【短編小説】 破壊されたパスポート
その晩、部下を連れて目黒駅前の居酒屋で飲んでいた。私の失恋はほぼ決定的だ。飲酒のペースが上がりそうだったので、私は努めていつも通りに飲もうとしていたが、目の前の枡酒はもう空っぽだった。
「小平くん。升酒お代わり頼んでよ」
「はい、郷さん。同じものですね。今日はペースが速くないですか?」
「何よ、その上から目線の言い方!」
小平くんがビクッとするのがわかった。
『まずい。部下にあたってどうする』
私は取り繕うために、こう続けた。
「ごめん、小平くん」
小平くんは愛想笑いを返しただけで何も言わず、注文用のタブレットを操作していた。
また、利雄のことが頭に浮かんだ。昨晩、あいつに決定的な言葉を言ってしまったのだ。
◇
利雄は相方としてはかなりスペックは高い。身長が高くどちらかと言えばイケメンの部類だ。それに、去年、外資に転職し年収も上がった。3つ年下だが幼さはなく、しっかり者だ。
しかし、付き合ってもう3年目なのに私たちはまだ別居していて、二人とも一人暮らしだ。何度も「一緒に住んだ方が経済的じゃない」と提案したが、いつも「少し考えさせて」といって先延ばしにされてきた。
ところが先月、利雄にシンガポール転勤の話があったのだ。本人はあまり乗り気ではなかったが、断ればキャリアに傷がつくかもしれないと心配し、いろいろ考えた挙句、「3年ぐらいなら良いか」と考えを固めたらしい。
私にその話をしたのは考えを固めた後だった。
「どうしてそんな大事なこと、一人で抱え込んでるわけ?」
わたしは当然そう言って彼を責めた。
「いや、今言ったように、最初断るつもりだったんで言う必要もないかなと思ったんだ」
「そうじゃなくて、どうして海外に行くことを勝手に決めるのよ」
「ごめん。まずは自分でどうしたいかじっくり考えたかったんだ」
「こらこら、私に言わなかった理由が変わってきてるよ。いい加減なこと言わないでよ」
「相変わらず人の矛盾をつくのがうまいな。刑事でもなればよかったんじゃない?」
「何よ、それ。ジョークのつもり?」
少し間をおいて利雄はこう言った。
「睦美はどうしたいわけ?」
「それはこっちのセリフよ。利雄は私にどうして欲しいわけ?」
「休暇の時にこっちへきてよ。自分もなるべく日本に帰るようにするから」
それを聞いて私はとても悲しい気持ちになった。承諾するかは別として、もしかしたら「一緒にきてくれ」と言ってくれるかもしれないと期待していたのだ。
「これまでずっと一緒に暮らしたいと言い続けていたでしょ。それが、これからは逆にもっと疎遠になるっていうことじゃない」
「もう課長に行くって言っちゃったんだ」
「それはもう聞いたわ。『気が変わった』と言えばいいだけでしょ」
「でも、行かないと今後の自分の会社での立場が…」
私は、自分のなかで利雄に対する気持ちが変わるのがわかった。
『もう下手に出るのはイヤ。必要とされていないならもういい』
そんな考えが頭に浮かんだのだ。
「わかった、私の条件を言うわ。断らないんだったら、もうあんたとは終わりにする。会社に断りを入れるまではこのマンションにはもう来ないで」
「そんなー。厳しすぎるよ。浮気とかじゃないんだよ」
「シンガポールと浮気してるでしょ」
言葉を失った利雄はすごすごと帰っていった。私は『やってしまった』と後悔したが、もう取り消す気は起きなかった。
その後、利雄はLINEで「そんなの無理」とか「もう一度話し合おう」とか言ってきたが、すべて既読無視にした。
利雄はさらに、「すぐに答えがでるものじゃない」とか「君のマンションでもう一度状況を説明する」とかメッセージを送ってきた。
私は利雄が一ミリも譲歩していないことに新たに腹がたってきた。そして、昨日はその怒りが臨界値を超えてしまった。冷静さを失った私は「明日までに決心しなかったらもう別れる」とメッセージを送ってしまったのだ。
◇
飲み会がお開きになり、飲み過ぎた私は最寄りの駅から自宅マンションまでふわふわしながら歩いていた。一度、私は車道によろけて出てしまい、後ろからきた車にクラクションを鳴らされてしまった。
「ばかやろう!お前死んでたぞ!生きててよかったと思え」
BMWの運転手は私に罵声を浴びせて去っていった。酔っている私はそれに反応する余裕もなく、引き続きよろよろと自宅に向かって歩き続けた。
「あれ?私のマンションの入り口に誰か立っている」
遠くて暗いので誰なのか全く判別できないが利雄に見えないこともない。
「うそ。そんなはずない」
私はスマホを取り出して利雄に電話した。するとその人物がスマホをカバンから取り出すのが見えた。私は電話を切って走り始めていた。
突然スマホの通知音が聞こえた。止まってスマホを見ると利雄から画像が送られていた。真っ二つに切られた利雄のパスポートだった。
BMWの男は正しかった。
「生きててよかった」
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