哲学者は死んだ――残ったのは哲学学者とスピリチュアル業者である
All eyes on 哲学者。
哲学者はもういない。
いるのは、哲学学者である。
あるいは、哲学の言葉を使うスピリチュアル業者である。
普通は「哲学研究者」と言うのだろう。だが、ここではあえて「哲学学者」と呼ぶ。
哲学学者。
哲学者に似ている。だが、哲学者ではない。
哲学学者は、哲学者を読む。
プラトンを読む。
アリストテレスを読む。
カントを読む。
ヘーゲルを読む。
ニーチェを読む。
ハイデガーを読む。
デリダを読む。
ローティを読む。
原典を確認する。語義を確認する。翻訳を比較する。解釈史を追う。先行研究を整理する。注を付ける。文献を調べる。
それは必要な仕事である。
そこに軽蔑はない。
哲学学者は必要である。哲学者のテキストを読めるようにし、思想史の文脈を整え、雑な誤読を修正し、概念の来歴を明らかにする。これは学問として正当である。
だが、それは哲学ではない。
哲学についての学問である。
哲学学者は、哲学者を研究する者である。
哲学者は違う。
哲学者は、世界を読む者である。
哲学者とは何だったのか
哲学者は、原典に仕える者ではない。
もちろん、哲学者も先行する哲学者を読む。だが、哲学者の本質は、誰かのテキストを正確に読むことではない。
哲学者は、世界を相手にする。
存在とは何か。
真理とは何か。
善とは何か。
正義とは何か。
自由とは何か。
国家とは何か。
技術とは何か。
人間とは何か。
死とは何か。
身体とは何か。
言語とは何か。
歴史とは何か。
そういう問いを立てる。
この身振りは、今でも魅力的である。
なぜなら、哲学者は大きな言葉を扱うからである。
存在。
真理。
善。
正義。
自由。
主体。
他者。
歴史。
共同体。
公共性。
技術。
資本。
生命。
世界。
こうした言葉には魔力がある。
そして、その魔力こそが危険である。
大きな言葉を扱う者は、自分の概念が世界を説明していると思い始める。
自分の語彙が、世界の背後にある真理を掴んでいると思い始める。
その瞬間、哲学はスピる。
哲学がスピるとはどういうことか
前に、ぼくは「スピる」とは何かを書いた。
スピるとは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念に逃げることである。
この定義は、哲学にもそのまま刺さる。
哲学がスピるとは、哲学が難解になることではない。
哲学が抽象的になることでもない。
宗教的な語彙を使うことでもない。
哲学がスピるとは、自分の概念を現実より上位に置くことである。
制度を見ない。
身体を見ない。
責任を見ない。
因果を見ない。
現実の運用を見ない。
その代わりに、存在、正義、他者、公共性、共同体、生命、技術、資本主義、近代、人間性、倫理、ケア、コモンズ、民主主義、多様性、包摂といった大きな語彙で現実を覆う。
それは哲学ではない。
哲学の言葉を使ったスピである。
操作概念として使うならよい。
だが、それを世界の真理にした瞬間、哲学はスピる。
神は死んだ
ここでニーチェが来る。
「神は死んだ」。
これは単なるキリスト教批判ではない。
超越的な根拠が死んだ、ということである。
善そのもの。
真理そのもの。
意味そのもの。
歴史の目的そのもの。
人間の本質そのもの。
世界の背後にある本当の世界。
そういうものを、もう素朴には置けない。
ニーチェは、背後世界を疑った。
この世界の背後に、より本当の世界がある。
現実の苦痛の背後に、救済の物語がある。
身体の背後に、純粋な精神がある。
偶然の背後に、神の計画がある。
歴史の背後に、目的がある。
こうした態度を疑った。
だからニーチェは、本来かなり非スピである。
ただし、ニーチェ自身もまた、すぐスピられる。
超人。
永劫回帰。
力への意志。
これらを新しい神として崇拝した瞬間、ニーチェはスピる。
つまり、ニーチェ以後、哲学者を名乗る者は、自分が新しい神を作っていないかを検品し続けなければならない。
自分の概念が、また別の背後世界になっていないか。
