「オレの哲学」は哲学ではない――PFPとしての哲学史【哲学を名乗るな 1/3】

All eyes on…

哲学を名乗るな。

これは「哲学を名乗るな」三部作の第一部である。

第一部では、哲学史をPFPの格闘履歴として見る。第二部では、ニーチェ以後に壊れたリングのあと、現代思想がどこで可能になり、どこでスピるのかを見る。第三部では、人生訓、市民哲学、AI対話哲学、探究学習的な「哲学ごっこ」を斬る。

最初に言っておく。

ぼくは、ラッセルのような哲学史を書ける立場にはない。ここで名前を出す哲学者たちの著作を、すべて読み込んでいるわけでもない。プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン。彼らを本気で読むだけでも、人生がいくつあっても足りない。

だから、これは哲学史の教科書ではない。

だが、だからといって、誰もが自分の人生訓を「哲学」と呼んでよいわけではない。

むしろ逆である。

哲学史の重みを少しでも知っていれば、自分の素朴な人生訓を「哲学」と呼ぶことなど、簡単にはできないはずだ。一人の哲学者を読むだけでも、本来は大変な作業である。まして、哲学史という二千年以上の格闘履歴の中で、自分の問いがどこに立っているのかを考えるなら、ただ「ぼくはこう思う」「私にとって世界はこう見える」と語るだけで済むはずがない。

哲学学者を批判することと、哲学学の重みを軽視することは違う。

ぼくは哲学学者を批判する。哲学をするのではなく、哲学について研究するだけの営みが、哲学そのもののような顔をしていることを批判する。だが、哲学史を読むこと、概念史を押さえること、一人の哲学者を読み込むことの重みを軽蔑しているわけではない。むしろ、その重みを知らないまま「自分の哲学」を語る人間の軽さを批判したいのである。

哲学学者は、哲学を文献の中に閉じ込める。

オレ哲学者は、哲学を自分の人生観に閉じ込める。

前者は哲学者の言葉しか読まない。後者は自分の実感しか読まない。どちらも、世界を読んでいない。


哲学とは何か、という問いはすでに危ない

では、哲学とは何か。

この問いに、きれいな定義を与えることは難しい。いや、そもそも哲学に最初から明確な本質定義などなかった、と言った方がよいのかもしれない。

philosophy は、もともと「知を愛すること」である。だが、その「知」は、いまの自然科学、倫理学、政治学、心理学、社会学、神学、文学、批評、論理学のように、きれいに分化していなかった。世界とは何か。自然とは何か。魂とは何か。善とは何か。国家とは何か。神とは何か。真理とは何か。知るとは何か。そうした問いが、まだ一つの大きな格闘場の中にあった。

metaphysics も同じである。

いまでは「形而上学」と言うと、存在そのもの、世界全体、神、実体、第一原因のような、いかにも大文字の学問を連想する。だが、もともとの名は、かなり事務的である。アリストテレスの自然学の後に置かれたもの。physics の後に置かれたもの。それが meta ta physika であり、後に metaphysics と呼ばれるようになった。

もちろん、それがただの偶然だったと言いたいわけではない。その後、形而上学は、存在や真理や神や世界全体を裁く最高審級のようなものに膨れ上がっていった。だが、ここで重要なのは、哲学の名や境界そのものが、初めから神聖な本質として存在したわけではないということだ。

哲学とは何か。

その答えは、抽象的な定義よりも、哲学史の中にある。

哲学史とは、世界、自然、神、魂、国家、善、真理、知識、言語をめぐって、誰がどのリングで、どの技を使い、誰を倒し、誰に倒されたのかという履歴である。

つまり、哲学史とはPFPである。

pound for pound

格闘技で、階級を超えて誰が強いかを見るランキングである。もちろん、PFPは純粋な実力だけで決まるわけではない。興行、団体、プロモーター、ルール、階級、判定、メディア、スポンサー、観客、時代、運、政治が絡む。誰が強かったのかは、単なる腕力だけでは決まらない。

