複線型トラックの実例としてラブコメを読む――『めぞん一刻』と『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』

『めぞん一刻』と『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、どちらもラブコメである。

だが、ただのラブコメではない。どちらも、未完成な男が、恋愛、性、仕事、共同体、家族形成を通じて大人になっていくBildungsromanである。日本語で言えば、形成小説、あるいは成長小説である。

ここでいう成長とは、「内面が豊かになりました」という話ではない。もっと即物的な話である。働けるようになる。誰かを引き受けられるようになる。性を、責任の発生として受け止める。家族を持つ。自分が食っていく場所を見つける。共同体の中に、自分の位置を獲得する。

だからこの二作は、恋愛マンガとしてだけではなく、複線型トラックの物語として読める。

複線型トラックとは、全員が同じ学校歴、同じ進学、同じホワイトカラー就職へ向かうのではなく、それぞれの適性、環境、職能、身体性に応じて、複数の社会参加ルートを設計するという考え方である。大学へ行く者もいる。高専へ行く者もいる。職業高校から現場へ行く者もいる。現場に出てから専門職へ戻る者もいる。都市のオフィスで働く者もいれば、地方の生産現場で働く者もいる。

この意味で、『めぞん一刻』と『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、単なる懐かしの名作ではない。前者はホワイトカラー幻想真っ最中の時代に、そのレールから落ちかけた青年の形成を描いた作品である。後者は、ホワイトカラー幻想が壊れた後に、現場労働、性、家族、専門職への学び直しを通じて、複線型トラックそのものを描いた作品である。

ぼくはそう読んでいる。


一、二つの作品

『めぞん一刻』は、高橋留美子の代表作の一つである。1980年代に『ビッグコミックスピリッツ』で連載され、アニメ化もされ、海外にも一定の認知がある。古いアパート「一刻館」を舞台に、浪人生から大学生になる五代裕作と、若い未亡人の管理人・音無響子の恋愛を描いた作品である。

一方、『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、ゆうきまさみの作品である。1990年代後半に『週刊少年サンデー』で連載された。舞台は北海道の競走馬生産牧場、渡会牧場である。主人公の久世駿平は、北海道旅行中に行き倒れかけ、渡会牧場に拾われる。そこで馬と、渡会家の四姉妹と、牧場労働に出会う。

知名度で言えば、『めぞん一刻』の方がはるかに大きい。高橋留美子という作家の国際的認知もある。アニメ化もある。作品の古典化も進んでいる。

『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、それに比べるとかなり地味である。ゆうきまさみと言えば、まず『機動警察パトレイバー』が挙がる。『究極超人あ〜る』や『鉄腕バーディー』を挙げる人もいるだろう。『じゃじゃグル』は、ゆうきまさみの中でも、代表作として語られる頻度は相対的に低い。

だが、ぼくはこの作品を、本当に名作だと思っている。

それも、単に「好きな作品」という意味ではない。ホワイトカラー幻想後の日本において、人間がどう働き、どう愛し、どう家族をつくり、どう専門職へ接続されるかを、少年誌のラブコメの形で描いた、過小評価された名作だと思っている。

二、『めぞん一刻』はホワイトカラー幻想真っ最中の落後者の物語である

『めぞん一刻』の五代裕作は、ホワイトカラー幻想がまだ強く生きていた時代の落後者である。

大学に行く。就職する。会社員になる。結婚する。都市で中流生活を営む。

この標準ルートがまだ強かった時代に、五代はそこにうまく乗れない。浪人する。大学に入っても頼りない。就職活動もうまくいかない。響子さんを好きになっても、なかなか決定的な一歩を踏み出せない。何をするにも遅い。弱い。迷う。逃げる。

だが、その頼りなさは、単なるキャラクター属性ではない。社会的な遅れとして描かれている。五代は、ホワイトカラー幻想の時代に、ホワイトカラー的な勝者になれない青年である。

そして、一刻館もまた、かなりグレーな場所である。

一刻館は、きれいな中流住宅ではない。新婚家庭のための清潔なマンションでもない。古いアパートである。そこには、キャバレー勤めの朱美さんがいる。着流しで素性不明の四谷さんがいる。酒を飲み、騒ぎ、生活臭を撒き散らす一の瀬さんがいる。彼らは、80年代的な「きれいな都市中流」の外側にいる。

五代は、そういう場所に住んでいる。

つまり彼は、完全な不良でも、完全な逸脱者でもない。しかし、白い中流社会の真ん中にもいない。大学生ではある。就職も目指している。響子さんと結婚したいとも思っている。だが、彼がいる場所は、一刻館という半端で、グレーで、猥雑な共同体である。

