月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第19話 疑問
疑問
新しい日常が始まった。輝児は新居から公園を抜けて朝の息吹を感じながら職場へと歩いていく。仕事の準備を終えると、相模教授の部屋を訪れた。
「おはよう。すっきりした顔つきになったね」
「はい、やはり故郷はいいですね」
その言葉を聞いた教授は、小首を傾げながら相手の額に手を当てた。輝児は慌てて身を少し引いた。
「三木君らしくないな。熱はないようだが、リフレッシュし過ぎて生まれ変わったのかな。まあ腕さえ落ちてなかったら問題ないがね。よろしく頼むよ、午後の手術」
そう言うと彼は肩をポンと叩いた。輝児は俯いて笑った。
「大丈夫ですよ、ご心配なく。では、後ほど失礼します」
廊下に出ると片野が立っていた。相手の柔らかな微笑みに充実した休暇を過ごせたことがわかる。あの厳しく険しい表情が消えていることに彼は安堵すると会釈をして教授室に入って行った。
午後の手術を無事終えると、日は西に傾き始めていた。医局の席につきカルテの整理をしていると電話が鳴った。御崎からの着信だった。
「もしもし、今近くに来ています。この前の件で伺ってもいいですか」
相手の口調に合わせて答える
「ええ、一階のカフェに来てもらえますか」
「では、5分後に」
そう言うと電話は切られた。
輝児は窓の外を見つめた。青い空に夕焼けの赤が滲んでいる。その赤が、侵食していくのが故郷の空の下で消えていった真の存在。そのことにある種の安堵感を得ていた輝児は、御崎が持ってくる事故の話に再び身体を伴って真が姿を現してくることを思うと頭の芯が熱く疼く。立ち上がると、パソコンの画面を閉じ部屋を出ていった。
一階にあるオープンカフェには、珈琲の香りが漂い入り口に置かれた背丈ほどある椰子の木陰に御崎が立っているのがわかった。
「お忙しいところすみません」
軽く頭を下げる相手に、テラス席の先にある個室へと誘う。扉を開けるとガラス張りの部屋にテーブルと椅子が置かれている。
「どうぞ、珈琲でいいですか」
御崎は上着を脱いで、ガラス窓のそばに行き薔薇の咲き誇る緑の木立に覆われた庭を眺め大きく伸びをすると、振り返りお願いしますと言った。
二人は向き合うと、御崎がノートパソコンを開きキーボードを弾く音が響いた。そして徐に画面を輝児の方に向ける。そこには、M病院内の様子が映し出されていた。その人物を認めた彼は一瞬視線を画面から逸らせる。
「別のカメラに、事故の前に大木治さんと一緒にいるのがわかったんですよ。それでね」
自分の方に動かすと、次の動作をしまた元に戻す。それは、事故の後に見せられた場面が別の角度から撮られたものだった。
「と言うわけでね。南の島まで行ってきましたよ」
パソコンを元の位置に戻す。目の前にいる相手の顔が、逆光によるものかそれとも南国の日差しに焼かれて黒くなっているのか判然としないなとぼんやりと考えている自分に気づく。
今になって、なぜ治が出てくる。なぜ治があそこにいた。どうして二人はお互いに慰め合うように抱きあった後、真は優しく治の頭を撫で、握手をして別れていったのか。未知の世界が具現化していき現実となっていく。
別れたはずの二人が再び出会う。いや、出会ったわけではない。
真が足元が滑り倒れそうになった患者を庇いその患者を支えに来たのが治だった。彼は片方の手を階段を落下していく真へと伸ばそうとしたが、それは空を切っていた。目的を果たせなかった彼は、その場を走り去っていく。
人々のざわめきとうごめきがその現実を消し去っていく。
「それで、大木治さんに確認したところ、離島に赴任する前にM病院にいる教授に挨拶に行きそこで偶然に桧垣さんと会ったそうです。別れの挨拶をすると励ましの言葉をもらったと言い、その後患者を庇った男性が桧垣さんだったかどうかはわからないまま船の時間があったので慌てて帰ったと言っていました。事実、その船に彼が乗船していることは確認できていますがね」
そこまで言うと、目の前の珈琲をゆっくりと飲み込んでいく。相手の目を見据えると
「大木治さんは、相手が桧垣さんだとわかっていたと思いますか」
輝児は、先ほどの映像を思い浮かべるように目を閉じた。瞼に映るものは真の姿しかなかった。
「私には、わかりません」
部屋を照らす窓ガラスが一瞬明るさを失ったがすぐに夕焼けが辺りを染めていく。
御崎は、大木治が桧垣と出会っていたことがわかり、その後の行動の中に彼を突き落としたのではないかと言う疑問が署の中で持ち上がりその裏付けをしていたと言う。
「そんな馬鹿なことに時間を費やしていたのですか。見ればわかるでしょ」
輝児は皮肉を込めて言葉を発すると、澄ました顔で珈琲を口にした。
御崎は少し歯を食いしばるようなそぶりを見せたが、全くその通りですね。でもね、商売柄疑わしいことは些細なことでも突き詰めて事件の糸口を掴みたいものなんですよ。今回は切れてましたけどねと言って笑った。その笑いは、輝児には伝染しなかった。
伏目がちの眼差しが、白い視線で相手の目を射る。
御崎は、この冷静沈着なある種の冷徹さを持った外科医に恐れを抱いた。その恐れを生み出す物が何かは彼にはわからなかった。
「では、事故と言うことでこの件は捜査終了です。お手間を取らせました。失礼します」
御崎は上着を着て部屋を出て行った。
輝児は、その場で立ち上がり軽く会釈をすると、また椅子に腰を下ろした。夕焼けの赤が青を得て薄雲を紫へと表情を変えていく。その隙間に灰青色の空が躊躇いがちに顔を覗かせている。
どうしてここまで苛立つのだろうか。握りしめていた紙コップが壊れていく。まるで自分の心の姿を現しているかのように。
