月の蔵-あたう限りの肉体となりし眠姫ー第16話 転換
転換
「明日は、天気もよさそうですね」
ここのところ梅雨を思わせるような長雨が続き、せっかくの大型連休にも影響を与えていたが、今朝から青空が広がって道路脇の皐月の花々も纏っていた水滴を輝かせながら解き放ち太陽の光を享受していた。
「ええ、助かります。では、明日の九時頃伺います」
そう言うと引越し業者は、お辞儀をして玄関を出ていった。振り返ると積まれているダンボールが迎え片付けられた家の中は全く別の様相を呈していた。
しかし、奇遇というか、初めて真と出会った同じ日に、この家から引っ越しをするとは思わなかった。
輝児はアメリカ留学から帰国し、真の亡くなった両親が残した実家で一緒に暮らしていた。
一人となった今、広すぎるこの家を持て余し気味で仕事も多忙になり、家を処分して職場の近くに居を求めていた。
冷蔵庫の弁当とサラダを取り出すと、レンジで温め夕飯を摂ろうとする。
テーブルの上には、引っ越し荷物に囲まれ置き場所を失った金と銀を基調にした花々の中を螺鈿の蝶が数羽飛び交う姿が彩られた蒔絵の箱が置かれてある。
それは、養父の寺に経典を入れるため代々伝わっていたものだった。彼の遺品として預かった漆黒の中には白い絹布に包まれた粉骨が入っている。
「明日は、引越しだよ。あの車に乗るのも最後だね」
声をかけると、両手を合わせてから食事を始めた。
職場は引越し先から徒歩数分なので、車も処分することにしている。
不思議と身が軽くなったように感じる。
これが、修行僧になった時の気分かなとサラダをつまみながら考えていると。
喝と育ての親の声が響いてくる。まだまだ、半人前かと、独り言を言いペットボトルの緑茶を口に運ぶ。
夕焼けが辺りを染めていく、輝児は庭に出ると縁側に腰を下ろして、夜が来るのを待っていた。ふと、月を探してみたがどこにも見当たらなかった。
湿気を帯びた生あたたかな空気が漂ってくる。
よくここに真と座っては、話をしたり互いに考え事をしたり、時には缶ビールを手に持ってお祝いしたり、喧嘩をした後黙って座り込んだりしていたことが思い出される。
目の前には、街の明かりが白いドームを作っている。その光景は何も変わっていなかった。視線を上げると、飛行機の赤と青の点滅が線を描いていく。その赤がふと庭にある額紫陽花の色と重なった。今年はもう見れないか。
真の身の回りの物を整理し、この家も処分し彼の痕跡を一つ一つ消し去ろうとしている。
夏になれば、伯さんに頼んで船を出してもらい、蒔絵の箱の蓋を開け最後の痕跡を南の海に投げ入れる。
寒さを覚えた身体に夜気がまとわりつき始めた頃、インターホンが鳴った。袖口で顔を拭って門へと歩いて行った。
暖色の玄関灯が人物の影を照らしている。
「どちら様ですか」
不意に直接声をかけられた相手は、身体ごと向きを変える。その姿を認めた輝児は、
「治君」
そう声をかけると扉を開けて相手を招いた。
「こんばんは、ご無沙汰しています」
相手は頭を下げる。玄関に向かった輝児は、ドアに鍵がかかっていることに気がついた。
「ごめん、庭から来たから鍵がかかったままだよ。今開けてくる」
小走りに庭の方へと消えて行った輝児の後ろ姿を見た治は、その動きの軽さに少し違和感を感じていた。扉の鍵が開く音がし、光が辺りを改めて照らした。
「どうぞ、中に入って」
慣れた様子で洗面所に行き手を洗うとリュックサックを肩から外しながら居間へと入って行った。
「久しぶりだね、どうぞ座って」
「引越しされると親から聞いて、挨拶に来ました。輝児先生泣いてました。目が真っ赤ですよ」
「いや、引越し荷物の塵や埃のアレルギーだよ」
「鼻の下も赤くなっています、素直に認めてください」
輝児は諦めると、頷きながら軽く目を擦って話題を変える。
「赴任したばかりで、大丈夫かい」
「はい、南の孤島は別世界でなんだか生まれ変わったようです」
治は部屋を見渡す。
「変わらないですね、この家。先生が大学生になって一人で暮らしを始めた頃、よく遊びに来てました。いつも輝児先生が留学先から帰ってくるのを先生は指折り数えていて、僕の方は戻ってこないでほしかったです」
どうしてと視線を投げかける相手に
「ちょうど反抗期で、逃げ場を求めていたんですよ」
「君が、素直な子なのに、不思議だね」
「人は見かけによりませんからね。引っ越しは明日ですか」
「そうだよ」
「良かった間に合って、先生にもこの家にもお別れができて、先生はどこですか」
目の前にある箱に視線を落とす相手を見て
「綺麗な箱ですね。先生にピッタリだ」
治は両手でその箱を包むと目を閉じた。まるで横たわっている人の顔を包み込むかのように。
輝児も目を閉じると、そこには眠り姫の横顔が姿を表す。
静けさがまるで封印するかのように彼らの思いを覆いつくしていく。治は手を離すと相手の目を見つめ
「あと、ひとつ輝児先生にお願いがあって」
「何かな」
合っていた視線を逸らすと、治は少し俯いて目を閉じ少し思案してから再び顔を上げると
「先生の遺品を分けてもらいたくて」
そう言われた輝児は、治が真にとって血のつながりはないが可愛い弟だったことを思い出す。