この中間性が、『めぞん一刻』の強さである。

五代は、最後に大企業サラリーマンとして勝つわけではない。彼は保育士になる。これは重要である。ホワイトカラー幻想のただ中にある作品でありながら、五代の着地点は、典型的な会社員ではない。彼は、子どもを相手にする仕事に就く。ケアの仕事に就く。高収入のエリートコースではなく、地味で、身体的で、責任の重い仕事に就く。

そのうえで、響子さんと結婚する。

『めぞん一刻』における結婚は、恋愛の報酬ではない。五代が、ようやく社会的責任を引き受けられる位置に達したことの確認である。響子さんは、単なるヒロインではない。五代が大人になったかどうかを測る審級である。

響子さんには、惣一郎さんという死者がいる。五代は、その死者の影を消すことはできない。勝つこともできない。ただ、引き受けるしかない。過去を持った女性を、過去ごと引き受けるしかない。

だから、五代と響子さんの関係において、性行為は単なる恋愛成就ではない。死者の影を越えて、現在の相手を引き受ける通過儀礼になる。五代の童貞性、劣等感、未成熟さは、そこで試される。青年誌である『ビッグコミックスピリッツ』だから描けた、という面はもちろんある。しかし、それ以上に重要なのは、それが物語上の必然だったということだ。

五代は、恋愛によって救済されるのではない。恋愛を通じて、仕事、性、死者、共同体、結婚を引き受ける人間へ形成される。

だから『めぞん一刻』は、ラブコメでありながら、形成小説である。

三、『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』はホワイトカラー幻想後の物語である

『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、最初からホワイトカラー幻想後の作品である。

ここには、都市の大学生モラトリアムはない。もちろん、進学や受験は出てくる。駿平は高校生であり、のちに獣医大学を視野に入れる。しかし、作品の出発点は学校ではない。都市でもない。会社でもない。

牧場である。

北海道の競走馬生産牧場である。

これが決定的に重要である。牧場は、田舎の癒やし空間ではない。美少女に囲まれた少年の楽園でもない。生産現場である。馬はかわいいだけではない。血統がある。繁殖がある。出産がある。故障がある。売買がある。経営がある。競走成績がある。死がある。

駿平は、そこに身体ごと放り込まれる。

この時点で、『じゃじゃグル』は、普通の少年ラブコメとは違う。少年が女の子に囲まれる話ではある。美人ぞろいの四姉妹もいる。ラブコメ的な構造もある。だが、そこで起きていることは、単なる恋愛ゲームではない。駿平は、牧場労働の中で、働く身体を作られていく。馬に触れる。糞尿に触れる。出産に立ち会う。経営の厳しさに触れる。地方の家族経営のリアリティに巻き込まれる。

つまり、『じゃじゃグル』は、学校的な教養形成ではなく、現場への投入による形成を描いている。

ここが、複線型トラック論にとって非常に重要である。

単線型社会では、学校を出てから仕事に入る。学歴を積んでから社会に出る。普通科高校、大学、会社という順序が想定される。だが、『じゃじゃグル』では順序が違う。駿平は、まず現場に入る。現場で労働を知る。そこで自分の欲望と適性を発見する。その後、獣医という専門職へのルートを考える。

これは、「現場から学問へ戻る」ルートである。

そして、これはぼくが複線型トラック論で言ってきたこととかなり近い。全員を一度普通科的な抽象空間に閉じ込めてから、大学へ送り、その後に仕事を考えさせるのではない。現場、職能、身体、生活、家族、地域の中で、自分がどのように社会参加するのかを見つける。そのうえで必要なら学び直す。専門職へ進む。

『じゃじゃグル』は、それを少年誌のラブコメとして描いている。

四、両作はラブコメでありBildungsromanである

『めぞん一刻』と『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』の構造的類似性は、どちらもラブコメでありながら、実質的にはBildungsromanであるところにある。

普通、ラブコメでは恋愛が主軸になる。主人公がヒロインと結ばれるかどうか。誤解が解けるかどうか。ライバルに勝つかどうか。そういう構造で読まれる。

しかし、この二作では、恋愛は主人公の社会的形成と切り離せない。

五代にとって、響子さんを好きになることは、単に恋愛対象を得ることではない。彼は、響子さんを好きになることで、自分が何者でもないことを突きつけられる。浪人生であり、学生であり、金もなく、仕事もなく、覚悟もない。だから、響子さんを本当に引き受けるためには、彼自身が社会的に形成されなければならない。

駿平にとって、ひびきさんを好きになることも、単なる恋愛感情ではない。ひびきさんは牧場の人間である。馬の人間である。生産現場の人間である。彼女を好きになることは、牧場という世界に入ることと切り離せない。駿平は、ひびきさんだけを取り出して都市へ持ち帰ることはできない。彼女を好きになるなら、牧場、馬、家族、仕事、地域、未来を引き受けるしかない。