自分の語彙が、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばしていないか。
自分の哲学が、世界を読むのではなく、世界の上に自分の神を置いていないか。
この自己検品なしに、現代で哲学者を名乗ることはできない。
だが、その自己検品に耐えられる哲学者は、おそらくほとんどいない。
最後の哲学者としてのハイデガー
最後の哲学者は、おそらくハイデガーだった。
もちろん、ハイデガー以後にも哲学者と呼ばれる人間はたくさんいる。
だが、「世界全体を相手にする」という古典的な意味での巨大な哲学者は、ハイデガーでほぼ終わったのではないか。
ハイデガーは、存在を語った。
技術を語った。
西洋を語った。
歴史を語った。
詩を語った。
人間の住まい方を語った。
西洋形而上学の運命を語った。
これは明らかに哲学者の身振りである。
哲学がまだ、世界全体を語れるかのように振る舞っている。
そこには巨大な魅力がある。
ハイデガーは魅力的である。
なぜなら、彼は哲学がかつて持っていた最大の誘惑を、最後まで演じたからである。
世界を一つの語彙で読み替える。
技術の問題を、単なる工業や政策やリスク管理の問題としてではなく、「存在」や「西洋形而上学」の問題として語る。
人間の生活を、単なる社会制度や労働や消費や居住の問題としてではなく、「住まうこと」や「詩作すること」の問題として語る。
これは強い。
強すぎる。
だから危険である。
ハイデガーは、最後の哲学者だった。
同時に、哲学がスピリチュアル業者へ転落する境界線でもあった。
「存在の呼び声」。
「技術の本質」。
「ゲシュテル」。
「西洋形而上学の運命」。
こうした語彙は、操作概念として使うならまだよい。
だが、現実の技術、産業、制度、責任、費用、運用、リスク、政策判断を飛ばして、存在論的な大きな物語へ上昇した瞬間、哲学はスピる。
原子力発電は、存在の問題である前に、制度、リスク、費用、責任、運用、技術、地域、身体の問題である。
情報技術もそうである。
AIもそうである。
環境問題もそうである。
現実の層を通らず、いきなり「技術の本質」や「存在の忘却」へ飛ぶなら、それは哲学ではない。
詩である。
詩として読むならよい。
だが、哲学として世界を裁くなら、それはスピである。
分析哲学は別の道を行った
一方、英米系の分析哲学は別の道を行った。
分析哲学は、哲学がスピらないための一つの自衛策だったとも言える。
論理。
言語。
意味。
指示。
真理条件。
認識。
科学。
心。
行為。
規範。
大きな世界語りを避け、問いを細かく切り、概念を分析し、論証を確認する。
これは、スピらないためには有効である。
しかし、その結果、哲学者は消えていく。
残るのは、論理学者、言語哲学者、科学哲学者、心の哲学者、倫理学者、政治哲学者、分析形而上学者である。
専門家は残る。
だが、「哲学者」は薄まる。
分析哲学は、スピらないために哲学者であることを放棄した。
これは悪口ではない。
むしろ誠実な撤退である。
哲学が世界全体を語ろうとすれば、すぐスピる。
ならば、世界全体を語らない。
問いを小さくする。
論理を確認する。
言語を整理する。
概念を切る。
それは正しい。
だが、その正しさの代償として、哲学者はいなくなる。
ハイデガーの後始末としてのデリダとローティ
ハイデガーの後に、二つの後始末が来た。
大陸側ではデリダである。
英米側ではローティである。
デリダは、ハイデガー以後の大陸哲学の側から、哲学の言葉をほどいた。
彼は、哲学を新しい体系として継承しなかった。
むしろ、哲学の言葉が自分自身の足場を失っていく場所で、そのずれを書き続けた。
差延。
痕跡。
エクリチュール。
脱構築。
郵便。
贈与。
亡霊。
デリダの語彙は危険である。
すぐスピられる。
だが、デリダ自身は単純に大きな意味へ逃げたわけではない。
むしろ、大きな意味が成立する足場を疑い続けた。
哲学が真理を語ろうとする。
そのとき、その語りの内部にあるずれを読む。
起源を語ろうとする。
