月の蔵ーあたう限りの肉体となりし眠姫ー第2話 空港
#創作大賞2026
#恋愛小説部門
-21年前-
空港
飛行機の窓から見える景色は、北へと進むごとに亜熱帯の青から冬の灰へと変わっていく。
桧垣真は、手に持っていた報告書から目を離し外を見つめる。窓は小さな穴を持ち、内へと冷却されていく空気の粒を纏い始めていた。
目の前のスクリーン映像が切り替わり外の様子を映し出した。着陸態勢に入るアナウンスが流れる。ポンと鳴った音と赤いライトのサインがシートベルト着用を知らせる。
年に何度も東南ジア諸国と東京を仕事と医療ボランティアで行き来している彼は、異国に到着する高揚感を持った観光客のざわめきを感じながら、また外の景色に目を転じる。
すると、窓の向こうが一瞬きらめいた。灰色の海面にまるで天上に昇天するような一筋の光が、冬将軍の分厚い灰色の外套からこぼれ落ちてくる。真冬を忘れたかのように乱反射する海の光が真の記憶の扉を開いていく。
しかし、その思いが具体化する前に、機体は一瞬の弾みを伝え着陸した。周りの乗客が荷物を下ろし始める、その中に加わる勇気はなく、外を眺めながら乗客が吐き出され静かになった機内をゆっくりと立ち去ることにした。
真は荷物預かりカウンターへ行くと、係に受付票を手渡した。ここはまだ暖房が効いており軽装でも大丈夫だが、外は真冬の大気が待ち構えている。
「桧垣真様、いつもご利用ありがとうございます」
彼が丁寧に差し出されたコートとマフラーを受け取ったとき
「桧垣」
と、改めて名前が呼ばれ、右肩がポンと叩かれる。振り返ると黒縁眼鏡にダウンジャケットを着た男が立っている。抑揚のある呼び方がある人物像を浮かび上がらせてきた。
「和樹か」
「ああ、久しぶりだな」
そう答えた相手に軽く手を上げカウンターの係に礼を言うと
「よく解ったな」
「名前に聞き覚えがあったから見ると昔の面影が重なってね。あまり変わってないな。どこから戻ったんだい」
「ジャカルタだよ。君は」
「シンガポールさ。これから乗り換えて帰る飛行機が二時間後なんだ。ブランチでも付き合ってもらえるとありがたいんだが」
そう言われた真は携帯の画面を見る。
「会社に顔を出さなくて良いから付き合えるよ」
和樹は大きなスーツケースを引っ張っている。空港ロビーを行き交う人々の騒めき、時折それを止める場内アナウンス、その流れの中を二人は並んで歩いていく。
まるで、高校時代に時間を遡るかのように。
飛行機の離着陸が見えるレストランの窓際に席をとった。昼食にはまだ早く客席はまばらに埋まっていた。
「真が急に転校した二年生のとき以来だな」
「ああ、和樹は地元に住んでいるのかい」
「そうだよ、大学は北部に移っただけで、就職は県庁職員、妻も幼馴染ですっかり地元に根を張っているよ」
「それは何よりだな。ところでシンガポールへは」
運ばれてきた一口ビールのグラスを合わせて乾杯をし一口飲んでから、
「アジア観光フェスの九州代表として出展してきた。外国人観光客集めだよ」
満足そうに報告する彼の様子にことは上手く進んだようだ。
「で、真は医者になったんだろ」
「医師免許はとって大学病院に勤務していたけどね。どうも性に合わなくて辞めたんだ」
「それで」
ナッツを摘み顔を向ける。
「大学の先輩が経営している医療系の商社に入って、そこが支援している東南アジア中心の医療ボランティアに参加している」
「やっぱり白い巨塔はバベル並みだったのかい」
「いや、そこまで辿り着けないよ」
オリーブを口に運ぶと、今着陸したばかりの機体に描かれた黄色いキャラクターが笑っている。それに気づいた和樹が
「やはり、国際空港じゃないと駄目だな。この前地元の空港に息子を連れていったんだが、数が知れていてね」
「そうかな。規模が大きいのも良いが、小さくてもその経験が心に残るのは同じだと思うけど」
