月の蔵ーあたう限りの肉体となりし眠姫-第14話 蒼空
蒼空
倉田和樹は、職場でパソコンの画面を見つめていたが、頭は他のことを考えていた。
良太の移植が無事終わり、彼が戻ってくるその時を皆が心待ちにしている。
奇跡って実際に起こるんだ。この言葉を今まで何度心で願ったことか。
しかし、その反面彼には気掛かりなことが一つあった。海外出張の帰りに国際空港で再会した桧垣真のことだ。彼に良太のことを話していたので、この奇跡を伝えるべきかどうか迷っていた。
話したとき、彼の見解は厳しく簡単に答えを出さずにいた。医療者としての自分の無力さと悲しみをたたえた瞳を今でも思い出す。
あの瞳を喜びに変える奇跡は知らせるべきだ。そのとき、その彼の思いを肯定するかのように昼休みのチャイムがなった。画面から顔を離すと和樹は立ち上がり、妻の手作り弁当の入った鞄を持ち屋上に向かった。
青い空が笑顔で彼を待ち受けていた。いつものベンチに腰を下ろし、ポットからお茶を入れ一口飲む。ジャーになっている弁当箱からは、温かな昼食の香りが漂ってくる。
彼は先ほどの考えをまとめながら、弁当を口に運んでいこうとしたが、それには一つ問題があった。真に名刺を渡したが、彼からは何ももらっていなかった。その行為は真の虚しさをあの時は表していた。
さて、どうしたものか…
焼き豚が包まれた卵焼きを頬張りながら思案する。
検索しようと思ったが、確かSNSはやっていないと言っていたか。しばし考えるのをやめて、空を見上げる。
この青を見るとなぜか、テレビで見たどこかのお寺にあった大きな青い不動明王の巨大な像を思い出し、大きな両目に、自分の心根を見透かされるされているような変な錯覚に陥ったことを覚えている。
でもこの空にはあのギョロリとした目はない。ただ美しい青い肌だけが広がっている。ため息をついたとき、一羽の燕が黒い弧を描き飛び去っていった。
彼は、真から一枚のパンフレットをもらっていたことを思い出した。確か、海外出張の書類ファイルに入れたままだ。
彼は、手を合わせてごちそうさまと言うと弁当箱を片付け、急いで職場に戻っていった。
昼休みの職場は、ひっそりとしていた。彼は引き出しからファイルを取り出すと、パンフレットを探す。しかし、そこには目当てのものは見つからなかった。家に持ち帰ったか、それとも捨ててしまったか。彼は頭を抱え込もうとしたが、一つの言葉が浮かび上がった。
ベーシック
その言葉を検索にかけるとあまりにも多くのものが溢れ出した。もう一度、条件を追加していきようやく目当ての会社に行き着くと、早速そこに電話をかける。
「はい、ベーシックです」
女性の声が響いた。
「私は、倉田和樹と申します。桧垣真さんはいらっしゃいますか」
その答えに相手はしばらく間を置いた。
「失礼ですが、どういったご関係でしょうか」
「中学、高校の同級生です。連絡事項がありまして」
と間を埋めようと言葉を選んだ。
「わかりました。しばらくお待ちください」
音楽が流れ始める。和樹はこれから話す話題のことを思うと高揚してきた。相手の喜ぶ声が聞こえるようだ。
「もしもし」
相手の声に
「真、久しぶり。和樹だよ」
と声をかけると
「いえ、桧垣ではありません。私はベーシックの社長をしております堀基成です」
「あ、失礼しました。桧垣君は」
少しまた間が空いた。
「桧垣真は、亡くなりました」
言葉の意味がうまく飲み込めない。
「どう言うことですか」
「大変残念なことですが、3月に不慮の事故で亡くなりました」
「もういないと言うことですか」
「はい」
「わかりました。ありがとうございます」
そう言うと、和樹は電話を切った。
青い空が黒を伴い頭の上に落ちてくる。一体どういうことだ。
桧垣真が死んだ。そういうことだ。不動明王が答える。何を狼狽える必要があるのだい。命あるものはいつかは消えて無くなることぐらいわかっているだろう。
世の中はいつも安泰なように感じるが、あちこちに地雷が埋まっているのだよ。怪我で済むか、命を奪われるか、精神をやられるか、幸い君はまだそれを踏んでいないようだな。
言葉が頭に渦巻いていく。不動明王なのに、地雷なんていうのか。ああ、雷に打たれても命は落ちるな。
再びチャイムが鳴る。和樹は、洗面所に行って顔を洗った。タオルで顔を拭く。メガネを外した両目は鏡に映った自分の顔を認められない。
その顔を確認しないまま彼は職場に戻る。
