月の蔵ーあたう限りの肉体となりし眠姫ー第1話 赤い星
あらすじ
大学病院の外科医三木はある理由で早期退職し東南アジアの海の見える診療所で静かに余生を送っていたが、ある夜、突然事件に巻き込まれる。
二十数年前の冬、医療商社員桧垣は、国際空港で高校の同級生倉田に会い、親友だった須川が心臓疾患で命の危機にある事を知る。その頃、須川は高校時代の思い出に励まされ闘病を続けながらドナーを待っていた…
流れる四季のなかでドナー、レシピエントを巡る人々が、臓器移植を通して生と死の境界線に翻弄されながらも、それぞれの悲哀を克服し愛を成就していく。
赤い星
雨季を迎える前、暑さは次第におさまり、海辺で日没を楽しむのにちょうど良い気候となっていた。ハンモックを軽く揺らしながら、波の音に耳を澄ます。
蒔音の出現でも何も変わらず、海は彼に語りかけてくれている。
そう、治が言う通り輝児自身が幸せなら真はいつもそばにいる。
夕飯を済ませて、書斎で手術の予定をパソコンで見ているときだった。ドアチャイムが何度も鳴らされた。夜に人が訪ねてくることはないだけに、いぶかしながらドアに急いだ。
「ルン先生」
そこに立っていたのは、マーナとタオの母親だった。
「どうしました」
相手の切羽詰まった表情に問いかける。
「マーナが急に具合が悪くなってしまって、助けてください」
輝児の手を取り、走り出す。彼もそれに従う。一台の車がライトをつけて止まっていた。
「どこですか」
車の中を覗き込もうとしたとき、異臭が鼻をついた。
気がつくと、椅子に座らされスクラブ姿になっている。
「ルン先生、ドナーの手術をお願いします」
くぐもった声が響く。扉の向こうはどうやら手術室らしい。リノリウムの床が光を吸い込んでいく。後頭部に圧を感じ拳銃の筒先が押し当てられている。
「よくご存知ですよね、時間との勝負ということが、躊躇っているとドナー、レシピエントそしてあなたの命が奪われますよ」
圧が強くなり、反射的に立ち上がると目の前にある洗面台で丁寧に手を洗い始める。その間、手術室から出てきた男がこれから行われる手術の詳細の説明を始める、手術を必要としている患者を前にすると輝児の頭はいつものように術式以外の全てを消しさり、集中力を高めていく。
その男に導かれ両開きのドアの中に入っていくと見慣れた手術室の光景が広がっていった。医療機器はリズム良く作動音を繰り返している。それに身を任せながら、目の前に横たわっている手術用ドレーブで覆われた臓器の貯蔵庫と化した脳死体に向き合うと、手術開始を告げる。
切開のために開かれている肌を見たとき、見覚えのある赤い星の形をした痣に輝児は思わず声を上げた。
「マーナ」
絶句する彼の頭に、筒先の圧がかかる。
「やるしかありませんよ、先生」
彼はごくりと唾を飲み込む。モニターの数値は、マーナの体がもう脳死していることを伝えている。あとには引けない。輝児は、手に持ったメスをいつものように皮膚の上に走らせていった。
「さすがだ。BJack」
ドナーの身体から心臓を取り出すと、向かいで助手をしていた男の声が聞こえた。輝児は思わず顔を上げて相手を見つめる。すると、手術着の男は手早く処置を終えた心臓を持ち扉の向こうへ小走りに消えていった。
「さあ、引き続き摘出をお願いしますよ」
肺、腎臓、肝臓、膵臓とできる限りの臓器を取り出していき、液の入った袋に詰められては扉の向こうへと運ばれていく。
輝児は我を忘れただ、その作業だけに専念することで、自分の置かれている立場を正当化し、納得させようとした。手は血まみれになり、額に汗が滲む。看護師がそれを拭き取る。全ての臓器を取り出し終えた彼の体は後ろにふらついていく。
「よくやってくれましたね」
体を支えるのは、銃を持った男だった。
「あとは、任せてここを出ましょう」
扉が両側に開く。手袋を外すと、先ほど座っていた椅子に腰を下ろした。目の前に黒ずくめの男が立つ。その黒い靴を見つめ額の汗を拭った。
「これは」
俯いたまま、言葉を吐く。
「あなたがいつもやっているのと同じ、人命救助ですよ」
「違法なことはやっていない」
「命を救うのに違法も何もないでしょう。現に、移植手術は成功しあなたは、レシピエントを減らすことができました。これ以上素晴らしい社会貢献がありますか、先生」
男は饒舌になっていった。
輝児が立ち上がろうとすると、目の前の男に両肩を抑えられ椅子に座らされる。
「まあ、そう慌てなくて大丈夫です。ちゃんとお送りしますから」
輝児は再び気を失わされるかと身構えた。すると、彼の服が入ったカゴを黒ずくめの男が持って入ってきた。
「どうぞ着替えてください」
目の前の男は、銃をちらつかせなが促す。輝児は、立ち上がると手術着を脱ぎ着ていた服を身につけると家でくつろいでいた姿に戻っていく。
「用意ができたようですね。では、行くとしますか」
背中に圧を感じ、押されるままに扉から外に出る。リノリウムの廊下には窓はなくコンクリートの壁が剥き出しになって続いている。手術施設は地下にあったようだ。鉄の扉の前に来ると
「失礼」
若い男の声がし、頭に袋が被せられ視界が消え、結束バンドで後ろ手に縛られた。
扉の開く重い音がする。身に覚えのない生暖かな風が感じられた。
促され、歩いたときだった。突然、何かが襲いかかり輝児を連れて来た男たちの呻き声が聞こえた。
「クリア」
大きな声が響き、重装備をし銃を構えながら警官たちが出てきた扉から中に入っていく。
「大丈夫か」
声とともに頭の袋が取り外される。そこには、御崎の顔があった。
「ああ、これは囮捜査ですか」
そう問いかける彼には答えず、体を支えられ立ち上がると、括られていた結束バンドが切られ両手が自由になったとき体のバランスが崩れ、手術の疲れもありよろめいた。
顔を上げると、マーナの母親の苦渋に満ちた顔をライトが一瞬照らしたがその姿は暗闇に消えていった。その暗闇の中で影が動いた。
パーン
軽い音が響き、熱が胸に沸き起こった。
「あ…」
輝児は胸を押さえながら前に倒れる。なぜ、使える臓器を傷つける…