その起源がすでに遅れていることを読む。
中心を立てようとする。
その中心が周縁に依存していることを読む。
デリダは、哲学が不可能になった場所で、それでも哲学の言葉を紡いだ。
だから、デリダのテキストはしばしば哲学と文学の境界にある。
『絵葉書』は、その意味で象徴的である。
あれは哲学書である。
だが同時に、手紙であり、断片であり、批評であり、ほとんど小説でもある。
ここが重要である。
デリダは、哲学を体系として延命したのではない。
哲学が自分の住所を失った後で、届くかどうか分からない言葉を書いた。
だから、デリダは『知の欺瞞』型の断罪からも微妙に逃れる。
科学用語を雑に借りて、世界を説明する権威にするタイプではないからである。
もちろん、デリダ読者はすぐスピる。
「脱構築」を大きな神にする。
「他者」を大きな神にする。
「差延」を大きな神にする。
「亡霊」を大きな神にする。
それはドスピである。
だが、デリダ自身は、少なくともその神を固定しないために書いていた。
一方、ローティは、英米分析哲学の内部から哲学を降ろした。
ローティは、哲学が知識や道徳や政治を基礎づける最高裁判所であることを断念した。
哲学は、世界を映す鏡ではない。
哲学は、知の基礎ではない。
哲学は、文化の最終審級ではない。
哲学は、一つの語彙である。
一つの会話である。
一つの文化実践である。
ローティはかなり明快である。
デリダが、哲学が不可能になった場所でなお書き続けた人だとすれば、ローティは、哲学が不要になった場所から話した人である。
デリダは、哲学を内側からほどいた。
ローティは、哲学を外側から降ろした。
方法も文体も違う。
だが、二人はかなり深いところで共鳴していた。
どちらも、哲学がもう神の代理人ではないことを知っていた。
ハイデガーの読みすぎ
ここで、ローティ自身の冗談を置いておきたい。
渡辺幹雄『リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師』文庫版へのあとがきによれば、ローティは膵臓癌にかかったとき、ハーバーマス宛てのメールで、自分がデリダを死に至らしめたのと同じ病気にかかった、と冗談を言い、さらに、娘はこの種の癌が「ハイデガーの読みすぎ」に違いないと思っているらしい、と書いたという。
これは単なる病気の冗談ではない。
ローティはここで、デリダと自分を並べている。
そして、その背後にハイデガーを置いている。
しかも、その宛先がハーバーマスであることも象徴的である。
ただし、ここでハーバーマスのプロジェクトには踏み込まない。
重要なのは、ハイデガー以後の大陸側にデリダがいて、分析哲学以後の英米側にローティがいた、という配置である。
ハイデガーは、最後の哲学者だった。
デリダは、その死後に届く絵葉書を書いた。
ローティは、その死亡診断書を書いた。
そして、その三者をつなぐ冗談として「ハイデガーの読みすぎ」がある。
ハイデガーは毒である。
だが、哲学において毒は魅力である。
ハイデガーを読むと、世界全体が一つの巨大な意味を持っているように見えてくる。
存在が語りかけてくるように見える。
技術が西洋形而上学の運命に見える。
言語が存在の家に見える。
詩人が世界を開く者に見える。
人間が存在の牧人に見える。
これは美しい。
そして危ない。
その美しさに酔った瞬間、哲学はスピる。
ローティは、その毒を知っていた。
デリダも、その毒を知っていた。
だから、二人はハイデガーをただ捨てなかった。
しかし、そのまま信じもしなかった。
ここが重要である。
ハイデガーを読まない哲学は浅い。
ハイデガーを信じる哲学は危ない。
ハイデガーを読みすぎた哲学は、たいていスピる。
では、哲学者はどこへ行ったのか
ハイデガー以後、哲学者は二つに分かれた。
一つは、哲学学者である。
もう一つは、哲学の言葉を使うスピリチュアル業者である。
哲学学者は、哲学者を読む。
これは必要である。
だが、哲学者ではない。
哲学の言葉を使うスピリチュアル業者は、世界を語る。
存在を語る。
正義を語る。
他者を語る。
