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月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第10話 隠滅   

#創作大賞2026
#恋愛小説部門

第1話はこちら

隠滅いんめつ

 飛行機は時間通り空港を飛び立った。窓から見える景色は雨に洗われた青い海で、その動きを太陽が光と共に浮かび上がらせている。青が目に染みる。
 
 幾度となく真はこの海を見ながら帰りを待ちわびている自分のことを思っていたのだろうか。眩しさに目がくらみ手でそれを防ごうとしたとき、左手からアイマスクが差し出された。

「これを使ってください。少し休まれたほうがいいですよ」
「ああ、ありがとう。薬のせいか少し頭が痛くてね」

片野に礼を言って受け取ると輝児はビニール袋からそれを取り出し目を覆う。

 その様子を見ていた片野は、相模教授の秘書として働くこととなった病院で真に初めて会った日のことを思い出していた。

「すみません」

紙袋を持った背広姿に首から来客カードを下げた青年に声をかけられた。

「三木先生はいますか」

 彼は出入り業者の面会かと思いその質問に答えた。

「三木は急患の対応で病室に行っています。どう言ったご用件でしょうか」

 少し困った様子の相手に医局から出てきた相模教授が

「桧垣君どうしたの」

「相模教授こんにちは、納品のついでに差し入れを持ってきましたが、三木がいなくて」

「そうかい、彼は病室だよ。桧垣君は僕の新しい秘書の片野君とはまだ会ってなかったよね」

 先ほど話しかけた相手が、教授の秘書とわかり真は名刺を差し出した。

「初めまして、ベーシックの桧垣真です。よろしくお願いします」

そう言われ名刺を出そうとする片野に

「桧垣君はね、三木の良き伴侶でもあるからくれぐれもよろしくね」

 相模教授に付け加えられた説明を片野は何のことかわからなかった。

「相模教授、伴侶って何ですか」

真面目に問う彼に、教授は困ったように微笑むと、

「社会的にはパートナーというのかね。私はこの言い方が好きでないからね。良き伴侶でいいじゃないか」

 そこで片野は違和感を持ちながらも二人の関係を知ることができた。真を見ると彼は俯きながら紙袋を差し出してくる。それを受け取り、名刺を代わりに差し出しながら

片野伸かたのしんと言います。妻と娘が一人います。よろしくお願いします」
と答えていた。

 真は笑顔を彼に向ける、その少しはにかんだ表情には何物も拒絶できない優しい魔物が潜んでいるようで片野は驚いた。

 これが良き伴侶の意味だろうか。思わずその想いを振り落とそうと首を振りそうになったとき、桧垣は挨拶をするとその場を去っていった。


 相模教授から輝児のことを助けるように言われ、良き伴侶を失った彼とともに今機上にいる。
 輝児は訃報を聞いてからも取り乱すことも涙を流すこともなく、ただ目的地に向かっている身体を動かしているだけのように感じる。
 
 空港上空に来ると雨はすでに上がっていて、どこまでも青い空が広がっていた。

 車に乗り込み片野は行き先を運転手に告げて、シートベルトを閉めている輝児に

「葬儀はどうされますか」

と単刀直入に聞いた。相手はしばらく考えると

「直葬でお願いします。できれば今日中に終わると助かります」

 その答えを期待していなかった片野は頭の中に立てていた予定を消さざるを得なかった。黙っている彼に輝児は説明を加える。

「桧垣は、若い頃に両親を失っていて、遅かれ早かれ必ず訪れる二人の別れについて話し合って決めていた。つまり、どちらかが亡くなると直ぐに火葬にして海に遺灰を撒くことになっている」

 高速を走り抜けていく車の音がそれを証明するかのように風切り音を残して過ぎ去っていく。その響きを耳に残しながら、

「わかりました。では、死亡診断書を受け取り私は区役所で手続きを済ませ遺体を引き取る手続きができましたら連絡を入れます。それでいいですか」

「ああ、構わない。ありがとう。君がいてくれて助かる。ありがとう」

 輝児は片野の方を向き頭を下げる。その言葉には今までに聞いたことのない、優しい弱さが滲み出ていた。相手の悲しみの深さに改めて片野は心が痛み、輝児の希望を叶えることがせめてもの慰めになると思った。

 地下にある安置室の扉は開かれていた。輝児の足取りは遅く、片野が先に中に入った。白い布を被せられた遺体のそばに、未成年の時両親を続けて亡くした真の親代わりをしていた大木英二おおきえいじと妻の沙知子さちこが座っていた。