だから両作において、恋愛は逃避ではない。

恋愛は、現実へ入るための装置である。

ここが、ただのラブコメとの違いである。主人公は、好きな女の子と結ばれて幸福になるのではない。好きな女の子と結ばれるために、あるいは結ばれてしまったために、仕事、性、家族、共同体、将来の責任へ入っていく。

これは形成小説である。

そして、形成小説として優れているからこそ、この二作はラブコメとしても強い。恋愛感情だけで物語を動かしていない。人間が社会に着地する過程を描いている。だから、読後に残るものが違う。

五、性行為はイニシエーションである

この二作をBildungsromanとして読むなら、性行為の扱いは避けられない。

『めぞん一刻』では、性は五代と響子さんの関係における通過儀礼である。響子さんは未亡人であり、過去に結婚していた女性である。五代は未成熟な青年である。そこには、経験の差がある。死者の影がある。劣等感がある。嫉妬がある。恐れがある。

だから、五代と響子さんの性は、単なる「結ばれました」という記号では済まない。五代が、響子さんを過去ごと引き受ける場面になる。響子さんもまた、死者への忠誠だけではなく、生きている五代との現在を選ぶ場面になる。

これは青年誌だからできた、という面はある。

だが、『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』が特異なのは、これを『週刊少年サンデー』でやったことだ。

当時のぼくにとって、これはかなり衝撃だった。少年誌のラブコメで、性行為を物語上の必然として正面から扱う。しかも、それをギャグにも、エロにも、単なる大人の暗示にも逃がさない。性が妊娠に接続する。妊娠が結婚に接続する。結婚が家族と将来に接続する。

これは非常に大きい。

『じゃじゃグル』では、舞台が牧場である。牧場では、生命と生殖が日常である。馬の繁殖、出産、血統、育成、競走、故障、引退、死。そこでは、生命はきれいごとではない。生殖はロマンチックな比喩ではない。経営と直結している。労働と直結している。未来と直結している。

その世界で、人間の性だけを「甘酸っぱい青春」の中に閉じ込めることはできない。

だから駿平とひびきさんの性は、牧場という世界の構造と響き合っている。人間の性愛も、馬の繁殖も、生命と責任の発生である。もちろん、同一視しているわけではない。だが、作品構造として、性、生殖、労働、家族、経営が切れていない。

ここが『じゃじゃグル』の凄さである。

少年誌のラブコメでありながら、性を、現実から切り離されたイベントにしない。性を、責任へのイニシエーションとして描く。しかも、その責任は、家庭内の道徳だけではなく、牧場、馬、職能、将来の専門職ルートまでつながっている。

これは、かなり地に足の着いた態度である。

六、ラブコメのモラトリアムは複線型トラックと相性がいいのかもしれない

ここで、少し一般化できるかもしれない。

ラブコメというジャンルは、そもそもモラトリアムと相性がいい。主人公は未完成である。まだ大人ではない。仕事も定まっていない。将来も曖昧である。だから恋愛の迷走が起きる。複数のヒロインが出てくる。優柔不断が許される。決断が先延ばしにされる。

普通なら、これは単なる物語上の引き延ばしである。

だが、優れた作品では、このモラトリアムが、主人公の社会的形成と接続される。恋愛の迷走が、仕事、共同体、家族、性、責任への迷走と重なる。するとラブコメは、単なる恋愛遊戯ではなく、複線型トラックの物語になる。

もちろん、ぼくはラブコメ全体を体系的に読んでいるわけではない。他にも例はあるのかもしれない。だが、少なくとも『めぞん一刻』と『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、この読み方に非常によく合う。

五代のモラトリアムは、都市のアパート、一刻館、大学、就職、保育士、響子さんとの結婚へつながる。

駿平のモラトリアムは、北海道の牧場、馬、労働、ひびきさん、妊娠、結婚、獣医への学び直しへつながる。

つまり、どちらも「いつ大人になるのか」という話である。しかも、その大人になる過程が、単線型の学校歴だけでは描けない。恋愛、性、仕事、共同体、家族が絡む。

だから、ラブコメのモラトリアムは、複線型トラックと相性がいいのかもしれない。

七、ゆうきまさみはホワイトカラー幻想後を意図的に描いたのではないか

ここで、ゆうきまさみの作家性を考えたい。

ゆうきまさみは、もともとメタ志向の強い作家だったと思う。初期作品には、パロディや二次創作的な感覚がある。ジャンルの約束事を理解し、その上でずらす。作品がどのメディアで、どの読者に、どのような文脈で読まれるかをかなり意識している作家である。

『機動警察パトレイバー』も、その意味で象徴的である。あれは単に「ゆうきまさみの漫画がアニメ化された」作品ではない。HEADGEARという共同原作的なプロジェクトであり、OVA、漫画、劇場版、TVアニメなどを含む、当時としてはかなり意識的なメディアミックスだった。