公共性を語る。
共同体を語る。
ケアを語る。
コモンズを語る。
生命を語る。
資本主義を語る。
近代を語る。
民主主義を語る。
多様性を語る。
包摂を語る。
環境を語る。
技術を語る。
だが、その語りはしばしば、制度・身体・責任・因果を飛ばす。
現実の制度設計を見ない。
誰が責任を負うのかを見ない。
誰の身体に負担がかかるのかを見ない。
どの因果関係が本当に働いているのかを見ない。
どの制度が機能していないのかを見ない。
どの運用が破綻しているのかを見ない。
その代わりに、大きな言葉で現実を覆う。
それは哲学ではない。
哲学の言葉を使ったスピである。
哲学者を名乗る条件
では、現代に哲学者は本当に一人もいないのか。
厳密に言えば、いるかもしれない。
だが、哲学者を名乗る条件は極端に厳しくなった。
神が死んだ後で、哲学者を名乗る者は、自分の概念が新しい神になっていないかを常に点検しなければならない。
自分の語彙が、現実の上に君臨していないか。
自分の理論が、世界を裁く最高審級になっていないか。
自分の言葉が、制度・身体・責任・因果を飛ばしていないか。
自分の思想が、単なる詩を政治や制度の根拠として密輸していないか。
自分の批判が、別の神学になっていないか。
この自己検品を続けられる者だけが、かろうじて哲学者を名乗れる。
だが、多くの場合、人はその検品に耐えられない。
大きな言葉は気持ちいい。
哲学は、人を気持ちよくする。
自分が世界を読めているような気にさせる。
自分が時代を見抜いているような気にさせる。
自分が他人より深い場所に立っているような気にさせる。
そこが危ない。
哲学は、スピリチュアル業者に最も近い場所にある。
だからこそ、哲学者は自分を疑わなければならない。
哲学学者は必要である
念のため言っておく。
哲学学者を馬鹿にしているわけではない。
むしろ、哲学学者は必要である。
原典を読めない者が、ハイデガーを語るとろくなことにならない。
ニーチェを読めない者が、超人を語るとろくなことにならない。
デリダを読めない者が、脱構築を語るとろくなことにならない。
ローティを読めない者が、ポストモダンを語るとろくなことにならない。
哲学学者は、哲学の暴走を抑える。
注釈、文献、語義、文脈、解釈史。
それらは地味である。
だが、地味だから必要である。
ただし、それは哲学ではない。
哲学についての学問である。
そこを混同してはならない。
哲学学者を哲学者と呼ぶと、哲学が何だったのかが見えなくなる。
哲学者は、世界を読む者だった。
哲学学者は、哲学者を読む者である。
この違いは大きい。
哲学者は死んだ
哲学者は死んだ。
残ったのは、哲学学者である。
あるいは、哲学の言葉を使うスピリチュアル業者である。
最後の哲学者は、おそらくハイデガーだった。
彼は、哲学が持っていた最大の誘惑を最後まで演じた。
そしてその誘惑が、哲学をスピらせるところまで見せてしまった。
デリダは、その後に届く絵葉書を書いた。
ローティは、その死亡診断書を書いた。
分析哲学は、哲学がスピらないために、哲学者であることを捨てた。
大陸哲学は、哲学者であり続けようとして、しばしばスピリチュアル業者になった。
では、ぼくたちはどうすればいいのか。
哲学学者になるか。
それとも、スピリチュアル業者になるか。
どちらでもない道があるとすれば、それは自分の神を殺し続けることだ。
世界を読む。
だが、世界の背後に自分の神を置かない。
概念を使う。
だが、概念を崇拝しない。
詩を書く。
だが、詩を制度の根拠にしない。
哲学に触れる。
だが、哲学の言葉で現実を踏み潰さない。
哲学学者は、哲学者を読む。
哲学者は、世界を読む。
だが、世界を読んだつもりで、世界の背後に自分の神を置いた瞬間、哲学はスピる。
神は死んだ。
だから哲学者も、自分の神を殺し続けなければならない。
それができない者は、哲学者ではない。
哲学の言葉を使うスピリチュアル業者である。
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