 彼らを認めると立ち上がり後ろにいる輝児の側に行き

「真に会ってあげて」

 沙知子が相手の手を取る。輝児は前を見据えている。そこには薄鼠色うすねずみいろの壁が立っている。

「いえ、遅くなって申し訳ありません。付き添いをしていただきありがとうございました。お疲れでしょう、後は私がいますから、帰られてお休みになってください」

「では、私は手続きに行ってきます」

そう言って片野は礼をすると部屋を出ていった。それを聞いた沙知子は

「葬儀はどうするの」
「直葬にします」

 その答えに夫婦は顔を見合わせた。

「直葬って、告別式はやらないの」
「しません、生前二人で決めていましたから」
「でも」

 断言する輝児の表情を見た大木は言葉を続けようとする妻を遮って

「わかった。君たちの決めたことだ、納得するやり方でいい。何かあったらいつでも連絡をしてくれるかい」

そう言って輝児の両手を取る。彼はその手を握り返しながらゆっくりと問う。

「脳死でしたか」

 大木は頷く。

「では、失礼しよう」

 そう言うと妻を促した。沙知子はそれに従い、目頭を押さえながら今一度真の頭を優しく撫でると夫の後に従って安置室をでた。
 
 輝児は二人を見送ると再び安置室へと入っていった。

 移動式の寝台に横たわる白い布で覆われた遺体を見つめる。

 真はドナーの意思表明をしていた。彼の臓器や網膜はそれを待ちわびるレシピエントのもとに送られ生まれ変わっている。ここにある遺体はただの抜け殻だ。ここには真はもういない。

 椅子の上に腰を下ろすと瞳を閉じる。地下の静けさが彼の周りを包んでいく。掌の肌にある感触が蘇ってくる。彼は胸の前にその両掌を何かを待ち受けるように掲げた。

 時が流れていく、そこに現れてくるのは命の重さだろうか、それとも死の重さだろうか。そのことを彼自身が一番承知しているのに、まるで救いを求める儀式のようにただ両手を掲げている。

 人の体は正直なものだ、痺れを帯びてきた両腕をだらりと下げると輝児は安置室を出て階段を登り、病院の裏にある庭に出た。

 そこには桜の木が植えられ昨日の雨と今日の暖かな日差しで幾輪かが薄桃色の花を綻ばせていた。

「桜の季節か」
 
 一人呟くとベンチに腰を下ろす。桜の花を自分は憎んでしまうだろうか、ふとそんな疑問が頭をよぎる。馬鹿げたことだと思いながらも、人は時として何の罪もない自然を悪者に仕立て上げて、自分の弱さを隠し自己満足してしまうと考えながら途中で買ってきた缶コーヒーを開けて一口飲む。

 青い空が頭上に広がり、白い雲がところどころに浮かんでいる。それらを何の形かなと子どものように見つめているとその純白の眩しさを持った雲が意地悪をして直ぐに形を変えていってしまった。

 缶コーヒーを飲み終え小さく吐息をつくと画面で今後の予定を確認し始めた。共有している真の予定も映し出されていく。

 五月の後半にまだ見ていない予定が加えられていた。京都へ研修者のアテンドとあった。そういえば、会社が行っている医療ボランティア先の病院や診療所の医師、看護師が来日して研修を行う予定があると話していたことを思い出した。

 輝児は時間を確認してベーシックの堀社長に電話を入れる。

「堀社長、三木です。この度は桧垣の事故の初期対応をしていただきありがとうございました」

「突然のことで、何と言っていいか言葉がない。君は大丈夫か」

「はい、ご心配をおかけしました。桧垣の仕事の予定について確認の連絡です」

「そんなこと、何とかなるから。葬儀が終わって落ち着いてからでいいよ」

「直葬にしましたから、直ぐに対応できます」
 
 少しの間があった。

「そうか、わかった。そういうことなら、会社でお別れ会をしてもいいかい」

「ええ、かまいません」

「じゃあ、また決まったら連絡するから。仕事のことはその時でいい。君も無理しないで、手伝えることは何でも言ってくれ」

「ありがとうございます。では、失礼します」

 綻びかけた桜の木の上で黒い羽を光らした鴉が鳴いている。輝児はその青みを帯びた黒が美しいと感じ見つめているとその視線を感じたカラスは身を翻して飛び立っていく。

 その軌跡を追う彼の目は青に溶けていく。不意に涙が一筋落ちた。その跡を風が撫でていく。まるで眠り姫に優しく触れられているように。

 この体感は一体何なのか。彼の記憶が生み出していく安らぎなのか、いや違う。真が彼に生み落としていったいくつもの誠実さと健気さの記憶だ。

 涙は消え、眠り姫の微笑みが彼に笑みを浮かばせる。


 昼近く勢いを増していく日差しを窓から受けながら、輝児は自宅の浴槽に身を沈めていた。
 
 わがままを言って片野に火葬までの行いを全て一任し時間になったら斎場で落ち合うことにした。

 両手で入浴剤で白く濁った湯をすくっては流している。幾度同じことを繰り返しただろうか。額に滲む汗に時間の経ったのを感じ顔を洗うと浴槽から上がった。
 
 今、真のいないこの家が彼の不在を示している。その不在が永遠だということをこの家はまだ気がついていない。あちこちに真の存在を示すものを内蔵しているからだ。

 困ったな。輝児は自分の寝室へ行くと黒いシャツとグレーのズボンをクローゼットから取り出す。

 その時腕に水滴が落ち、髪が濡れたままだとわかり慌てて髪を乾かしに行った。ドライヤーの音と熱が頭の中まで乾かし、より鮮明に真の記憶を浮かび上がらせる。 

 まいったな。鏡に映るその姿に言い聞かせるように呟いていた。

第11話 塵煙 >>

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