任論」を流し込みます。

そこでライールは、「小学校の段階から、社会学や人類学の『知的な習慣』を教えるべきだ」という大胆な教育改革を提案します。 小学生に難しい理論を暗記させるのではありません。「物事を固定化して見ない関係論的思考」や「善悪でジャッジしない態度」を、実際の「調査の精神(esprit d'enquête)」を通じて身体に馴染ませるのです。

例えば、日本の学校でもよくある「思いやりの道徳」の授業。口先だけで「他者を尊重しましょう」とスローガン(お説教:prêchi-prêcha)を唱えさせたところで、現実のいじめや差別は消えません

ライールは、代わりに「社会学的なインタビュー」を子どもたちに実践させようと言います。 社会学のインタビューとは、警察の取り調べや企業の採用面接とは違い、相手を「裁く」ためではなく、どこまでも「理解する」ための営みです。自分の先入観や評価(ジャッジ)を完全に脇に置き、相手が言おうとしていることに辛抱強く耳を傾け、相手の靴を履いて世界を見ようとするプロセスです。

これこそが、生きた「民主主義のレッスン」です。 そして社会学を学ぶことは、他者を理解するだけでなく、「自分自身を後ろから縛り付けている社会構造」に気づくことでもあります。自分がなぜそれを欲し、なぜそう振る舞ってしまうのかという「重力」に気づいて初めて、私たちは本当の意味で自分を開放し、他者への本物の敬意を獲得できるのです。


3.行動する作家 エミール・ゾラの眼差し

ライールはここで、国語(描写)の授業のあり方を変えるため、19世紀フランスの文豪エミール・ゾラの言葉を引用しています。 ゾラといえば、あのドレフュス事件において、国家の不正に対して命がけで「J'accuse(私は告発する)」と言い放った、社会の不正と戦う「行動する作家」の象徴です。

そのゾラは、人間を描くということについて、次のように述べています。

「人間は環境( milieu )から切り離すことはできない。衣服、家、都市、地方によって補完されている。ゆえに、脳や心で起きる現象を、その背景にある環境の原因や反響を探ることなしに記すことはできない。(中略)登場人物はもはや心理学的な抽象物ではない。植物が空気と土壌の産物であるように、人間もまた環境の産物なのだ。これこそが科学的な概念である」

人間を、社会から切り離された抽象的な「自由意志の生き物」とみなすフィクション(自己責任論)の目を覚まさせるために、ゾラや社会学が実践した「徹底的な環境の記述(観察)」を、子どもたちに授けるべきなのです。

校庭の男の子と女の子の遊び方の違いを観察し、身近なテーマでアンケートを作って統計の基礎を学ぶ。そうして社会を客観的に見つめる「レンズ」を手に入れた子どもたちは、将来、大人が振りまく嘘を見破る力を持ちます。


結びにかえて:脱自然化された世界へ

社会科学は、歴史的に「民主主義の申し子(Enfants de la démocratie)」として生まれました。だからこそ、社会科学は保守的な体制からは煙たがられ、独裁政権からは真っ先に弾圧・抹殺されてきました。

格差や犯罪は、本人の意思の問題(自然なこと)だ」という権力者の欺瞞に対し、社会学は「いや、それは人間の歴史が作り上げてきた『構造』であり、したがって理性の力によって認識可能で、変革可能なものだ」と冷徹に告発し続けます。

社会学の普及は、格差や不平等を魔法のように一瞬で消し去ることはできません。 しかし、強者の「都合の良い嘘」や、他者を排斥する「自民族中心主義(エスノセントリズム)」にこれ以上ない打撃を与えます。市民が自らの生きる世界を、お上の刷り込みから脱却して主体的に作り直すための、最強の「思考の武器」になるのです。

この連載を通じて、あなたの心の中に、社会の重力を乗りこなす「ジャズのコード進行」のような感覚が少しでも芽生えたなら、これほどうれしいことはありません。

世界を裁くのをやめ、世界を理解すること。 本当の自由への旅は、そこから始まります。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。(連載・了)

いいなと思ったら応援しよう!

france_socio 執筆活動は皆様のご支援に支えられています。 いただいたサポートは、思考の質を維持し、より鋭い視座を提供し続けるための「活動資金(資料・取材費)」として大切に使わせていただきます。