「子どもにはついついスケールの大きな物やたくさんのことを与えるのが良いと感じてしまう」
「それと同時に、子どもに対して期待してしまう」
「それは、真実だと思うよ。あらゆる可能性を秘めているからね、子どもというのは」
「そういう持論がある真、子どもは」
「いないし、結婚もしていない。いや、できないという方が正解かな」
和樹はその言葉を聞いて、ビールを呑むのを止めてグラスを置くと、
「すまん」
と頭を下げた。
「何がだよ。君が謝っても仕方ないだろ」
「県としてもパートナーシップを進める努力はしているが、なかなか…」
「おいおい、急に職員モードにならないでくれよ。堅苦しい」
そう言うと真は笑った。和樹もつられその笑いから、
「思い出したぞ。君が高一の春に転校して自己紹介した時のことを」
真はイギリスとフランスで育ち高校一年生の時に帰国した。両親は外国にそのまま残り、彼は父親の母校でもある地方の中高一貫の男子校に転校してきた。
慣れない制服に身を包んだ彼は、名前の書かれた黒板の前に立つと一礼し頭を上げると、白い畑に育ちざかりの黒いへたの付いた作物がたくさん植わるその単調さに、日本にいることをしみじみと感じながら声を発した。
「桧垣真です。よろしくお願いします。僕の性的指向は同性です」
そう言うともう一度頭を下げた。
異国から来た生徒に好奇心でざわついていた教室が一瞬静かになった。担任の西は、組んでいた腕をほどき体を前のめりにしたまま一瞬固まった。
しかし、少年たちの頭は柔軟である。一人が声を上げる。
「今、恋人はいますか」
真は、あやふやに答える。
「立候補していいですか」
と、後ろに座っっている大柄の少年がそれに加わり、笑い声が沸いた。その声に、ようやく我に返った西は自分の気持ちを落ち着かせるように、咳払いを一つすると、
「ありがとう、桧垣くん。自由、博愛、友愛の精神を学んできたのだね。君たちもよく覚えておくように」
と、咄嗟にその場をしのぎ
「クラス委員の須川の隣が君の席だ。わからないことは彼に聞くといい」
教壇から降りた真の代わりに西は立つと、ホームルームを始めた。
須川は椅子を引いて真が座るのを促した。
「よろしく」
「こちらこそ」
二人が交わした初めての言葉だった。
「フランスからの転校生には驚かされたよ」
和樹は、両手を大仰に広げて見せる。
「僕にとっては、普通のことだったけどね」
その時電話が鳴った。治からの着信だった。失礼と言うと、真は立ち上がりレストランの外にあるテラスに出て対応する。
「急に先生に会いたくなりました」
もういい歳なのに中学生の頃と変わらない明け透けな話し方をする。それが今は返って心地よい。
「どうした」
「いいから、時間ありますか」
「研修中の君の方が忙しいだろ」
「やっと休みが取れたので、明日とかは」
「うん、大丈夫だよ」
「ありがとうございます。お昼頃、実家の方に来てください。お寿司ご馳走します」
「わかった。じゃあ、着く頃に連絡入れる」
「はい、楽しみにしています」
相手の見慣れた笑顔が浮かんでくる。席に戻ると、和樹はビールを追加していた。
「大丈夫かい」
「家庭教師をしていた生徒だよ。今は、医学生になっててね。久しぶりに会う約束をしたところだ」
ビールを一口飲んだ相手から、恋人かと聞かれる。
「いや、弟みたいなものだよ。彼の両親に引き取られて大学卒業まで一緒に暮らしていたからね」
「真も色々苦労が多かったな。そうだ、クラス委員の須川とは連絡とっているか」
「須川か、急に高校を辞めてからは誰とも連絡は取っていないよ。その方が気楽でいいから」
と言ってから、目の前にかつての学友が見つめていることに気づき、時間を巻き戻すことが必要とされていく。
「気にすんなよ、それより須川の方が大変なんだ」
巻き戻した時間が急に跳ね返ってくる。和樹は着陸する大型機に目をやった。尾翼がきらりと光る。
