「公」は誰のものだったのか――朝廷・武家・公儀から読む日本の権威と権力
1 「幕府」の歴史ではなく、「公」の歴史を読む
これまで「日本共和制論」では、鎌倉幕府以来の日本政治を、朝廷が権威を、武家政権が権力を担う構造として捉えてきた。戦後の象徴天皇制についても、権威と権力を分離する制度として評価してきた。
この大筋を撤回する必要はないと思う。
ただし、少し解像度を上げる必要がある。
そもそも、現在当然のように使っている「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」という呼称は、三つの武家政権が同時代に自らを同じ意味で「幕府」と呼んでいたことを意味しない。「幕府」を武家政権一般の名称として整理する用法は後世のものであり、同時代の政治語彙としては「鎌倉」「関東」「武家」「公方」「公儀」「天下」など、時代ごとに異なる言葉が使われていた。
歴史学でも、この問題は別に珍説ではない。「幕府」という後世の分類概念をそのまま過去へ投影せず、朝廷と武家の関係、「公方」「公儀」などの同時代語から政治秩序を復元しようとする研究はすでにある。
だから本稿も、何か突飛な日本史を書こうとするものではない。
鎌倉政権の成立、朝廷と武家の併存、徳川「公儀」、大政委任論、大政奉還、王政復古、明治国家、象徴天皇制。扱うのは基本的に教科書+α程度の日本史である。
ただし、そこに一つ問いを置く。
「公」は誰のものだったのか。
実際に政治を動かしていたのは誰か。その権力を正当なものとした権威はどこにあったか。そして、誰が「公」を担うと考えられていたのか。
権威と権力は、最初から一人の支配者に集まっている必要はない。
同時に、「公」も一か所にしか存在できないとは限らない。
その重心がどこに置かれ、どう移動したのか。
この観点から、日本史を読み直してみたい。
2 最高権威と政治主体は、最初から同じではなかった
武家政権以前にも、天皇が常に日常政治の最高意思決定者だったわけではない。
摂関政治では藤原氏が、院政では上皇が、実際の政治を大きく動かした。天皇という王統上の中心と、具体的な政治判断を行う主体との間には、すでにずれがあった。
もちろん、これをそのまま「朝廷の権威と武家の権力の分離」と呼ぶことはできない。
摂政・関白も院も、朝廷秩序の内部にいるからである。
それでも一つ確認できる。
日本政治において、最高権威と政治的意思決定主体が一致しないこと自体は、異常でも例外でもなかった。
国家の中心に権威があり、実際の政治は別の主体が担う。
後の武家政権は、この構造をまったくの無から作ったわけではない。
3 平氏政権――権力が権威の内部へ入る
ここで平清盛は重要な対照例になる。
武士が大きな政治権力を持つようになったからといって、必然的に「幕府」が生まれるわけではなかった。
清盛は朝廷とは別の中央政府を作らなかった。太政大臣となり、娘徳子を高倉天皇の中宮とし、その子である安徳天皇の外祖父となった。
つまり平氏は、朝廷の外側に独立した政治権力を作るのではなく、朝廷の官位・婚姻・外戚関係の中へ入り、その内部から政治権力を握ろうとした。
権力が権威の内部へ入る。
これも一つの政治モデルだった。
鎌倉の重要性は、別の道を選んだことにある。
4 鎌倉――朝廷とは別の権力主体が成立する
鎌倉政権によって質的な変化が起こる。
京都とは別に、鎌倉という政治的・軍事的中心が形成される。御家人組織、守護・地頭、軍事警察、裁判、所領支配など、武家独自の統治機構が成長する。
しかも、それは朝廷を廃止することによって成立したのではない。
天皇も朝廷も残る。官位も残る。将軍自身が朝廷から官職を与えられる。
ここから、「朝廷の権威と武家の権力の分離」という、これまで使ってきた理念型が本格的に有効になる。
もちろん、朝廷には権力がまったくなく、武家には権威がまったくない、という意味ではない。
承久の乱後には鎌倉側が朝廷へ強い影響力を持つ。武家政権も独自の権威を形成していく。
ここで重要なのは、二つの箱への単純な分類ではなく、重心のありかを見ることである。
