月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第18話 再生
再生
電車は、目的地へと二人を運んでいく。駅に降り立つと、階段を上り高架にある改札を抜け階段を下っていく。疏水が流れ小さな石橋がそれに掛かっている。皐月晴の空は、緑の木々と楽しく歌い合っているようだ。
「いい天気で良かったですね」
そう言って振り返るとプチワット・カンラダーコン(愛称カーン)は慣れた様子で先を進む。
待ち合わせの場所で出会ったとき、真の喪失に深い哀悼の意を述べ、微笑みを浮かべると、今日は一日私が案内します。楽しいひと時をお届けします。と言い輝児は、相手の母国語でお礼を言い、その好意を受けることにした。
「カーン、君はここに来たことがあったっけ」
「はい、一度だけ半年の留学を終える九月にに来ました」
路地に入っていくと、頭上でジョウビタキの囀りが新たに合唱に加わっていく。目の前に黄檗宗の寺に上る石段が見えてきた。
階段を登り新緑を躊躇いがちに茶で染めた葉を従えた八重桜の花がたわわに首を垂れている木の横に立ち後ろを振り向く、京の町が霞んだ遠景となって広がっていく。
カーンも振り返ると
「あの遠景が紅蓮の炎に何日も覆われていたなんて」
と言葉を濁す。二百数十年前の天明の大火を彼は思い浮かべていた。その火災に焼け出され、近くの古庵に移り住んだ伊藤若冲はこの地で生涯を終えている。
若冲の墓所の前でカーンは丁寧にお辞儀をし両手を合わせる。
輝児は、また後ろを振り返る。ほんの少し高くなっただけなのにより鮮明に山々を背景にした京の町が浮かび上がってくる。輝児の面影に若冲の喪失感が重なっていくのを感じたカーンは
「綺麗ですね。ここには静けさが横たわっています。私の国では黄金の仏様が横たわったりしてとても華やかで賑やかです。さあ、ルン、お釈迦様に会いに行きましょう」
ルンと彼の国の慣わしで呼びかけ軽い足取りで階段を登っていく。
輝児の足元には真紅の山紫陽花が凛として立ち、蛍袋は薄桃色の安らぎの場を示し色鮮やかな揚羽蝶が舞いながら目の前を飛び去っていく、自然が若冲の絵巻を繰り広げていく。
カーンは二つ目の山門をくぐると竹で作られた土の階段を登っていく。
竹林と木々が頭上を覆い、その葉陰を日差しがまるで宝石をカットするように眼下に振り撒いていく。
生まれたばかりの釈迦の石像が天と地を指差し立っている。
若冲が下絵を描き花崗岩に石工たちが刻んだ羅漢や弟子たちの石像がそれを囲み見守っている。カーンは輝児より先を進んでいく。
石像は当初は白く輝いていただろう。今は、長い年月風雨にさらされ苔むし枯葉と土に身を埋め黒くなり、輝きは失われている。
真黒な大きな蝶が、光の煌めきと戯れるかのように羽ばたいていく。美しい蝶の黒は僧侶の法衣を思い起こさせた。自然と育ての親の住職のことが思い起こされる。
輝児は中学に入学するまで、ここから少し離れた黄檗宗の寺で育てられた。
四月の穏やかな晴れた早朝、その門前に捨て置かれていた赤ん坊が彼だった。還暦を迎えた住職が、皆の反対を押し切って自分の子どもとして寺で育てる決心をし、還俗し寺男となり輝児を小学校を卒業するまで育てあげる。
K学院中学に入学し、この地を離れることが決まった折、父親は皆に請われて再び住職となった。中学二年の秋、住職は遷化してしまう。
生前住職は、遷化したとき輝児が、成人するまでの後見人を選定し彼の自由な人生を送れる道筋をきちんと立てていた。
今思えば、医学を学び医者になること、真を追いかけた突然の海外留学、それらを実行できたのも父のおかげだ。
涅槃の釈迦と彼を取り巻く弟子たち、動物たちの石像に彼も加わり瞑目をした。風の囁きが聞こえてくる。入っては出ていく呼吸の存在が、彼の肉体を消し去っていく心地よさを感じた。
その無機化を破るような鳥の羽ばたきが響き、思わずその行き先を振り返ったがそこにはもう鳥の姿はなく、竹の葉が互いに身を寄せながら幕を下ろして鳥の姿を押し隠す。
石像の最後は、賽の河原。地蔵菩薩の前に石が積み上げられている。