真が高校生の時、イギリスにいた両親が病と事故で立て続けに亡くなり、帰国した彼を親代わりに成人するまで育ててくれたのは治の両親だった。
一人息子の治は、真を兄のように慕い、彼の家庭教師をしていた真のことを今でも先生と呼んでいる。
輝児は立ち上がり黒い革張りの箱を持ってくるとテーブルの上に置き、蓋を開ける。
「これが真の遺品」
治の前に差し出す。彼は。両手を出してそれを受け取ると、中のものを一つ一つ惜しむように手に取って、微かに残っている先生の温もりを感じるかのように掌で慈しんでいく。
「好きなのを、選んでいいよ」
全てテーブルの上に置くと、箱のそこには一枚の絵葉書が残っていた。
「これ、僕が先生に渡したものですね」
治は絵葉書を手にしながら
「でも、先生の亡くなった姿を見れなくて良かった。輝児先生もそうでしょう。母が呆れていましたけど。でもしばらくしてから、やっぱり見れないわよね、と何故か涙を抑えながら納得していました」
そうか、あの時の大木夫人の怒りを込めた目は母の目だったのか。自分は母親というものを知らないからそれに呼応する子どもとしての想いはわからない。
真にそういう愛情を注ぐ相手がいたことに改めて気付く。
「ご両親にはお世話になったのにわがままばかり言って、申し訳なかった」
輝児は頭を下げる。
「いえ、両親も突然のことで感情的になってしまったと、反省してましたよ。あれ、指輪がない」
箱の全てを出し終えて、絵葉書を手で弄びながら悪戯っぽい視線を輝児の胸元に向ける。
「これが、欲しいのかい」
そう言うとネックレスを襟元から引き出す。金色の指輪が答えるかのように光を返す。
「それです。先生のでしょ」
「そうだよ。でも、これは渡せないな」
いつの間にか向きになって子どもじみて相手に応えている自分に驚く。
「大丈夫です。僕が欲しいのは、先生の恋人です」
そう言うと治は立ち上がり、輝児の両肩に手を掛ける。
「輝児先生の中にいる先生と一緒にいたいんです。そうすれば、輝児先生が知らない僕の中にいる先生を感じることができるでしょ」
輝児は指輪を握りしめるとその手を治の組んだ手に当て解いていく。
「ありがとう。君は真のことが好きだったのかい」
また、同じ質問を繰り返している。
「はい、でも輝児先生がいたから、諦めました。先生は僕の心の中にしかいなくなってしまいました。だから先生が最も愛した輝児先生を僕にください」
言葉の語尾が静かに広がっていき、輝児の周りを包んでいく。
多様な感情を含んだ自分の知らない真の残影は、まるで夜空に瞬く星の光のように人々の心の中に点在している。
それ自体をどうこうする気持ちは少しもない、それは真個人の世界だから。
しかし、それらが彼に手を伸ばし、真の喪失の大きな黒い穴に引き摺り込もうとしてくる。
何かに縋らないと、このまま悲哀の中に沈められてしまう。一つの温もりが、彼を救える様に感じていく。
インターホンの音に、書類を見ていた手を止めると応答に出る。
「三木さん、S県警の御崎です」
「はい、玄関までお入りください」
そう言うと輝児は、玄関のドアを開けた。
「おはようございます。引越しされるのですか」
ダンボールが自然と目に入る。
「今日の九時に業者が来て引っ越します。どうかしましたか」
「お忙しいところすみません。確認することができまして、昨日大木治さんはこちらに来ましたか」
黒い手帳のページをめくりながら聞く相手に、夜の八時ごろ来て十時過ぎに帰って行ったことを伝える。
「どこにいくか言ってましたか」
「いえ、特には何も聞いていません。事故のことですか」
書き込んだ手帳を上衣のポケットにしまいこむと
「そうです。詳しいことは調査中でお伝えできませんが、検証が済み次第お知らせします。三木先生ご自身は、大丈夫ですか」
相手の顔を見つめて問いかけるが、その目は何のぶれもなく、それを包み込む表情にも微塵の歪みも暗さもない。
事故を受けて初めて会った時から、落ち着いた姿は変わらない。
なんともおおらかと言うか、芯の一本通った昔の戦国武士のような精神の諦観を持った人に会ったのは初めてだった。
「ご心配ありがとうございます。今日引っ越しを済ませれば、一区切りつけそうです」
と、相手の問いに合わせるように答える。
「それは良かった。では、失礼します」
一礼し、玄関から出ていった。
ドアが閉まると一瞬差し込んできた朝日が切り取られる。その薄闇の中に、昨夜の余韻が漂ってくる。
治から、真の恋人である自分を形見分けとして欲しいと言われたとき、触れていた相手の肌が身体の中にある記憶に反応し、彼の意思に反して応えようとしていく己の感情を抑え込み立ち上がると
「それは、できない。無理だよ。もしもだよ、僕が君の希望に沿おうとしても、やはり無理だ。第一、君の好きな先生が、真がそれを許すわけがない」
相手の両肩を掴み、力を込めて言い切った。その言葉は、治には、真と輝児の二重奏になって響いていき、彼の望みを吹き飛ばしていく。
「分かりました、でも先生は僕の手の中にもいるのに」
沈んだ声でそう言うと椅子の上のリュックを取り出て行った。
その治に刑事が聞きたい事とは、何かあったのか。
考えたところで彼にはわからない、御崎からの連絡を待つしかなかった。
