月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第20話 手紙
手紙
車は静かに校門の前に止まった。窓から手を振ると待っていた相手は周りにいる学生たちの挨拶に答えながら車に乗り込んだ。
「元気そうだな」
和樹は、シートベルトを締めている良太の顔色を見てから言った。
「ああ、おかげさまで。身体を動かせることって本当にありがたいなってこの頃つくづく思うよ」
良太のリハビリは順調に進んでいるが、手術を受けた病院でしばらく経過観察を受けるため、まだ地元には帰れていない今は、非常勤教師として近くの中学校で事務仕事を主にしている。
「ちょうど折り返し地点だな」
梅雨空の下、車を走らせながら和樹は陸上選手らしい例えを口にする。
「そうだね。後半がキツくなるけど、今回は違う」
そう断言する言葉に相手の順調な回復が現れている。ほんの数ヶ月前なのに、奈落の底から救い出される奇跡は本当に起こっていた。
「これ」
家のまえに着くと、和樹は往復ハガキを差し出した。そこには10月に行われる同窓会の案内と出欠を知らせる返信が印刷されてあった。
「よっていく」
「いいよ、仕事のついでに来ただけだから。これを手渡したくてね」
「そんなに僕の顔が見たかった」
和樹は手にしたハガキで良太の頭を叩く。笑い声が車内に響いた。受け取ったハガキを見つめながら
「三年のクラスか。じゃあ、桧垣は来ないか」
その名前を聞いた和樹の顔の色が失せていくが、相手にはそれが見えない。軽く頭を振ってラジオのスイッチを切ることで自分を平静に戻すことに努める。
「そうだな。彼は一年ちょっとしかいなかったから。同窓生という記憶があまりないな」
心にもないことが口をついて出る。
「そんなことはないけど」
そこで言葉を飲み込んだ。
良太にとって桧垣真は、特別だった。外国育ちの自分にない感覚と自由さはとても魅力的で、学校にいる時はいつも一緒に過ごしそばにいると心地良かった。
良太は真に、日本の高校生活を教え、地元の習慣なども機会があるごとに話すと、真は興味深く聞き、話題に上った歴史ある場所を訪れたりしていた。供に過ごした時間は短かったが、それだけに濃密であるが故に彼の心を無意識のうちに支えている。
良太は軽く笑うと
「そうだね。どこで何をしているかわからないし、卒業生でもないし、風の又三郎みたいにどこかに飛んで行ってしまったから」
自分に言い聞かせるように、そう言うと相手の顔を見て、
「10月か、皆に心配かけたから、元気な姿を見せないと」
そう言って右手を差し出す。和樹はそれに応えると力強く握り返された。もう大丈夫だ。そうお互い確認すると二人は別れた。
家の中で、良太は一人遠くを見つめていた。一つの記憶が蘇ってくる。
桧垣が転校してきた日のことだ。お昼時間になり、転校生が来ることを知っていた彼はお弁当を持たず、食堂を案内するつもりでいると教室の入り口に居た生徒が声をかけてきた。
「桧垣くん。三木先輩が呼んでいるよ」
休み時間のざわついたクラスが一瞬静かになった。良太もその声の方を向くと、三年生の三木が笑顔で立っていた。
「須川君、ありがとう。先輩と食事する約束があるから、じゃあまた後で」
そう言うと彼の体は翻り先輩の元へと流れていった。
二人が消えた後、生徒会の副会長で生徒たちの憧れの先輩が転校初日の生徒を迎えにきたことにざわめく教室の中で良太は、ただぼんやりと入り口を見つめるだけだった。
その後、教室に戻ってきた桧垣に生徒の一人が
「桧垣君、三木先輩と知り合いなの」
その声に振り向くと
「はい、三木先輩は僕のボーイフレンドです」
その返答に友達なんだと言うとクラスの生徒たちも納得し同時に始業のベルが鳴り皆は席に着いていった。
良太は三木先輩の元へ行く桧垣の明るく柔らかに安堵していく表情の変化を今でもはっきりと覚えている。そんな表情をする人を彼は見たことがなかった。
彼が口にしたボーイフレンドという言葉は友達ではなく恋人だという意味を本人から聞いたことを数十年経った今でも脳裏にはっきりと思い出すことができる。
そして、それになれないことにこの時でさえ落胆していく自分が悲しすぎた。
「ただいま」
咲の声が響いた。子どもの駆けてくる足音がそれに続く。良太は、そっと心に蓋をし笑顔で子どもを抱き上げた。
「華ね、パパのお顔絵に描くの」
小さな手で頬に触れながら、嬉しそうに話す。良太はその手を握りながら
「保育園でかい」
「ううん、これから描くの、パパ座ってください」
そう言うと両腕からすり抜けてリュックの中からクレヨンを取り出し
「ママ、画用紙ください」
咲はちょっと待っててねと言って部屋を出ていった。良太は華の向かいに座ると髪を整えて背筋を伸ばし
「これでいいですか」
と聞くと華は頷きながらクレヨンの蓋を開ける。咲が画用紙をその横におくと華は良太の顔をしばらく見つめクレヨンを手にとり描き始めた。
「華に話したのかい」
台所で夕飯の準備を始めた咲に問いかけると
「ええ、パパを元気にしてくれた人にありがとうのお手紙書きましょうと聞いたら、パパの元気な顔の絵を描きたいって言ったから、いいでしょ」
この前診察の時、移植コーディネーターから、ドナー家族に術後報告と礼状を贈りたいかと聞かれていた。二人は顔を見合わせ、考えさせてくださいと返事を保留にした。
つい数ヶ月前まで人工心臓に命を繋ぎ寝台から動くこともままならなかったレシピエントが、今ドナーの出現で家族と共に生活できるようになった。
脳死となった家族の意思を尊重しドナーとして認めてくれた家族があってこそ今の自分たちがある。
喪失の深い悲しみの中にいる家族に、果たして自分たちの現状を伝えることがいいことなのか、それはわからなかった。
コーディネーターも、必ずしも受け入れてくれるとは限らないし、また時間の経過と共に変わっていく家族もあると話し、あなたたち家族にとってもドナー家族に感謝の気持ちを表すことは大切な節目になると思うと伝えられていた。
二人は話し合い、反転した人生が今あることを思い手紙を認めることに決めた。