誰が国家の連続性と正統性を体現するのか。
誰が軍事・警察・裁判・徴税・土地支配といった日常的な政治権力を行使するのか。
鎌倉以後、日本ではその二つが恒常的にずれうる制度構造が成立した。
5 なぜ武家は天皇にならなかったのか
すると当然、疑問が出る。
なぜ実力を持った武家は、天皇を倒して自ら新王朝を作らなかったのか。
中国では王朝交替が繰り返された。朝鮮でも高麗から朝鮮への易姓革命が起きている。
日本人が易姓革命という考え方を知らなかったわけでもない。漢籍を通じて、中国の政治思想と歴史は十分に知られていた。
それでも日本では、源氏も北条氏も足利氏も徳川氏も、新しい天皇になろうとはしなかった。
ここで「天皇には神聖な権威があったから武士にも倒せなかった」とだけ説明すると、結果から原因を作ることになる。
承久の乱後の鎌倉政権は朝廷へ相当強い力を行使できた。後世の武家政権にも、王朝を圧倒するほどの軍事力を持つ者は現れた。
だから制度的には、別の説明を考える余地がある。
すでに存在する朝廷・王統は、官位、儀礼、暦、歴史的連続性、正統性の語彙を供給していた。
それを維持したまま、実際の軍事・警察・裁判・土地支配を握ればよい。
新しい王朝を作り、新たな正統性体系を一から構築する必要がない。
「奪えなかった」というより、奪う必要がなかった。
少なくとも制度論的には、そのように読むことができる。
しかも鎌倉で一度この方式が成功すると、それ自体が前例になる。
「天下を取る」ことと「天皇になる」ことが別の行為になる。
北条氏も、足利氏も、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、その前例の後にいる。
これは一種のパス依存として考えられる。
6 封建制という比較史上の問題
ただし、この説明をさらに遡ると、もっと大きな問題に突き当たる。
なぜ日本では、中央の王朝を残したまま、その下あるいは横に複数の武家権力が成立するような封建制が発達したのか。
ここで中国・朝鮮と日本との差は、単なる王朝観の違いだけでは済まなくなる。
日本と西欧には、少なくとも比較可能な封建的構造があった。
中央の最高権威とは別に、地域的・軍事的・土地支配的な中間権力が存在する。主君と家臣、領主とその下位者の間に、具体的な権利と義務が形成される。
もちろん、日本と西欧が「同じ封建制」だった、と単純化する必要はない。
西欧中世史ではfeudalismという概念自体について長い議論があり、日本の封建制も中国古代の「封建」という語を経由した独自の概念史を持つ。
それでも、日本に封建制が存在しなかったことにしてしまう必要はない。
※Susan Reynolds によってイギリスの中世史家の間で「feudalism」が「F-Word」扱いされるようになったことを踏まえている。
むしろ重要なのは、その制度経験が何をもたらしたのかである。
日本の近代化を論じたライシャワー以来、日本と西欧が封建社会を経験したことを、近代化の前提の一つとして見る議論は存在する。呉智英の封建主義再評価も、大きくはこの問題系に属する。
ここで一つ仮説を置いておきたい。
「お上」と個人が直接向き合うだけの社会ではなく、その間に直属の主君や中間集団が存在する。
上位の権威があり、その下に具体的な権力主体があり、その下に自分がいる。
すると、自分が「誰に」「何を」「どこまで」負っているのかが問題になる。
主君への服従も無限定ではない。主君自身もさらに上位の秩序に位置づけられている。
このような複層的な関係が、権利、義務、職分、契約、自治、中間団体、さらには近代的な個人の形成へ何らかの影響を与えた可能性はある。
ただし、ここで「封建制が近代を必然的に生んだ」と結論するつもりはない。
これは比較史上の巨大な問題であり、本稿では解決できない。
むしろ、本稿の問題設定を東アジア比較まで押し広げると、最後にこの問題へ突き当たる、というところで止めておきたい。
7 武家も「公」になる
ここで「公」の問題へ戻る。
