月の蔵全-あたう限りの肉体となりし眠姫第17話 平静
平静
鯉のぼりが、高く空の中を泳いでいる。その影が、早苗が植えられた水田にゆらめいている。
車から降りた、良太は大きく深呼吸をした。家の前にいた両親と娘が歩み寄って彼を迎える。車から妻の咲と送り届けてくれた和樹が降りてきた。
「お帰りなさい、疲れたでしょう。家の中に入りましょう」
母親の優しい誘いに気が緩んだ良太は、
「うん、少し横になりたい」
娘の華は、今までベットの上で横たわっていた父親が立っている姿を少し不思議そうに見つめ、母親の側に行き手を握りしめた。
「パパが、帰って来たのよ」
咲がその手を持って良太の後に続く。そんな様子を見ていた和樹が
「じゃあ、僕は帰ります」
と声をかけると、咲は振り返り少し待っていてくださいと言い家の中へと入って行った。
今日、良太の退院に付き添い彼らを家まで送り届けた和樹は車にもたれ青い空を見上げた。
須川一家の、災厄はひとまず終わりを告げることができた。そのことを彼は、人の手では届かない澄んだ青空に感謝し一安心することができ深いため息をついていると、咲がやってくる。
「和樹さん、今まで本当にあリがとうございました」
「良太は大丈夫」
「はい、今少し横になっています。華が戸惑っているようで」
「仕方ないよ、長い入院生活だったからね。咲さんもよく良太を支えたから、幸運が舞い込んできたのさ」
すると咲の顔に笑みは浮かばず、俯いた。
「どうしたの、何か心配ごとでもあるの」
咲は軽く首を横に振ると
「良太さんと出会えて、結婚して子どもにも恵まれて私、幸せです。でも、今回のことで、彼を支えているのは、私じゃ無いと気がついたのです」
彼女は真剣な表情で伝えてくる。和樹は、その思いを否定してきっと今まで不安の中で離れて暮らしていた期間が長っかったから、看病疲れと移植が成功した安堵感からそう思ってしまっていると彼女を励ました。
そして、また顔を見にくるよと声をかけ車に乗り込むとその場を離れた。
車は田園地帯を駆け抜け、海岸沿いの道路を走り抜けていく。
フェニックスが並んだ公園のそばに車を止め、外に出て海の見える公園へ歩いて行った。潮風が舞っている。午後の日差しは、輝きを増し海の波を白く際立たせていく。それに風が勢いをつけていく。
咲は、良く気がつき感は鋭い方だ。
小学校の教師として生徒や親たちのことを良く見極め多くの気づきがある中を大まかに切り捨て、クラスの均衡を保つことができる良い教師だ。その彼女が指摘することにおそらく間違いはないだろう。
時折、背後を大小の車が風を切って通り過ぎその振動が彼の心に響く。咲が言ったことを、和樹はもっと前から感じていたが、そのことは触れなかった。
病を得て、良太は途方に暮れていたのも事実だが、どこか妙に得心がいっていた。
入院中、笑顔をみせて和樹に死が近くなると昔のことをよく思い出すって言うよな、と冗談めかして高校生の頃の思い出話をよくするようになった。和樹も笑いながら君は老人かと答えていたものだ。
そして、今年の2月に桧垣真と再会した後はまるで自分が出会ったかのように桧垣のことを語っていた。
それは、死の淵に落ちていく自分を救い出す救世主が出現したかのように。良太にとって桧垣真は、彼の生きる支えになっていた。何故だ。
水平線を見つめる。空と海同じ青い色を湛えているが、実際は全く別のものでありながら姿を変えては絡み合っている。
十数年前の今頃、桧垣真はまるで鎖国時代に現れた異国人の様にとらわれない自由な思考で我々の前に現れた。そして、一年と数ヶ月を南国の地で過ごし、突如姿を消した。
その短い時間の中で、良太は一体何を見出したのか。
そうか、桧垣は我々のいる現実とは違う次元に、身を置くことができていたのか。だから、良太は桧垣真を思うことによって自分の置かれた不条理な現実を遠ざけていたのか。
病が癒えた今、良太に救世主の真はもう必要ない。彼がこの世から姿を消してしまっても・・・
和樹は、足元にある石を拾い上げ、海に投げ捨てる。
まるで、良太の心の中にある桧垣真という存在を消し去ろうとするかのように。