その作家が、1990年代後半に、『週刊少年サンデー』で、競走馬生産牧場を舞台にしたラブコメを描いた。

これは偶然ではないと思う。

『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、単なる競馬マンガではない。単なる牧場マンガでもない。もちろん、単なる美少女四姉妹マンガでもない。都市のホワイトカラー幻想が崩れた後に、では人間はどこで働き、どこで大人になり、どこで家族を作るのか、という問いにかなり正面から向き合っている。

舞台は地方である。仕事は現場である。対象は動物である。生産は身体的である。家族経営はきれいごとではない。恋愛は性と妊娠に接続する。妊娠は結婚に接続する。結婚は将来の職能と生活設計に接続する。駿平は、そこで獣医という専門職への道を考える。

これは、ホワイトカラー幻想後の形成小説である。

しかも、説教臭くない。政策論ではない。キャリア教育マンガではない。あくまでラブコメであり、少年マンガであり、青春マンガである。その形のまま、複線型トラックを描いている。

だからこそ、ぼくは『じゃじゃグル』を高く評価する。

八、複線型トラックとしての二作

最後に、複線型トラックとして二作を整理する。

『めぞん一刻』は、単線型社会の落後者の物語である。

五代は、標準的なホワイトカラー成功ルートにうまく乗れない。だが、彼は完全に社会から落ちるわけではない。一刻館というグレーな共同体に支えられ、響子さんへの恋愛によって試され、保育士という別トラックへ向かう。最終的に彼は、企業戦士としてではなく、ケア労働に携わる大人として社会に着地する。

つまり、『めぞん』における複線型トラックは、単線型社会の内部に見つけられた逃げ道である。

一方、『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、最初から標準トラックの外側にある。

駿平は、牧場に入る。現場で働く。馬と出会う。ひびきさんと出会う。性を経験する。妊娠が起きる。結婚する。父になる。そして、現場経験を通じて、獣医という専門職への学び直しを視野に入れる。

ここでは、現場労働、家族形成、専門職教育が切れていない。これは複線型トラックそのものに近い。

普通科高校から大学へ行き、なんとなく会社へ入る。そのような単線型ルートではない。現場に入る。そこで自分の適性と欲望を知る。その後、必要な専門教育へ戻る。家族形成も、仕事も、地域も、そのプロセスに含まれている。

『じゃじゃグル』は、ぼくが描いてきた複線型トラックや、地に足の着いた社会参加の態度を、かなりの精度で描き切っている。

もちろん、これは政策論ではない。漫画である。ラブコメである。少年誌の作品である。

だが、だからこそ強い。

政策文書が抽象的に「多様な学び」や「キャリア形成」や「地域連携」と書く前に、漫画はすでに、人間がどのように社会へ接続されるのかを描いていた。しかも、制度語ではなく、労働、性、妊娠、結婚、馬、牧場、家族、獣医という具体物を通じて描いていた。

これが『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』の偉さである。

九、過小評価された名作としての『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』

『めぞん一刻』は、正当に古典化されていると思う。高橋留美子の代表作であり、80年代ラブコメの金字塔であり、都市のモラトリアム青年の形成小説として、今読んでも強い。

しかし、『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、もっと評価されていい。

この作品は、知名度では『パトレイバー』に負ける。メディア展開でも『めぞん一刻』に負ける。海外認知も弱い。競馬や牧場という題材のせいで、読者層も限定されたかもしれない。

だが、作品としてやっていることは非常に大きい。

『じゃじゃグル』は、ホワイトカラー幻想後の日本で、地に足の着いた労働、地方の生産現場、家族経営、性愛、妊娠、結婚、父性、専門職への学び直しを、少年誌のラブコメとして描いた作品である。

これは、かなり異様なことをやっている。

しかも、それを暗く描いていない。説教として描いていない。地方礼賛にもしていない。牧場を理想郷にもしていない。現場はきつい。経営は厳しい。人間関係も面倒である。けれど、そこには確かに、人が大人になる場所がある。

だから『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、過小評価された名作である。

英語で言えば、underrated great workである。

『めぞん一刻』は、ホワイトカラー幻想の時代に、そのレールから落ちかけた青年が、別の大人への道を見つける物語だった。

『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、ホワイトカラー幻想が壊れた後に、現場労働、性、家族、専門職への学び直しを通じて、複線型トラックそのものを描いた物語だった。

この二作を並べて読むと、ラブコメは単なる恋愛の形式ではないことが分かる。ラブコメは、未完成な人間が、誰かを好きになってしまったことで、現実へ引きずり出される形式でもある。

そして、その現実には、仕事がある。性がある。家族がある。共同体がある。責任がある。学校だけではない。会社だけでもない。複数のトラックがある。

だからぼくは、この二作を、複線型トラックの実例として読む。

特に『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は、その実例として、もっと読まれるべき作品だと思う。

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