中世になると、「公方」「公儀」などの語が、朝廷だけではなく武家側にも使われるようになる。
これは単に武士が強くなったというだけではない。
武家の権力が、私的な武力ではなく、裁判し、命令し、秩序を維持し、権利関係を確定する「公的な権力」として認識されるようになったということである。
武家も「公」を担うようになった。
ここで注意したいのは、この中世の「公」を、現代英語のpublicとそのまま同一視しないことである。
中世の「公」には、「おおやけ」「お上」「正統な上位者」「公権力」「共同的秩序」といった意味が重なっている。
現在なら別々の概念として区別するものが、まだ同じ語の中に同居している。
むしろ、その未分化性自体が重要なのではないか。
「公」は、人民が形成するpublicだけではない。
正統な支配者も「公」である。
その支配者が維持する秩序も「公」である。
個人の「私」を超えたものも「公」である。
だから「公」は誰のものなのか、という問い自体が政治的意味を持つ。
8 徳川「公儀」――権力は江戸、権威は一元ではない
近世になると、徳川政権は「御公儀」として天下の統治を担う。
徳川政権が単なる一大名の私的権力ではないことは、この言葉によく表れている。
しかし、だからといって徳川側に権威も権力もすべて集中した、と考えるべきではない。
基本的な重心はなお、
朝廷=権威
徳川政権=権力
と置ける。
徳川政権は圧倒的な実効統治能力を持つ。
一方で、将軍宣下、官位、王朝の歴史的連続性など、徳川自身も朝廷の権威を利用している。
ただし徳川側も、「公儀」として独自の権威を形成する。
つまり、権威も「公」も一主体へ完全に独占されているわけではない。
朝廷と徳川は、それぞれ異なる種類の権威を持ち、異なる形で「公」を担っている。
ここが重要だと思う。
権威と権力が分かれているからといって、権威が朝廷だけ、権力が徳川だけという純粋な分業ではない。
両者の間には常に重なりと綱引きがある。
9 新井白石と大政委任論――二重構造は同時代にも見えていた
ここで、この構造を現代の概念で勝手に作っているだけではないことを確認しておきたい。
新井白石は『読史余論』で、日本史を「天下の大勢」の変化として捉え、武家が「天下の権」を握る歴史を整理した。
同時に白石は、将軍の権威を高め、より「国王」に近い存在として位置づけようともした。
これは興味深い。
もし朝廷と将軍の間に何の二重性も存在しないなら、将軍側の権威をわざわざ強化する必要はない。
白石は、武家が実際の政治権力を握っていても、権威の配置にはなお曖昧さがあることを認識していた。
さらに、白石より後、近世後期には、大政委任論が発達する。
大政は天皇にあり、その実際の政治を将軍が委任されている。
これはもちろん、コンスタンの中立的権力論でも、現代政治学の権威/権力論でもない。
しかし、
最高の正統性を持つ主体と、日常的な統治を担う主体を分けて説明する
という構造ははっきりしている。
だから、「朝廷の権威と武家の権力の分離」という読みは、後世の西洋政治学を無理に過去へ投影しただけではない。
同時代人自身が、別の語彙でその関係を考えていた。
10 幕末――「公」は誰を指すのか
幕末になると、この長く続いた構造が、主に外的圧力によって、不安定になる。
外交、条約勅許、将軍継嗣などの問題で、徳川政権は朝廷の権威を再び政治過程へ呼び込む。
それまで政治実務から距離を取っていた朝廷が、政治判断の正統性をめぐる争いの中心へ戻ってくる。
ただし、ここを「朝廷対幕府」という二項対立だけで見ると足りない。
徳川政権は従来の「公儀」である。
朝廷は王統上の強い権威を持つ。
薩摩・長州・土佐などの雄藩も、軍事力・財力・行政能力を持つ独立した政治主体として成長する。
さらに「公議」という新しい政治語が重要になる。
※「公儀」とは違うことに注意。
徳川一門が一方的に決めるのではなく、諸侯や有力者の合議、さらには輿論を政治へ反映させようとする。
ここで「公」は、さらに別の意味へ開かれる。
正統な上位者が「公」なのでもない。
