井上家の食卓──夏はやっぱTUBEだね──
よもぎさんに捧ぐ
「やっぱり夏はTUBEだねぇ。」
夕飯の席に着くなり、父が唐突に言った。
箸を持ったまま、全員の動きが止まる。
誰も、今日の夕飯が音楽評論会になるなど聞いていない。
テレビからは高校野球の地方大会のダイジェスト。窓の外ではセミが人生最後のスパートをかけている。冷房は二十八度。麦茶はキンキン。どう考えても夏だ。
「どうしたの急に。」
母が冷奴に生姜を乗せながら尋ねる。
「いやさ、スーパーで『シーズン・イン・ザ・サン』が流れててさ。ああ、夏だなぁって。」
父はそう言いながら、枝豆を一粒ずつ丁寧に取り出している。
この人は昔からこうだ。
猫が増えても三週間気づかないくせに、スーパーの有線放送には異常な感受性を発揮する。
「パパって夏になると毎年それ言ってるよね。」
妹が呆れた顔をする。
「夏はTUBE、冬はユーミン、春はサザン、秋は中島みゆき。」
「人生、四季折々だからね。」
何を言っているんだ、この人は。
十五歳にもなると、自分の親が少し変わっていることくらいわかってくる。いや、かなり変わっていることもわかってくる。
だが、井上家において一番変わっているのは、誰もそれを変だと思っていないことだ。
「ほら、悠来。夏といえば何?」
「知らない。」
「もっと夢を持ちなさい。」
「十五歳の男子高校生に夏の夢を聞くな。」
「甲子園!」
祖母が元気よく手を挙げた。
「スイカ!」
妹が負けじと叫ぶ。
「エアコン!」
母が即答する。
「みんなバラバラだねぇ。」
父だけが満足そうに笑っている。
そう。井上家は昔から、全員がバラバラだ。
祖母は朝四時半に起きてラジオ体操に行く。母は植物に話しかける癖がある。妹は好きなものには異常な執着を見せる。そして父は一年中、自分の好きなものを嬉しそうに語る。
誰も他人に合わせない。
それでいて、なぜかうまく回っている。
食卓の真ん中には、祖母が作ったトウモロコシの炊き込みご飯と、母の冷しゃぶサラダが並んでいる。
「そういえば白石君、元気?」
母が何気なく聞いた。
「元気だけど。」
「この前、猫ちゃん用のおもちゃ持ってきてくれたじゃない?」
「ああ。」
「ジェットが気に入りすぎて、夜中ずっと遊んでるの。」
我が家の猫たちは相変わらずマイペースである。
父はその話を聞いて、
「あの黒い方、ジェットって言うんだ。」
と真顔で言った。
「今さら?」
妹の声が一オクターブ上がった。
「だって、この間までジェット君だと思ってたから。」
「それ、どう違うの?」
「敬称の問題。」
「そんな問題ある?」
母が笑いをこらえている。
この父は、他人の細かい変化には本当に疎い。
だが、自分の好きなものだけは驚くほどよく覚えている。
三十年前に食べた喫茶店のナポリタンの味を語れる男だ。
「悠来はさ。」
父が急にこちらを見る。
「十五歳って楽しい?」
「急だな。」
「いや、楽しいのかなって。」
考えたこともなかった。
十五歳なんて、中途半端だ。
子ども扱いされるのは嫌だし、大人になれるわけでもない。自意識だけは一人前に育って、人前で失敗するのが怖くなる。
昔みたいに変顔をして笑うこともなくなった。
「まあ、普通。」
「普通か。」
父は嬉しそうに笑った。
「それならいい。」
「何が?」
「普通って案外、幸せだから。」
そう言って、父は麦茶を一気に飲み干した。
不思議な人だ。
昔からそうだった。
誕生日には一番喜ぶし、旅行では一番はしゃぐし、新発売のアイスを見つければ写真を撮る。
もう五十を過ぎているのに、精神年齢だけ夏休みの小学生みたいな人だ。
「お兄ちゃん。」
「何?」
「最近さ、自意識過剰になってない?」
「急に失礼だな。」
「だって、学校の話全然しないじゃん。」
図星だった。
十五歳にもなると、人にどう見られるかが気になって仕方ない。
笑われたくないし、カッコ悪いところなんて見せたくない。
好きな音楽を話すのも恥ずかしい。
好きな人の話なんてもってのほかだ。
「別に。」
「思春期だねぇ。」
祖母が笑う。
「みんなそうだったのよ。」
「パパなんか五十年以上思春期だし。」
「違うよ。」
父はきっぱりと言った。
「俺はずっと夏休み。」
食卓に笑いが起こる。
何だそれ。
でも、少し羨ましい。
自分の好きなものを好きと言えて、自分のことを隠そうともしない。
父も母も妹も祖母も、みんな驚くほど自分らしい。
自意識なんてものをどこかに置いてきたような顔で生きている。
俺だけが、あれこれ考えてしまう。
食後、スイカが出てきた。
「せーの!」
なぜか祖母の掛け声で、一斉に塩をかける。
父だけが練乳を持ち出してきた。
「何してるの?」
「可能性を探ってる。」
「探らなくていい。」
父は一口食べて、
「うん、なし!」
と満面の笑みを浮かべた。
本当に自由な人だ。
自由すぎる。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見る。
難しい年頃だ。
格好つけたいし、大人ぶりたいし、人にどう見られるかばかり気にしている。
でも、この家の人たちは違う。
好きなものを好きと言う。
笑いたければ笑う。
変なことをしたければする。
父は急に両手を胸の前で組んだ。
「何してるの?」
「ツタンカーメン。」
「なぜ?」
「なんとなく。」
「意味わかんない。」
「悠来もやる?」
「やらない。」
そう言いながら、少しだけ真似をしてみた。
妹が吹き出した。
母も祖母も笑っている。
父だけが満足そうに頷いた。
まあ、こんな夏も悪くない。
十五歳なんて、きっと格好悪くていいんだろう。
自意識過剰でもいい。
少しずつ、自分の好きなものを好きだと言えるようになればいい。
ちなみに、いちご味は昔から俺の大好物だ。
それだけは、胸を張って言える。
窓の外では、まだセミが鳴いている。
明日も暑くなるらしい。
夏は、まだまだ終わりそうにない。