「去年の春からなんだ」
須川良太は大学を卒業すると地元に帰り中学の体育教師をしていた。小学校の先生の妻と二歳の女の子がいる。その彼が、急に心臓の具合が悪くなり心臓移植を受けないといけない段階にきている。今は、薬で体調を維持し、入退院を繰り返しているが徐々に入院の期間が長くなってきている。
「レシピエント」
真の口から言葉がでる。
「レ…シピ…エント…」
和樹が繰り返す。
「移植を待つ患者のことを言うんだ。良太がレシピエントになるなんて」
真夏の青空が目の前に広がっていく。波は穏やかで海面は空に負けじと深みを加えようとしている。
水平線でせめぎ合う両者は、青の美しさを増加させていく。
波と戯れる少年たちがあげる水飛沫が陽光と海面の反射を360度受け、銀と七色の彩光を従えて少年たちの体を黄金に変えていく。
真は砂浜に座り、眩しさで目を瞬かせながら金色の時空を見つめていた。
「桧垣」
あの時と同じだ。和樹の声が我に返らす。
「何ができるか、自分なりに考えて臓器提供意思登録を済ませたが、他の人に勧めるわけにもいかないし、あくまでも個人の意思だから」
輝いていたあの肉体が、和樹に手を引かれて金色の世界へ身を委ねた自分の体の一部を必要としている。
海はまた現実の灰色に戻り、冷気を吹きかけてくる。
医者でもある真は移植を待つレシピエントの厳しさをわかっている。
人昔前は、不治の病と言われていた癌は、今では二人に一人が罹るようになった。
医学の進歩とともに治癒率もあがり寛解する人も増えてきているが、医療は決して完璧ではない。どこかで、病との折り合いが必要となってくる。真は今まで、生と死の折り合いの狭間に立つ人々を何人も見てきている。
病も多数派になると社会の理解も深まり、また治療の研究も進み患者の置かれる環境も変わってくる。ある意味市民権を得られた病は、治療の幅も増え治癒率も上がっていく。
しかし、そうでない難病に苦しむ人たちがたくさんいるのも事実だ。真は和樹の心がけを認める一方、現実を伝える
「臓器移植の知識や情報は、徐々に広がりつつあるがまだ社会一般には定着していないと感じているよ。それに、人の死は日常生活から切り離され、いざそれと向き合うことになったとき、人々は受け入れられず困惑し正しい判断ができなくなる。今でも癌は死病として人々の理解を阻んでいる、罹るとなぜか負い目を背負わされ失望が先走ってしまう。全てにおいて当事者にならない限りは皆、他人事なのかもしれない。皆生きるのに精一杯でそんなことを考える余裕なんてない。当然のことといえば当然だが…」
「やはり、厳しいか」
和樹はその言葉を飲み干すかのようにビールを飲むと真に勧めようとしたが、グラスを手で覆い断りを入れた。飲み干したビールはぬるくなっていた。
名刺をもらい別れると、真は人混みの中に紛れていく和樹の後ろ姿を見つめていた。一人また一人とその視線を遮っていく人達は、過去に遡っていく彼の思考を消し去ろうとしているように見える。
空いている待合席に腰を下ろすと両手で顔を覆い首を振りながらそれらを払い落としていく。ため息が漏れる。
目を開けると先ほどと変わりなく人々は飛行機のエンジン音に急かされるように目の前を行き来している。所々で立ち止まっては到着ボードを見つめたり、手を振って相手を迎え抱き合ったり、ただ黙々と携帯の画面を見つめている人々。
彼らの頭の中には一体何があるのだろうか。楽しみ、嬉しさ、悲しみ、後悔、苦しみ、それとも単調な日々の生活思考。
真は引きずり込まれた世界から助けを求めようと、メッセージを送る。どうして自分が苦しみを分け与えられなくてはいけないのか。それを一体どう処理したらいいのか。縋ってしまう。
しかし、そのことを成し得た彼は安堵し立ち上がると、都心へと運んでくれる列車の駅へと歩き出した。