それでも、誰がどう強かったのかを知らなければ、同じリングには上がれない。

哲学史も同じである。

哲学史は、真理が自然に勝ち残った記録ではない。どの問いが哲学として残り、どの問いが忘れられるかは、大学、出版、講義、翻訳、引用、弟子筋、政治、言語圏、注釈、教育課程、時代の欲望によって決まる。つまり、哲学史は権力ゲームである。

だが、権力ゲームだからこそ、履歴を知らなければならない。

どの技が通ったのか。どの技が潰されたのか。どの構えが時代を作ったのか。どの問いが反則になったのか。どの流派が興行から消えたのか。どの選手が過小評価され、どの選手が神格化されたのか。それを知らずに「自分も哲学している」と言うのは、総合格闘技を見たこともない人間が、路上の腕力自慢でPFPを名乗るようなものだ。

ソクラテスは人生訓を語った人ではない

哲学を語るなら、まずソクラテスを避けられない。

だが、ソクラテスは「自分らしく生きよう」と言った人ではない。人生訓を垂れた人でもない。自己肯定を説いた人でもない。

ソクラテスがやったことは、相手が知っていると思っていることを問い詰めることだった。

勇気とは何か。正義とは何か。敬虔とは何か。善とは何か。相手が当然分かっているつもりで使っている言葉について、「それは何か」と問う。そして、相手の答えを反例にさらし、矛盾を露呈させる。

無知の知とは、「私は何も知らないから自由に考えてよい」という自己肯定ではない。むしろ、自分が知っていると思っているものが、実は他者との議論に耐えられないことを突きつけられる経験である。

だから、哲学は「問いを持つこと」ではない。

問いを持つだけなら、誰でもできる。子どもでもできる。高校生でもできる。市民でもできる。AIと対話してもできる。

だが、問いを持つことと、問いを鍛えることは違う。

哲学とは、素朴な問いを守ることではない。素朴な問いを壊すことに耐えることだ。

「私はこう思う」では終わらない。

その「私」とは何か。
「思う」とは何か。
なぜそう言えるのか。
反対は成り立たないのか。
その言葉は、過去のどの問いとぶつかるのか。
その概念を使うと、どの制度、どの身体、どの責任へつながるのか。

そこまで行かないものは、哲学ではない。

プラトン、アリストテレス、そしてリングの形成

ソクラテスの問答を、プラトンは巨大な構造へと持ち上げた。

プラトンにおいて、哲学は単なる問答ではなくなる。見える世界の背後に、イデアの秩序が立つ。善そのもの、美そのもの、正義そのもの。個別の事物や意見を超えた、より高い秩序が問われる。

ここで哲学は、すでに大文字へ向かう。

だが、プラトンだけでは世界は危うい。イデアは強い。しかし強すぎる。世界を上から裁く力を持つ代わりに、現実の複雑さを切り捨てる危険もある。

アリストテレスは、そこに別の構えを作る。

分類する。定義する。原因を問う。論理を整える。自然を観察する。倫理を論じる。政治を論じる。存在を論じる。アリストテレスは、プラトン的な上昇とは違う仕方で、世界を体系化した。

ここで哲学は、巨大な競技場になる。

自然、論理、倫理、政治、詩学、形而上学。まだ分化していない知が、哲学の中にある。哲学とは、すべてを語る最高審級であるかのように見え始める。

このリングは、強い。

だが、強いリングは、いつか神格化される。

中世は哲学ではなかったのか

中世を雑に飛ばしてはいけない。

中世哲学は、近代以後の意味での自律した哲学ではない。神学の枠の中にある。だが、それを理由に「哲学ではない」と捨てるのは雑である。

アウグスティヌスは、内面、時間、記憶、意志、罪、神をめぐって、恐ろしく深く考えた。彼の「内面」は、後の近代的主体にもつながる。デカルト以前に、「私が疑っている」という形で自己の確実性に近い場所へ到達していたとも言える。