実効統治を行う公儀だけが「公」なのでもない。
複数者の議論によって形成されるものも「公」になりうる。
幕末は、誰が「公」を代表する資格を持つのか、そのものが争われた時代として読むことができる。
11 大政奉還と王政復古――権威をめぐる権力闘争
したがって、大政奉還を「幕府が天皇へ権力を返し、明治政府が成立した」と一直線に描くのも適切ではない。
徳川慶喜は大政奉還によって政治から消えようとしたわけではない。
徳川家を有力諸侯の一つとして、新しい公議政体の中に残す余地はあった。
徳川家は依然として巨大な領地、軍事力、行政経験を持っている。
その状態で諸侯会議的な新政体を作れば、慶喜が大きな政治的影響力を保持する可能性は高かった。
それでは困る勢力がいた。
薩摩・長州や岩倉具視らである。
王政復古は、単なる大政奉還の制度的帰結ではない。
新しい権力連合が、天皇の権威を自らの側へ接続し、徳川を新政権の中心から排除するための政変でもあった。
だから、
「天皇が権力を取り戻した」
と書くより、
新しい権力連合が天皇の権威を自らに接続することに成功した
と見た方がよい。
そして最終的には、軍事的な勝敗を通じて新政府が実効権力を獲得していく。
権威と権力の分離が消えたのではない。
誰が権威と接続し、誰が権力を握るのかという組み合わせが変わったのである。
12 明治国家――権威を一元化し、権力を再編する
明治政府は、天皇を中心に国家の権威を強く一元化した。
これは近代国家形成という意味では非常に合理的だった。
藩ごとに分散していた軍事・行政・財政を中央へ集約し、外交主体も統一しなければ、西洋列強と国家として交渉することすら難しい。
だから王政復古を単純な歴史的後退と見るつもりもない。
急速な国家形成のために、王朝の権威を利用した。
問題は、その後である。
明治国家の理念上、天皇は国家権威の最高点となる。
しかし実際の政治権力は、薩長など旧藩出身の政治家、官僚、元老、内閣、軍、枢密院、議会など複数の主体へ配分される。
幕藩体制時代の人的ネットワークや縄張りも、一夜にして消えるわけではない。
明治維新とは、分裂した封建社会がある日突然一元国家へ変わったのではない。
天皇の権威を新しい国家統合の中心に置きながら、旧来の複数の権力主体を中央国家の内部へ組み替えていく過程だった。
ここに、後の責任問題の種も生まれる。
13 戦後の天皇制論をどう読むか
戦後の日本知識人は、天皇制について大量の議論を行ってきた。
丸山眞男の「無責任の体系」や、後に柄谷行人などが論じた「空虚な中心」も、その代表的なものだろう。
それらを全面的に否定する必要はない。
戦前日本に、権力行使の責任が曖昧になる構造があったことも、天皇が日常的な政策決定者ではないのに国家統合の中心として巨大な意味を持ったことも事実である。
しかし、日本史を長く見れば、少し別の問題が見えてくる。
権威と権力が分かれていること自体が、無責任なのではない。
鎌倉以来、日本ではむしろその分離が長く機能していた。
問題は、
誰が実際に決定したのか。
その決定に誰が責任を負ったのか。
である。
政治権力を持たない中心が存在すること自体は、制度上の欠陥ではない。
それは国家の継続性や統合を担う権威として機能しうる。
問題は、その権威の名を使って実際の権力主体が行動しながら、自分の責任だけを不可視化するときに生じる。
だから「空虚な中心」が問題なのではない。
空虚な中心を利用して責任主体まで空虚になることが問題なのだ。
戦後天皇制論を細かく掘れば、思想史的にはいくらでも議論できるだろう。
しかし本稿の関心からすれば、その程度の整理で十分だと思う。
14 戦後――政治権力を持たない権威
1947年憲法は、天皇を廃止しなかった。
代わりに、天皇から政治権力を徹底的に切り離した。
天皇は象徴となり、実際の政治権力は国会、内閣、司法、そしてその基礎にある国民主権へ移る。
この制度は、前近代への単純な回帰ではない。
近代的な民主主義と立憲主義によって、権威と権力の分離を再設計したものである。
