月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第12話 紙切
紙切
朝の日差しが空気の中に溶け込んでいる廊下を進み、扉の前に来ると一つ息をついてから、輝児は扉を叩いて中に入った。すると逆光を受けた体が彼をゆっくりと抱きしめた。
相手の深く落ち着いた息遣いと優しく背中を撫でる掌を感じその心持ちが直に伝わってくる。彼は相手に応えるように軽くその背中を叩いた。
それを合図にするように二人は体を離し目を見交わす。輝児はその視線を噛み締めるように深く頭を下げた。
「三木君」
ソファに腰掛けた当麻院長が落ち着いた声で話し始める。
「学会終了後に行われた緊急移植手術に助力してくれてありがとう。その後の経過も良好だと聞いている。今後の対応の参考にするから、詳細な報告を頼むよ」
「はい、わかりました。手術の成功は藤木病院長始めスタッフの皆さんの力量ですが、やはり手薄な部分は否めません」
「そうか、厳しさを増す現状をなんとか打破できるいい方法を熟慮していかないとな」
院長はそう言うと腕時計で時間を確認した。この後カンファレンスが控えている。
「一ついいかな。ベーシックの堀社長から話があってね。桧垣君のお別れ会を病院と合同で開催したいと申し出があった。ボランティア先の各国関係者からの問い合わせが来ているそうだ」
「はい、構いません」
「了承してくれるね。ありがとう。詳細が決まったら知らせる。では、今日も一日よろしく頼むよ、三木君」
「はい」
透き通った返答が院長室に響いた。
輝児は部屋を出るとカンファレンスが行われる会議室に向かった。
エレベータを降りて外科病棟の廊下に出ると、医師、看護師、事務スタッフらにお悔やみの言葉をかけられた。
出会う人々の表情と言葉には喪失感を纏った深い悲しみがあり、それを受け止めた彼は人々の心に残っている真の姿が作り上げられていくことに気づき驚いた。これほどまでに真は人々に受け入れられ親しまれ信頼されていたのか。
当麻病院長の「分け隔てなく人と接する」と言う信念がが改めて心に沁みありがたく思えた。
社会を反映するのではなく、今までの真との関わりに弔意を示してくれている一人一人の気持ちと理解があればそれでいい。なのに自分は紙切一枚出せないことで社会から一歩出ざるを得ないと思っていた。
それは、真が最初に働いた病院での周りの対応が一因ともなっていた。彼は理解のない多数決に押し出され、転職を余儀なくされ今の理解ある職場に救いの場を求めざるを得なかった。
輝児は渡り廊下の手摺を両掌で握り締め、空を仰いだ。薄雲が風に流され青が彼の両目を染めていく。
「おはよう」
消えていく雲が真の声でそう囁いていった。
屋上の通称空中庭園に綻びかけている枝垂れ桜を見上げながら片野はベンチに座って妻の作った弁当を食べていた。
今週は妻が作り、来週は片野が作ることになっているがその時の気分や出会った食材で臨機応変に当番が変わることがあり、それがお互いの良い刺激になっていることに頷きながら最後のハンバーグを食べ終え、満足した彼は弁当箱を保冷パックに入れようとしたとき、屋上の入り口の自動ドアが開くと同時に誰かが走り出てきた。
目の前に広がる菜園の赤や白い花を咲かせた丈の高いえんどう豆の隊列の間をその影が走り抜けて行き、黄色い菜の花たちは緑の葉陰にその姿をちらつかせている。
昼休みを過ぎ他に人影もなく、走り来た医師らしき男性は片手に小さな黄色い紙袋を持ちもう片方の手には何かを握りしめていた。
片野は保冷パックを鞄に収めながらその様子を伺い見ていると、相手が三木だと分かった。
昨日の今日だけに不安が頭をよぎる、その間に三木は屋上の金網に体全体を押し付けていく。
青いスクラブがそのまま頭上に広がる空と同化しそうに感じ片野は慌てて彼のそばに駆け寄ると、相手は彼に気づき側にあった木製のベンチにゆっくりと腰を下ろした。
「三木先生」
片野は傍に立ちゆっくりと名前を呼んだ。その声に答えはなく、持っていた紙袋が手から落ちた。片野はそれを拾い上げると、中に茶色い焼き菓子が二つ入っている。
「三木先生、お菓子が落ちましたよ」
そう言って相手の側にかがむと、
「ああ、片野くん。今日は朝から院長に呼ばれてね。そのままカンファレンスに入ってそのあとはいつものように回診、診察と続いて」
輝児はそこで一息ついた。いつもより声の調子が高くなり饒舌だ。
「お昼は相模教授とパンと牛乳の張り込みランチで打ち合わせをして、さっき今日初めて医局の自分のデスクに行くことができたんだよ」
また、言葉が途切れる。声を出そうとすると微かに嗚咽するような響きが混じっている。茶色い焼き菓子を取り出すと彼に渡しながら、
「2個あるから君も食べて、これはね本場フランスの味と帰国子女の真のお墨付きの美味しいカヌレだよ」
そう言うと彼は一口齧りついた。
「はい、あ、少し待ってください」
カヌレを口にしている輝児に軽く手を振り、自分の鞄を取りに行きポットに入っている珈琲を注ぎ相手に勧めたが
「ありがとう。僕はこれがあるから大丈夫」
そう言ってポケットから缶コーヒーを取り出し、タブを開けた。
その音と共に一枚の紙切が片野の膝の上に飛ばされてくる。しわくちゃになっている黄色い付箋に黒い文字が認められる。
「出張お疲れ様です」
その一言の後には年月日と時間、イニシャルのMをハートに見立てたサインがある。
それは事故の数時間前に書かれた真のものだった。文字を目で追っている片野を輝児は見つめると
「真はね、時折こういう事をするんだよ。私の気に入りのお菓子を見つけてきては、病院に来たついでにご褒美として届けてくれる。あと、時間まで書くのは、前にメモを残したときに時間が分からなくてお互い困ったことがあって、それから手書きのメモに書くことになったのさ。今は、メッセージを送れるから必要ないけど」
付箋を取りポケットにしまい込むと、缶コーヒーを飲み干した。
「昨日は一日付き合ってくれて、ありがとう。本当に感謝している」
いつもとは調子外れな明るさで話していた輝児は普段の声に戻って改めて礼を言う。
片野は先程まであった彼の心のうちにある不安を読み取ろうとしたが、優しい感謝の表情にそれを見出すことができなかった。珈琲がやけに苦く感じられた。
事故の連絡から輝児と行動を共にし、突然良き伴侶を失った彼の辛さと悲しみをを少しでも和らげられればと思って見守っていたが、彼は最初から最後まで冷静で落ち着き払っていた。
しかし、先ほど一瞬不安な言動が現れたが、焼き菓子を口にしているうちにどこかに消え去っている。逆に片野の両目に不安を感じ取った輝児はもう一度付箋を取り出すと
「ここにあるのはね、生」
そう言って再びしまい込むと
「もうカヌレは食べてしまって無くなったね」
「あ、はい」
「それは死」
輝児の口から始めて死という言葉を聞いた片野は、はいと答えることができなかった。
輝児は空を見上げて目を細めると
「生と死は表裏一体、どちらも麗しい。さあ、仕事にかかろう」
そう言って片野の背中を励ますように軽く叩くと、空き缶をゴミ箱に捨て軽く手を振って飛び出してきたドアから消えていった。
麗しい生と死。片野は呟くと、頭の芯がずきんと痛んだ。