トマス・アクィナスは、アリストテレスをキリスト教神学の中に取り込んだ。これは単なる神学ではない。神学的秩序の中で、哲学的理性が高度に作動していた時代である。

ここで重要なのは、哲学がいつも純粋な自由思考だったわけではないということだ。哲学は、教会、大学、神学、権威、翻訳、注釈、異端審問、制度の中で動いてきた。

つまり、最初からリングは権力と無関係ではなかった。

哲学史は、自由な精神の勝利の歴史ではない。権力の中で、言葉がどのように鍛えられ、保存され、変形され、時に殺されてきたかの歴史である。

近代哲学のリング

近代になると、リングの中心が変わる。

デカルトは、神や世界からではなく、疑う私から始める。方法的懐疑。コギト。明証性。数学的自然学。ここで近代的主体が立ち上がる。

もちろん、デカルトだけが突然それを発明したわけではない。同じような問いはすでにあった。アウグスティヌスにも先行形はある。だが、哲学史のPFPでは、デカルトが近代のリングを取った。

なぜか。

問いの強度だけではない。時代、自然科学、数学、宗教戦争、出版、大学、後続の引用、哲学史の組み立て。そのすべてが、デカルトを近代哲学の出発点として残した。

それでよい。

哲学史とは、そういうものだからだ。

ホッブズロックルソーは、国家と社会契約をめぐるリングを作った。国家は何によって正当化されるのか。自由とは何か。人民とは何か。主権とは何か。近代政治哲学は、ここで社会の制度そのものを問う。

ヒュームは、因果、自己、経験、習慣を切り崩した。カントは、ヒュームによって起こされた。人間は世界をそのまま知るのではない。経験が成立する条件そのものを問わなければならない。カントは、認識、道徳、美、目的論を、巨大な仕組みとして再構築した。

そしてヘーゲルが来る。

ヘーゲルにおいて、哲学は歴史そのものを飲み込もうとする。精神、弁証法、国家、歴史、自由。世界の展開そのものが、哲学の体系へ組み込まれる。

ここで大文字の哲学は、ほとんど頂点に達する。

哲学は、世界の意味を裁くリングだった。存在、真理、善、国家、歴史、人間。すべてを一つの審級へ集めようとした。

だが、そのリングは壊れる。

ニーチェがリングを壊した

ニーチェである。

ニーチェは、単に「神は死んだ」と言った人ではない。道徳、真理、主体、理性、善悪、キリスト教、近代、哲学そのものを、身体、力、ルサンチマン、生、解釈、価値創造の側から切り裂いた。

ニーチェは、形而上学を完成させたのではない。

少なくとも、ぼくはそう見ない。

ハイデガーは、ニーチェを西洋形而上学の完成者として読んだ。これはハイデガーの歴史読解である。ぼくは、その読解そのものには乗らない。ぼくにとってニーチェは、形而上学を完成させた者ではなく、リングを壊した者である。

だが、重要なのは、ハイデガーほど哲学史に深く潜った者が、ニーチェを西洋哲学史の決定的地点として読まざるをえなかったことだ。

ハイデガーは、ニーチェを無視できなかった。

天才はいる。悔しいが。ハイデガーはそう思いながらニーチェを読み込み、講義にまとめたのだろう、とぼくは推測する。

ニーチェ以後、大文字の哲学はそのままでは成立しない。世界全体を裁く哲学。真理の最高審級としての哲学。善や存在や歴史を一つのリングに集める哲学。そういうものは、ニーチェによって壊された。

もちろん、その後も哲学は続く。

分析哲学は、論理、言語、意味、科学、認識の小さなリングへ行った。フッサールは、経験がいかに与えられるかを厳密に記述しようとした。ウィトゲンシュタインは、前期には論理で世界の限界を引き、後期には言語ゲームと生活形式の中へ降りた。フーコーは、制度、身体、知、権力の配置を問うた。デリダは、署名、差延、誤配、テクスト、境界を解体した。ローティは、哲学を最高審級から降ろし、公共的会話と再記述へ向かった。