ここで「日本共和制論」で論じてきたCrowned Republicへ戻る。
立憲君主制か共和制かという形式的分類だけでは、この制度の機能を十分に説明できない。
権威と権力を分離し、政治権力の行使者だけを交代可能にし、その責任を可視化する。
天皇は国家の連続性を象徴するが、政策を決定しない。
政府は政策を決定するが、選挙によって交代しうる。
ここに、実質的共和制としての日本を考える余地がある。
15 「公」はpublicになったのか
ここでようやく、近代的なpublicという概念を持ち込める。
ただし、近世以前の「公」をそのままpublicと翻訳するべきではない。
英語のpublicはラテン語publicusに遡り、人民・共同体に関わるものという意味史を持つ。
一方、日本語の「公」には、「おおやけ」「お上」「公方」「公儀」のように、上位の正統な支配主体を意味する系譜が強く存在する。
この二つは同じではない。
しかし、無関係でもない。
「公」には同時に、「私ではないもの」「個人だけに属さないもの」「共同的秩序に関わるもの」という意味領域も存在した。
近代日本では、その既存の意味領域へpublic/privateという西洋の概念体系が入ってくる。
そこで「公」の意味が再編される。
上から存在する「公」だけではなく、人々が共有する「公共」という意味が強くなる。
これは、日本にそれまで公共性という観念が一切存在せず、西洋から突然輸入された、という話ではない。
既存の語彙の意味領域と、新しく入ってきた概念との衝突と再編である。
翻訳とはそういうものだろう。
完全に同じ意味を持つ語を別の言語から見つけることではない。
意味の重なる場所を探し、必要なら意味を拡張し、限定し、社会の中で使い続けることによって、新しい概念運用を作ることである。
16 日本語公共圏――なぜ明治の翻訳は可能だったのか
ここは「日本共和制論」5/5で論じた日本語公共圏の問題につながる。
明治の知識人は、何もないところから突然「哲学」「社会」「権利」「自由」「経済」といった近代語彙を作ったわけではない。
その前に、長い漢文教養があった。
漢語によって高度な抽象概念を扱う文化があった。
日常言語として日本語を運用する大きな人口があり、比較的高い識字率があり、出版と教育のネットワークがあった。
そこへ蘭学が入り、英語、ドイツ語、フランス語などへの急速なキャッチアップが起きた。
明治知識人の仕事の凄さは、単に外国語が読めたことではない。
外国語で新しい概念を理解し、それを漢文・漢語・日本語の既存資源と接続し、訳語を作り、議論し、法律にし、教科書にし、新聞に載せ、次の世代に教えたことにある。
そして、それを受け取れる社会があった。
翻訳する人間だけでは翻訳語は定着しない。
読む人がいる。
教える人がいる。
行政で使う人がいる。
裁判で使う人がいる。
新聞で議論する人がいる。
それを理解する一般読者がいる。
日本語公共圏とは、単に日本人が日本語を話すことではない。
高度な概念を日本語で作り、翻訳し、批判し、教育し、制度化し、次世代へ渡す能力を持った言語共同体である。
明治日本は、その能力を大規模に実証した。
訳語と原語の意味が完全一致しないことを、「西洋思想が日本には定着しなかった」証拠と見る必要はない。
むしろ逆だろう。
意味のずれを抱えながらも、法、政治、経済、哲学、自然科学を日本語で運用できるところまで制度化した。
それだけの仕事を、明治以来の日本人はやってきた。
「哲学」は分かりやすい。
西周による造語として始まり、西洋哲学、儒教、仏教、東洋思想との境界が揺れた時代もあった。
西田幾多郎は、その混淆そのものを巨大な思想体系へした人物と言ってもよい。
しかし現在、「哲学」という日本語は、国際的なphilosophyのディシプリンへ十分に接続している。
日本語でプラトンもカントもニーチェもフッサールも分析哲学も論じられる。
翻訳語が生まれた瞬間に意味が完成していなくても、その後150年の運用によって意味空間は形成される。
「公」も同じである。
17 「公」を守るが、政治参加は弱い?
