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世界史|ウィーン体制など 3つの体制まとめ(戦後秩序)


ウィーン体制(1815~1848年)


1789年にフランス革命が起こると、それまでヨーロッパで主流だった王政中心の秩序は大きく揺らいだ。
フランスでは国王が処刑され、自由や平等を掲げる新しい政治体制が誕生した。
このため、革命が自国へ広がることを恐れたオーストリア、プロイセンなどとの対立が深刻化し、干渉を警戒したフランスとの間で戦争が始まった。
その中で頭角を現したのが軍人ナポレオンであり、自ら皇帝となってフランスの勢力を拡大した。
一時はヨーロッパ大陸の広い範囲を支配下に置いたが、ロシア遠征に失敗し、最後は1815年のワーテルローの戦い(現在のベルギー付近)でイギリス、プロイセンの連合軍に敗れて失脚した。

ナポレオン戦争の戦勝国であるイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンなどの各国代表は、1814~1815年にかけてウィーン会議を開き、戦後のヨーロッパ秩序について話し合った。
会議はオーストリア外相メッテルニヒが主導し、フランス外相タレーランも巧みな外交で敗戦国フランスの地位回復に貢献した。
各国が目指したのは、フランス革命やナポレオン戦争によって崩れたヨーロッパの秩序を立て直し、フランス革命以前の王政中心の秩序を回復することであった。
こうして形成された、ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序がウィーン体制である。
なお、ウィーン会議は各国の利害が対立して交渉が難航する一方、舞踏会や晩餐会など華やかな社交行事が連日のように開かれ、「会議は踊る、されど進まず」と評されたが、最終的にはヨーロッパの戦後秩序を定める重要な合意が成立している。

ウィーン体制の下では、革命によって追放された王家の多くが復位し、列強は協調しながらヨーロッパの安定維持に努めた。
その結果、ヨーロッパはしばらく大規模な戦争のない時代が続いたが、フランス革命やナポレオン戦争によって広まった自由主義や民族主義の思想まで消し去ることはできなかった。
こうした思想に基づく運動は、ウィーン体制下の保守的な王政への反発から起こった、1848年のフランスの二月革命をきっかけにヨーロッパ各地へ広がり、オーストリアではメッテルニヒが失脚した。
こうして、革命前の秩序への回帰を目指したウィーン体制は大きく揺らぎ、その後の自由主義、民族主義の時代へと移っていった。

ヴェルサイユ体制(1919~1930年代)


1914年に始まった第一次世界大戦では、ドイツを中心とする同盟国と、イギリス、フランスなどの連合国が戦い、戦線は長期化して多くの国を巻き込んだ。
終盤にはアメリカが参戦して戦局は連合国側に傾き、1918年にドイツが敗北して戦争は終結、ヨーロッパを中心とする国際秩序は大きく崩れた。

戦後、1919年にパリ講和会議が開かれ、主な戦勝国の代表が集まって戦後処理と新たな国際秩序について協議した。
その結果、ドイツには領土の割譲、軍備制限、多額の賠償金が課されることとなり、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でヴェルサイユ条約が調印された。
また、アメリカのウィルソン大統領が提唱した十四か条の平和原則をもとに、国際連盟が設立された。
こうして形成された、第一次世界大戦後のヨーロッパを中心とする国際秩序がヴェルサイユ体制である。
なお、アメリカはウィルソン大統領の国際協調路線に対し、議会が孤立主義の立場から反対したため、ヴェルサイユ条約を批准せず、国際連盟にも加盟しなかった。

ヴェルサイユ体制の下でヨーロッパは一時的に安定を取り戻したが、敗戦国のドイツには強い不満が残った。
さらに、世界恐慌で各国の経済が悪化して自国優先になり、国際協調を前提とした体制は現実に対応できなくなって批判が高まった。
ドイツではナチスが勢力を拡大し、ヴェルサイユ条約の破棄を主張して支持を集めた。
これらの結果、ヴェルサイユ体制は1930年代には崩壊し、第二次世界大戦へとつながっていった。

ワシントン体制(1921~1930年代)


第一次世界大戦後の国際秩序は、ヨーロッパを中心とするヴェルサイユ体制と、アジア・太平洋地域を中心とするワシントン体制によって形成された。

当時のアジア・太平洋地域では、列強による海軍の拡張競争が続いていたほか、中国をめぐる利権争いも激化しており、国際的な緊張が高まっていた。
こうした状況を受けて、アメリカの主導で1921~1922年にかけてワシントン会議が開催された。

会議には、アメリカ、イギリス、日本、フランスなどの列強が参加し、海軍軍縮や中国問題について協議が行われた。
海軍軍縮については、主力艦の保有比率をアメリカ、イギリスは 5、日本は 3(フランス、イタリアは 1.67)とすることが定められ、日本は米英より少ない保有量に制限された(ワシントン海軍軍縮条約)。
また、太平洋地域の現状維持や、中国の主権尊重、門戸開放が定められた。
こうして形成された、第一次世界大戦後のアジア・太平洋地域を中心とする国際秩序がワシントン体制である。

しかしながら、世界恐慌によって各国が自国優先の政策を強めると、国際協調は次第に弱まった。
1931年に日本が中国東北部で満州事変を起こすと、ワシントン体制の前提であった中国の主権尊重や列強間の協調は大きく揺らぎ、体制は次第に崩壊していった。
そして、アジア・太平洋地域は日中戦争太平洋戦争へと向かっていった。

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