三途の川が渡れず、子どもらは親代わりになってくれる地蔵菩薩に抱かれるのを待ちながら石を積んでいく。仏教では親より先に死んだ子どもがなぜ罪を背負わされるのか解らない。
輝児は両親を知らない。地蔵菩薩の姿に、亡き父を重ねながら輝児は手を合わせた。
寺を後にすると、お昼ご飯を食べましょうとカーンが告げる。来た道を引き返しまた列車に乗り、一駅目で降りる。カーンは駅を出ようとせずそのままホームの上を歩いていく。すると出汁のいい香りが鼻をついた。
「ここですよ」
駅にあるうどん屋に入り、券売機のメニューを見入る。
「懐かしいな、子どもの頃に来たことがあるよ」
「ここは稲荷山の麓、狐づくしにしましょう」
そう言ってきつねうどんと稲荷寿司の食券を二人前買い求めていた。
食事を終えると、
「売茶翁に会いに行きましょう」
と言ってお茶のお店に連れていく。あれこれと店主の説明を受けては選んでいき
「新茶があって良かった。この前の留学が秋から春だったから、出合えなかったんです」
はにかみながら笑顔を向ける、その様子を見ているだけで輝児は心が和んでくる。
土産袋を持った彼は、今度は和菓子屋を見つけて花見団子と鶯餅を買い求める。
住宅街を抜けて宇治川の土手に出た。どこかで鶯が鳴いている。堤防に座ると、日差しが強まり少し暑いくらいだ。カーンはリュックから竹の籠を取り出し茶器を出すと
「あの声は」
「鶯だよ」
「変わった鳴き声ですね」
目の前で慣れた手つきで急須に先ほど買った新茶を入れ魔法瓶のお湯を注ぐ。
「これは、テーが買ってくれた茶器一式です」
そして、小さな赤茶色の湯呑みを並べお茶を注いでいく。
「どうぞ」
輝児の前に湯呑みが差し出される。
「ルンに会った時、良かったと安心しました」
「どういうこと」
「ルンの中にテーがいるからですよ。どうぞ召し上がれ」
三色の団子が差し出され礼を言って受け取る。カーンは団子を目の前に掲げると
「この色はどういう意味ですか」
と問いかける。
輝児は、小さい時若い修行僧たちのお使いについて行ったことを思い出していた。
厳しい修行を心得て日々励んでいる若者たちだが、やはり若気の至りかつい息抜きをしたくなる。そんな折、輝児の相手をすることで、おやつを買い求めたり、キャッチボールをしたりと修行から離れることができていた。
この土手にも何度か来たことがある。
今日の様に、菓子屋で団子を買ったとき若い僧侶が花見団子の由来を教えてくれたのを覚えていた。
「ピンク色は桜の蕾、白は満開の桜、緑は葉桜だよ」
そう言うと二人は改めてその色合いを確かめながら、桜の蕾を味わっていく。
「じゃあ、ピンクは僕、白はテー、緑はルンですね」
輝児は白を食べる手をふと止める。
「気にしないで、ただ年の順に並べただけですよ。実は、今日の散策コースはテーが考えたものなんです。ルンと初めてここに来た時のことを教えてあげるって言ってね」
そうか、なんだかデジャブを見ているように感じていたのはそのせいか。輝児は鶯餅を懐紙にのせて差し出すと
「カーン、今日は本当にありがとう、アテンドするつもりが逆に癒してもらって」
「いいえ、こちらこそテーに合わせてもらえて、ほっとしました。本当に」
そういうと遠い目をした。
この和やかな空間と草木に覆われて所在が見えない宇治川の流れが輝児の時をゆっくりと巻き戻していく。
社会に出て医者として仕事を始めてから身につけていた鎧のようなものが肩から落ちていく、大学生の頃に纏っていた麻袋のようなものがそれに続く、身の軽さが心地良くなってくると、淡い色合いの錦が現れてきた。
輝児は、それに集中する意識の中に真を感じた。慌ててそれを掴み取ろうとしたが、初めて出会った真の姿はその錦とともにすり抜けていく。
すると真っ白い真綿が彼を包み込んでいった。それに身を預ける。
真のいない世界。それは妙に心の安らぎを与えていく。彼は子どもに還っていく。父や僧侶たちの庇護のもと何も恐れることなくこの地の大気と水と自然が彼を育み穏やかに過ごしていた日々。
輝児は目を閉じる。その様子を感じ取ったカーンも静かに時を共有してくれていた。