ただし、ここで日本を都合よく持ち上げて終えるつもりもない。
前稿(「共和制は王を捨てきれなかった――中立的権力と実質的共和制から読む現代ヨーロッパ」)で参照したInternational IDEAのGlobal State of Democracyを見ると、日本はRepresentation、Rights、Rule of Lawでは比較的高く評価される一方、Participationは相対的に弱い。
これはかなり面白い。
現代日本では、社会的な「公」を維持する能力は高く見える。
公共交通機関で騒がない。
ゴミをその辺に捨てない。
行列を守る。
公共空間を比較的清潔に使う。
災害時にも社会秩序が崩れにくい。
以前、パリの犬の糞問題との比較(「犬の糞問題に見る日本の自己修正能力――パリとの比較を通して」)で書いたように、一度社会問題となったものを、条例、制度、慣習、社会規範によってかなり早く修正する能力もある。
筒井康隆『農協月へ行く』を材料に論じた、日本社会の自己修正可能性ともつながる(「筒井康隆『農協月へ行く』から読む東アジアの近代化可能性」)。
これは、共有空間を「自分だけのものではない」と考える規範が比較的強いことを示しているのかもしれない。
しかし、それが政治参加へ直結しているわけではない。
投票率は必ずしも高くない。
政党活動、市民運動、政治団体への参加も、IDEAのParticipation指標では強くない。
ここに一つのねじれがある。
「公」を守ることと、「公」の意思決定へ能動的に参加することは同じではない。
日本人は、日常的には共有秩序へかなり強く適応する。
一方で、国政について常時発言し、政治運動へ参加する人は少ない。
それでも選挙や世論調査では、SNS上の声量とは異なる安定した多数意思が現れることがある。
安倍政権期にもそうだったし、現在の高市政権をめぐる支持にも、似た問題はある。
SNSでは少数の政治的高関与層が大量に発言する。
しかし、彼らが社会全体の多数派であるとは限らない。
これは日本だけの問題ではない。SNSではどの先進国でも、発言量は一部の利用者に大きく偏る。
それでも日本については、
日常的公共性は強い。政治的Participationは弱い。だが、必要な場面ではサイレントマジョリティーが制度的に意思を示す。
――という参加様式が存在するのかどうか、検討する価値がある。
「主体性がない」で切るのは簡単である。
しかし、政治参加のスタイル自体が違う可能性もある。
これは本稿では答えを出さない。
封建制と近代化の関係と同じく、この日本共和制論から新たに出てきたオープンな問題として残しておきたい。
18 「公」を誰かに任せないための共和制
日本には近代以前からRepublicという政体概念があったわけではない。
だから、日本には昔から共和主義が存在した、と言うつもりはない。
しかし、
何が「公」なのか。
誰が「公」を担うのか。
誰が実際の権力を行使するのか。
その権力を何が権威として正当化するのか。
私的な力を、どう公的統治へ変えるのか。
という問題は、長く存在した。
朝廷だけが「公」だったわけではない。
武家も「公」を担うようになった。
公方が生まれ、公儀が成立し、幕末には公議が問題になった。
明治国家は天皇を中心に「公」を強く再統合した。
戦後は天皇から政治権力を剥がし、国民主権の下で権威と権力を再分離した。
そして近代日本語は、「公」という既存の語にpublicという新しい意味領域を接続した。
ここまで来ると、日本の共和制を考えるとき、「共和国か君主国か」という形式分類だけでは足りない理由も明確になる。
共和制の語源であるres publicaは、「公の事柄」である。
しかし「公」は、誰か一人が所有するものではない。
天皇のものでもない。
政府のものでもない。
官僚のものでもない。
多数派だけのものでも、声の大きな少数者のものでもない。
政治権力を行使する者には、その権力を公のために使い、結果に責任を負う義務がある。
国家的権威は、その政治権力から距離を取ることができる。
そして最終的に、「公」を自分とは無関係な「お上」の仕事にしない責任は、市民にある。
「日本共和制論」5/5で書いた「市民が国家を引き受ける」とは、結局そういうことだ。
日本史における「公」は、長い間、上にあるものでもあった。
朝廷であり、公方であり、公儀だった。
近代以後、それだけではなくなる。
「公」は、われわれ自身が共有し、維持し、必要なら修正するものにもなる。
その意味で、日本における実質的共和制とは、西洋から共和国という政体形式を輸入することではない。
権威と権力を適切に分けること。
権力の所在と責任を明確にすること。
「公」を特定の権力主体の私物にしないこと。
そして、市民自身がその「公」を引き受けること。
日本史を、いくつかの武家政権あるいは「幕府」の成立と崩壊の連続としてだけでなく、また、封建制の確立とそこからの脱却という単線的な史観からだけでもなく、「公」は誰のものだったのかという問いから読み直すと、その問題は鎌倉以来、形を変えながらずっと続いていたように見える。
そして、「公」を誰かに丸投げせず、その維持と修正を自ら引き受けることこそが、「公民」としての義務でもある。
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