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『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.48「火曜日の未契約」



よもぎさんに捧ぐ



 火曜日の夜だった。

 研究所の廊下は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。蛍光灯の白い光が、床に貼りついたように動かない。空気は乾いていて、どこか紙と古いインクの匂いがした。

 上原朔也は、立ち止まっていた。

 呼び出されたのはここだ。間違いない。だが、扉の前に立つと、どうしても手が動かなかった。ノックをするだけ。それだけのことが、妙に遠い。

 ――火曜日に来い。

 短い言葉だった。だが、逃げ場を残さない響きを持っていた。

 朔也は、ようやく拳を上げる。

 軽く、二度。

「入れ」

 間を置かず、声が返ってきた。

 低く、乾いた声だった。

 扉を開ける。

 部屋は思っていたよりも広かった。壁一面に書架が並び、中央には長机。その奥、窓を背にして一人の男が立っている。

 鳴海清一。

 光が逆光になって、表情はよく見えない。ただ、そこに「いる」という事実だけが、はっきりとした輪郭を持っていた。

「遅いな」

 鳴海は言った。

 責めるでもなく、ただ確認するように。

「……すみません」

 口から出た言葉は、やけに軽かった。自分のものではないみたいに。

 鳴海は椅子を引いた。木が擦れる音が、やけに大きく響く。

「座れ」

 言われるまま、朔也は椅子に腰を下ろす。

 机の上には、紙束が一つ。

 整えられているはずなのに、どこか落ち着かない。風もないのに、今にもめくれそうな気配がある。

 鳴海はそれを指で押さえた。

「説明は要らないな」

 そして、その紙束をこちらへ滑らせる。

 紙は机の上を、音もなく進んだ。

 止まる。

 朔也の目の前で。

「契約書だ」

 言葉が落ちてくる。

「本日付けで、当該研究所所属とする」

 紙に目を落とす。

 自分の名前があった。

 上原朔也。

 はっきりと、黒いインクで。

 その下に、もう一つの名前。

 鳴海清一。

 視線が、そこに引っかかる。

 読めるはずだった。

 知っている名前だ。何度も耳にしてきた。文字としても、意味としても、何一つ難しくない。

 それなのに。

 喉の奥が、ざらつく。

 声が出ない。

「どうする?」

 鳴海が言った。

 静かな声だった。

 だが、その静けさが、逃げ場を消していく。

 朔也は、紙から目を離した。

 窓の外を見る。

 夜だった。黒の中に、街の光が滲んでいる。まるで、水の中に沈んだみたいに、輪郭が曖昧だ。

 その曖昧さに、少しだけ安心する。

 何も決まっていない場所。

 何も名前を持たない場所。

「……」

 呼吸が、浅くなる。

 心臓の音がやけに近い。

 どく、どく、と。

 そのリズムが、頭の中で反響する。

 不意に、別の音が混ざった気がした。

 秒針の音。

 だが、どこにも時計は見えない。

 それでも音だけが、確かにある。

 心臓と、重なったり、ずれたりしながら。

 ――スムルホ・リツロヤシ。

 唐突に、そんな言葉が浮かんだ。

 意味はわからない。

 ただ、妙にしっくりくる響きだった。

 一瞬、頭が軽くなる。

 すべてがどうでもよくなるような、奇妙な解放感。

 だが、それもすぐに消える。

 現実が戻ってくる。

 机。

 紙。

 名前。

 鳴海の視線。

「どうする?」

 もう一度。

 同じ言葉。

 だが今度は、少しだけ近かった。

 朔也は、視線を落とす。

 紙の端に、小さな染みがあった。紫色の、かすれたような跡。

 ヘリオトロープ。

 どこかで見た記憶がある。

 花びらが砕けて、指に付いた色。

 あのとき、誰かが――

 思い出しかけて、止まる。

 それ以上は、進まない。

 思考が、そこで途切れる。

 まるで、道が急に消えたみたいに。

「……」

 声を出そうとする。

 だが、喉が動かない。

 名前を呼べばいいだけだ。

 それだけでいい。

 鳴海清一。

 たったそれだけ。

 それなのに。

 舌が、その形を拒む。

 音にならない。

 呼んでしまえば、何かが決まってしまう。

 そんな感覚が、指先からじわじわと上がってくる。

 決まる、ということ。

 所属する、ということ。

 誰かの下に入る、ということ。

 未完成のままではいられなくなる、ということ。

 それを、身体が先に理解していた。

「……ソンナノ・カンケイネー」

 ふと、口から漏れた。

 自分でも驚くほど、軽い声だった。

 鳴海の眉が、わずかに動く。

「ほう」

 それ以上は何も言わない。

 ただ、見ている。

 評価するでもなく、止めるでもなく。

 ただ、そこにいる。

 朔也は、ゆっくりと立ち上がった。

 椅子が、小さく軋む。

 紙には触れない。

 そのまま、後ろへ一歩。

 距離を取る。

「……」

 何か言うべきかもしれない。

 だが、言葉は出てこなかった。

 代わりに、視線が動く。

 部屋の隅。

 床の近く。

 そこに、一人の男がいた。

 机に突っ伏している。

 肩が小刻みに震えている。

 顔は見えない。

 だが、わかる。

 物語に、逃げられた男だ。

 何も書けないまま、何も掴めないまま、ただそこに取り残されている。

 朔也は、その姿をしばらく見ていた。

 哀れだと思った。

 同時に、少しだけ滑稽にも見えた。

 ああはならない。

 そう思うことで、自分の位置を確かめる。

 だが、その確かさも、どこか頼りない。

 足元が、少しだけ浮いている。

「……失礼します」

 ようやく言葉が出た。

 形式だけの挨拶。

 鳴海は、何も答えなかった。

 朔也は扉へ向かう。

 ノブに手をかける。

 冷たい感触。

 現実的な、確かな温度。

 それだけが、少しだけ安心をくれた。

 扉を開ける。

 廊下の光が流れ込む。

 一歩、外へ。

 そのまま振り返らず、歩き出す。

 足音が、規則的に響く。

 心臓の音と、今度はきちんと合っていた。

 秒針の音は、もう聞こえない。

 後ろの部屋で、何が起きているのかは知らない。

 契約書がどうなったのかも。

 あの男がどうなるのかも。

 考えない。

 ただ、歩く。

 火曜日の夜の廊下を。

 名前を呼ばないまま。

 何も決めないまま。

 それでも、どこかへ向かっているような顔で。

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