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『殴り殴られ詩人バッファーロー』ep.90 「ピンカラ文士の見送り」



よもぎさんに捧ぐ


部屋の襖を開けた瞬間、大ちゃんは固まった。

「……帰るべ。」

「待て待て待て!」

草介君もまた、玄関先で制帽を脱ぎかけた手を止めていた。

畳の真ん中に座布団を二枚重ね、その上に正座している男が一人。頭には手拭いを鉢巻きのように巻き、襟元をはだけた着流し姿。

そして胸の前で扇子を広げ、

「皆様、本日はお日柄も良く、ピンからキリまでピンカラ兄弟、朔ちゃんショーへようこそ!」

と朗々たる声を響かせていた。

「なんだ、その格好。」

「見てわからんかい。歌謡界の申し子だ。」

「文士じゃなかったのか?」

「今日は休業だ。」

俺はすっと立ち上がり、二人の前で恭しく一礼した。

「本日の演目は、『女の操』、『涙の操』、それから『バッファーロー音頭』の三本立てでございます。」

「最後なんだ?」

「俺が今朝考えた。」

「考えるな。」

大ちゃんは深々とため息をつき、その場に胡座をかいた。

「朔ちゃん、おめェ、帝大行く気ねェなら、とうとう頭が歌謡曲に支配されたか。」

「帝大へ行ってもピンカラ兄弟にはなれねェからな。」

「当たり前だ。」

「人生には二つの道しかねェ。」

「ほう。」

「帝大か、ピンカラ兄弟だ。」

「ねェよ。」

草介君がぽつりと言った。

「兄あんちゃん、その二択なら帝大だな。」

「草介、おめェ、まだ若い。」

「十八だ。」

「若い!」

俺は扇子を閉じ、窓際に歩み寄った。

「おめェら知らねェだろ。男ってなァ、四十を過ぎても急に歌謡曲に目覚める生き物なんだ。」

「おめェ、まだ四十じゃねェだろ。」

「心は昭和四十八年だ。」

「どういうことだ。」

「知らん。」

言っている本人が知らないのだから始末に負えない。

俺は押し入れをごそごそと漁り始めた。

「さて、今日は特別に見せてやろう。」

「なんだ?」

「俺の秘蔵コレクションを。」

「嫌な予感しかしねェ。」

取り出したのは、新聞紙に丁寧に包まれた一枚のレコード盤だった。

「じゃじゃーん!」

「なんだ、それ。」

「ピンカラ兄弟。」

「買ったのか。」

「二枚持ってる。」

「二枚!?」

「保存用と布教用だ。」

大ちゃんは額に手を当てた。

「帝大行かねェ理由が少しわかった気がする。」

「わかったなら良い。」

「良くねェ。」

草介君は興味津々にレコード盤を覗き込んでいる。

「兄あんちゃん、これ、そんなにすごいのか?」

「すごいぞ。昭和を代表する名曲だ。」

「へぇ。」

「草介、おめェ、人生に必要なのは帝大じゃねェ。」

「なんだ?」

「バッファーローだ。」

「なんで?」

「響きが良い。」

「理由になってねェ。」

そこから小一時間、俺による『バッファーロー講座』が始まった。

「バッファーロー。」

「おう。」

「バッファーロー。」

「おう。」

「ば、ば、バッファーロー。」

「兄あんちゃん、それ何?」

「知らん。」

「知らんのか。」

「言葉は意味じゃねェ。魂だ。」

「余計わからなくなった。」

気が付けば三人で「バッファーロー」を百回ほど唱えていた。

腹の虫が鳴いた。

「誰だ。」

「俺だ。」

「俺かもしれねェ。」

「腹までバッファーローになってきた。」

「それは病院へ行け。」

俺は立ち上がると、押し入れからもう一つの宝物を取り出した。

マイクの代わりに箒の柄。

「さあ、いよいよ本日のメインイベント!」

「嫌な予感が的中した。」

「『女の操』を熱唱いたします!」

「やめろ!」

「女の~操ぉ~♪」

俺は情感たっぷりに歌い始めた。

両手を広げ、窓辺に立ち、涙ぐむように遠くを見つめる。

「あなたのために~♪」

「朔ちゃん。」

「なんだ。」

「近所迷惑だ。」

「芸術に近所迷惑はつきものだ。」

「最低だな。」

草介君が腹を抱えて笑っている。

「兄あんちゃん、本当に文士なのか?」

「昼は文士、夜は歌手だ。」

「いつ寝るんだ。」

「寝ない。」

「死ぬぞ。」

俺は畳の上を滑るように歩きながら歌い続けた。

大ちゃんはついに笑いを堪えきれなくなり、腹を叩いて転げ回っている。

「朔ちゃん、おめェ、本当に帝大行かなくて正解だったな!」

「そうだろ?」

「帝大でこれやったら退学だ!」

「文学部なら許されるかもしれねェ。」

「許されねェよ!」

気が付けば日は傾き始めていた。

窓から射し込む夕陽が三人を橙色に染める。

大ちゃんがぽつりと言った。

「おめェ、本当に好き勝手生きるつもりなんだな。」

「今さら何言ってんだ。」

「まあ、そうだな。」

「俺ァ帝大にも行かねェし、偉い先生にもならねェ。」

「知ってる。」

「だが、ピンカラ兄弟にはなる。」

「それだけは諦めろ。」

草介君が笑いながら帽子を被る。

「兄あんちゃんらしいな。」

「だろ?」

「うん。」

大ちゃんが立ち上がった。

「そろそろ行くべ。」

「カツレツでも食ってこい。」

「おめェも来い。」

「行かねェ。」

「なんでだ。」

「俺はこれから第二部、『バッファーロー浪曲』の練習がある。」

「そんなものは存在しねェ。」

玄関まで二人を見送る。

階段を降りながら、大ちゃんが振り返った。

「朔ちゃん。」

「なんだ。」

「おめェ、変わるなよ。」

「変わったことがあったか?」

「ねェな。」

「だろ。」

草介君が小さく笑った。

「また歌、聞かせてくれ。」

「次はフルコーラスだ。」

「勘弁してくれ。」

二人は夕暮れの道を歩いていく。

俺は塀の陰からそっと顔を出し、大きく手を振った。

そして胸元から取り出したものを掲げる。

それは大事そうにしまっていたピンカラ兄弟のレコード盤だった。

「あっ! それ持って外出るな!」

「人が悪りィぞ! 朔ちゃん!」

二人の声が夕焼け空に吸い込まれていく。

俺は一人、レコード盤を抱きしめて笑った。

人生、帝大へ行くのも良い。

文士になるのも悪くない。

だが、ときには理由もなく「バッファーロー」と叫びたくなる日だってある。

そんな日くらい、歌って笑って見送ればいい。

夕陽は今日も、ピンからキリまで、みんな平等に照らしているのだから。

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