だが、ここで重要なのは、大文字の統一リングがもうないということだ。

小さなリングはある。
技術戦はある。
読解はある。
批評はある。
制度分析はある。
公共的再記述はある。
身体的実践はある。

しかし、かつてのように「哲学」が世界全体を裁く天然のリングは、もうない。

では、現代で知を愛しているのは誰か

ここで嫌な問いが出る。

philosophy が「知を愛すること」だとするなら、現代において、その態度を最も強く制度化しているのは、実は自然科学ではないか。

仮説を立てる。
検証する。
反証される。
再現性を問う。
査読される。
共同体内で批判される。
理論を更新する。

もちろん、自然科学にも権力はある。予算もある。大学もある。国家もある。軍事もある。企業もある。査読共同体も万能ではない。だが、それでも、現代において「自分の考えを壊されることに耐える」制度として、自然科学は圧倒的に強い。

では、人文学はどうなるのか。

人文学は、もはや天然芝では戦えない。

ここで言う天然芝とは、専門性が高度に養生され、保護され、踏み荒らされないように管理される場である。ぼくは以前、「天然芝の人文学――専門性は誰のために養生されるのか」という文章で、その問題をサッカースタジアムの天然芝問題に重ねて論じた。

天然芝は、最高の競技環境を支えるかもしれない。だが、養生が必要で、使える人が限られ、公共施設でありながら公共に使いにくくなる。人文学の専門性も同じである。高度な専門性は必要だ。だが、それが養生されすぎれば、公共のスタジアムなのに誰も踏めない芝になる。

では、専門性を捨てればいいのか。

違う。

空き地でボールを蹴ることを、競技と呼ぶわけにはいかない。

必要なのは、人工芝である。

人工芝とは、専門性を捨てることではない。踏めるように加工された専門性である。検証可能で、継承可能で、再利用可能な知識基盤である。壊れたら直せる。踏まれても使える。公共に開かれている。だが、なお競技として成立する。

現代の人文学は、人工芝を敷いたスタジアムで試合することでしか、公共性と興行性を保てない。

哲学も同じである。

天然芝の哲学は、もう養生されすぎている。哲学学者は、過去の試合映像を保存し、技術体系を整理し、判定の歴史を読み、ルール変更を追っている。その仕事は必要だ。だが、それだけでは公共性は自動的には担保されない。

一方で、オレ哲学者、市民哲学者、AI対話哲学者は、しばしば空き地でボールを蹴っているだけである。自分の人生訓を語り、自分の存在証明を語り、AIに哲学者名を貼ってもらい、それを「哲学」と呼ぶ。

だが、それは哲学ではない。

哲学を名乗るなら、リングに立て。

哲学を名乗るな

哲学とは、知識マウントではない。

だが、無知の自己肯定でもない。

哲学史をすべて読めと言っているのではない。すべての哲学者を読めと言っているのでもない。ぼく自身、そんなことはできていない。

だが、哲学を名乗るなら、自分の問いが、二千年以上のPFPの格闘履歴の中でどこにあるのかを考えなければならない。

ソクラテスに壊される覚悟はあるか。
プラトンの上昇に耐えられるか。
アリストテレスの分類に耐えられるか。
アウグスティヌスの内面に耐えられるか。
デカルトの懐疑に耐えられるか。
ヒュームの解体に耐えられるか。
カントの条件づけに耐えられるか。
ヘーゲルの体系に耐えられるか。
ニーチェの破壊に耐えられるか。
ウィトゲンシュタインの沈黙と用法に耐えられるか。
フーコーの制度分析に耐えられるか。
デリダの誤配に耐えられるか。

それらをすべて読めとは言わない。

だが、それらがいたことを知らずに、「自分の哲学」を語るな。

自分の人生訓を語ることは自由である。自分の悩みを書くことも自由である。自分の問いを持つことも自由である。だが、それはまだ哲学ではない。

哲学は、「私を見て」ではない。

哲学は、「私の言葉を壊してくれ」に近い。

次回は、ニーチェ以後の現代思想を見る。リングが壊れた後、何が残ったのか。どこに小さなリングが作られたのか。どこでスピったのか。ソーカル事件、ラカン、ドゥルーズ、デリダ、フーコー、ローティ、須原一秀。そこを仕分ける。

哲学を名乗るな。

リングに立て。

Word up.

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