月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第13話 帰還
帰還
須川良太は耳に響く機械音に気づいた。この音は自分の弱った心臓の代わりに動いている大きな機械の心臓の音。指先に軽い圧を感じる。ああ、まだ手術は行われていないのか。それとも延期になって三木先輩が慰めて手を握ってくれているのだろうか。ぼんやりとした意識の中で考えていると
「良太さん、気がついたの」
耳元で咲の声が届いた。彼が目を開けると防護服に身を包み彼の手を握っている彼女の透明な幕を通した視線と目が合った。その瞳が嬉しさで滲んでいる。
「手術は無事終わったのよ」
その後の言葉は続かなかった。良太は妻の手を握り返し軽く頷いて見せると、ドレーンの管で繋がれている体が軋んだ。
彼は耳を澄ませる。
酸素マスクから溢れる呼吸、それを生み出しているのは二つの肺、そこに血液を送り出しているのは、彼は左側に頭を傾けようとしたが、体に力が入らない。
機械はそこには無いのか。自分の胸の内に内蔵された新しい心臓がそれを的確に行なっているのか。一瞬周りの全てのものが消えてなくなったような気持ちになった。
彼の体も消え去り、ただ一つの健全な心臓が動いている。
「ああ」
彼は声を漏らした。その声は酸素マスクの中で木霊する。
「須川君、気がついたね。無事終わったから。少し傷の様子を確認するよ」
周りで人の動く気配がする。
「じゃあ、また来るからね」
声を詰まらせながらやっと言葉を発した妻の声が届く。
「ありがとう」
良太は声をかけると、医師と看護師たちは手際良く術後の処置を済ませていく。指先にまだ感触が残っていた良太は、
「あの、藤木先生、三木先生は、まだいますか」
と先輩の所在を尋ねた。
「彼は、朝一番の飛行機で帰られたよ。予定を変更してもらったからね。相模教授が近くで開かれた学会に来ていて、手術のサポートを依頼できた。君は本当に強運の持ち主だね。その調子で術後を乗り切っていこう。さあ、痛み止めを打ったから、今は何も考えないで休みなさい」
「はい。ありがとうございます」
そう言うと目を閉じる。もう彼の心臓の代わりをした機械の音が気になることは無くなった。
頭が真っ白になり、深い眠りに落ちていった。
良太はなだらかな坂道を自転車で上がっている。辺りは白い光を受けて輝いている草原。後ろに誰かが乗っていて彼の腰に腕を回し指を組んでいる。重いはずなのに、電動自転車はそれを苦にすることなく先へと走っていく。
変だな、自転車をこぎながら確か、子どもを乗せるために買ったこの電動自転車には、チャイルドシートが後ろについているはずなのに、回されている腕は子どものものではない。
不審に思っていると、急に視界が開け海が目の前に広がってきた。その水平線の上には白い満月が上がり、波頭を銀色に染めている。
そうか思い出した。廃業になった牧場にある桜の木を見に来たんだ。
「まだ着かない」
後ろから耳元に声が届く。やはりそうだ、その声は桧垣真の声だった。彼に見にいこうと約束していた。右手に方向転換し朽ち果てた牧柵の前まで行くと自転車を止める。繋がれていた腕が解かれ、二人は自転車から降りた。
目の前には、暗緑色の凸凹をもった草原が続き小高いところに一本の木が枝を広げている。満月の光を受けた桜の花々は、桃色の松明のように光をあたりに放ちながら浮かび上がっている。
「行こう」
良太は相手を促すと、走り出した。真もそれに続こうとするが陸上部の良太には追いつけない。一足先に桜の下に着くと木に背を持たせて、自分のペースでやってくる相手を見ていた。
「相変わらず早いな」
少し息を荒げながら真が立ち止まると上を見上げた。夜空に瞬く星々を背景に桜の花びらが恥ずかしげに顔を俯かせている。
「綺麗だね」
そう言ってうっとりと見上げながら腰を下ろした。良太も顔を上げる。
花々が目を覆い尽くしていく。そのまま飲み込まれていきそうになる。身体がまるで花弁のように散り散りになっていく変な感触に襲われる。
あまりにも、この花々は美しすぎ、切なすぎる。
「この綺麗な桜の花々って、なんだか少し怖いな」
良太が呟くとそれに答えるかのように少し湿った潮風が吹き上がりヒュウという音と共に桜の花びらを巻き上げていく。
頬を花びらが掠めていく感触に、良太は腕で目を覆った。
桜並木の木々は列をなしその一体感が安心を与えてくれるのに、この孤高の木の研ぎ澄まされた生の存在と厳しさは満たされた月の光によってより一層強い自己主張を発揮してくる。
一本の桜に何を戸惑っている。
良太が腕を下ろしたとき、その目がとらえたものは空間を彷徨う桜の花びらだけだった。
目が覚めた良太は変な汗をかいていた。意識がはっきりするとともに身体の痛みを感じていく。彼は歯を食いしばった。そっと右掌を左胸に添わせる。
鼓動が手のひらから伝わってくる。涙が溢れ出そうになった。
彼の命が芽生えた時から共にあった心臓はもうここにはいない。
いや、彼が陸上競技に熱中し、負荷をかけすぎいたせいかその心臓は彼に反旗を翻した。己自身でありながらどうする事もできず、衰えゆく心臓に身を任せその運命と共に命が消えゆくことについこの前までは得心がついていた。
それが今、この掌の下にある力強い鼓動を持った心臓が彼の命を再生し、家族も周りの人々もそれを歓迎し、嬉々としている。
勿論彼もその一人なのだが、どこかに喪失感を伴っている。反逆者の心臓ではなく、何かが失われたことが透明の青みを帯びた澱のように彼の心の底に沈んでいる。
「ドナー」
彼の口から無意識に言葉が漏れた。自分はもうレシピエントではない、そしてドナーはもういない。
再び夢の余韻が襲ってくる。真が目の前から消え去った過去の記憶が夢の喪失感と重なり重みをましていく反面、真と共にあの桜の花を見にいくことができなかったことが彼の心を救済していた。
