45番目の、いや46番目の無実の鼻血
よもぎさんに捧ぐ
白状すると、私はいまもバイトルだ。
――というのは、だいたい本当(マジ)だ。マジ卍。
大学三年の冬も、私はバイト三昧で、中華三昧を食べる余裕すらない。
残単位、四十六。
アイドルグループか。
笑えねえ。
卒業までの距離を数字で突きつけられ、「はい努力」と言われても、バイトのシフトは代わってくれないし、人生は代返できない。
このままだと心が折れそうで、折れ線グラフにしたら急降下待ったなしだった。
「ウグゲゴ」(一人サザエさんごっこ)
その日も私は、大学近くの小さなインドカレー屋にいた。
居ちゃ悪いか。
駅から少し離れた裏通り。
ランチ後の静かな時間帯。
スパイスの匂いがじわっと空気に溶けている。
壁には色褪せたボリウッドポスター。
天井のファンは、いまにも落ちてきそうな顔で回っている。
厨房から顔を出したのは、店主のラジャさん。
四十代半ば。
白いコック帽。
額の汗はスパイス由来か人生由来かは不明。
「今日も勉強?」
「ええ、まあ……スタディ的な何かを」
私は曖昧に笑う。
本当は勉強どころじゃない。
今日、バレンタインの午後二時。
成績発表。
単位が揃えば卒業。
足りなければ、もう一年。
スマホを握る手が冷たい。
「ナン、おかわりいる?」
「ナナナナンとナンのおかわりとな……お願いします」
ラジャさんは「ラジャー」と言って厨房へ戻った。
この店に初めて来たのは一年の冬。
単位を落とし、未来を落とし、気持ちも落とした日だった。
それから四年。
レポートに追われる夜も。
試験前に胃がキリキリした昼も。
恋人と別れた帰り道も。
私はここでカレーを食べた。
ラジャさんは、いつも同じ味を出した。
当たり前みたいに。
でもそれは、当たり前じゃない。
午後一時五十九分。
店内は私と、窓際で文庫本を読む常連の男性だけ。
外は雪。
静かに、白。
二時。
更新。
――獲得予定単位総数:48
――本年度獲得単位数:48
――総単位数:124/124
――判定:学位授与・卒業
息が止まる。
十秒。
二十秒。
「あ」
声が出ない。
肩の奥で、四年間の不安が崩れる音がした。
私は卒業できる。
残単46、解散。
スマホを握ったまま顔を上げると、ラジャさんがこちらを見ていた。
「どうだった?」
「……取れました」
「全部?」
「はい。全部」
ラジャさんは、少しだけ目を細めて笑った。
「おめでとう」
軽くもなく、重くもなく。
まっすぐ。
私は、ちょっとだけ泣きそうになる。
卒業はゴールだと思っていた。
でもラジャさんの背後には、明日も明後日も続く厨房がある。
「ラジャさん、すごいですよね」
「ラジャー、何が?」
「毎日、店開けて。客が来るか分からないのに」
ラジャさんは肩をすくめる。
「大変だよ。
今日は暇だな、とか。
来月家賃どうしよう、とか。
スパイスまた値上がり、とか」
少し笑う。
「でもね、やめなければ、店は続く」
やめなければ、続く。
単純で、残酷で、優しい言葉。
私は四年間、何度も投げ出しかけた。
単位が足りないたび、向いていないと思った。
でもやめなかった。
だから今、ここにいる。
「卒業したら、どうする?」
「まだ、はっきりは」
未来は雪みたいだ。
白くて、何も書いていない。
「また来ます」
「卒業しても?」
「はい。客として」
ラジャさんはうなずく。
「ラジャー。それが一番うれしい」
外へ出る。
雪は少し強くなっている。
足跡のない歩道に、一歩。
冷たい空気を吸い込む。
くらり。
鼻の奥が、つんとする。
――あ、これ。
ぽたり。
赤。
鼻血。
よりによって今か。
私は笑った。
白い雪に、じわりと広がる紅。
必死で、格好悪くて、ちょっと滑稽。
でも確かに、四年間の証だ。
ティッシュで鼻を押さえながら、思う。
私は卒業する。
でもラジャさんは、明日も店を開ける。
続く人と、区切る人。
終わりと始まりは、同じ雪の上に立っている。
遠くで、ドアベルが鳴る。
「ラジャー!」
威勢のいい声が聞こえた気がした。
店は続く。
日常は続く。
鼻血も、たぶん止まる。
白の上の赤は、やがて雪に埋もれる。
けれど、確かにそこにあった。
それで、いい。
私は歩き出す。
ただのバイトル。
でも、やめなかったバイトルだ。
それだけで、今日は十分だ。
