ホワイトカラー幻想をやめろ――GATBから見る大学進学万能論の終わり
All eyes on ホワイトカラー幻想。
諸君らが愛してくれたホワイトカラーは死んだ。
何故だ!?
シャアなら、「坊やだからさ」と嘯くところだろう。
だが、ここで本当に問うべきなのは、ホワイトカラーが幼かったかどうかではない。
ニーチェ風に言えば、こうである。
我々が殺したのだ。
大学へ行けば、オフィスに入れる。
オフィスに入れば、肉体労働から逃げられる。
肉体労働から逃げれば、階層を上がれる。
スーツを着て、会議に出て、資料を作る。
社員証を下げ、名刺を持ち、ビルの中で働く。
そうしていれば、ひとまず「まともな社会人」になれる。
そういう人生を、社会全体でよいものとして扱ってきた。
大学進学率を上げる。
大学を増やす。
誰でも大学に行けるようにする。
大学を出れば、何となく会社に入れることにする。
会社に入れば、何となくオフィスに座れることにする。
オフィスに座っていれば、何となくホワイトカラーであることにする。
そうやって、ぼくらはホワイトカラーを大衆化した。
そして、大衆化されたホワイトカラーは、希少性を失った。
もちろん、ホワイトカラー全体が死んだわけではない。
高度な専門職、技術職、研究職、法務、財務、設計、アーキテクト、経営の上澄みは残る。むしろ、そこはこれからも必要である。
死んだのは、低レベルホワイトカラーである。
定型事務。
調整だけの仕事。
会議のための会議。
資料のための資料。
外注管理だけの管理。
責任を取らないための承認フロー。
そういう仕事は、すでにアウトソースされ、RPAに削られ、SaaSに吸われ、生成AIに置き換えられ始めている。
それでもなお、「大学へ行けば何とかなる」「オフィスに入れば安全だ」「ブルーカラーよりホワイトカラーの方が上だ」という神話だけが残っている。
それが、ホワイトカラー幻想である。
財務省の大学整理で終わらせるな
前回の記事で、ぼくは「自己分析するな。ハロワでGATBを受けろ」と書いた。
「本当の自分」を探すな。
「やりたいこと」を掘るな。
MBTIで適職を探すな。
キャリアコーチに、内面をきれいな言葉へ翻訳してもらうな。
そうではなく、まず職業適性を見ろ、と書いた。
GATBは、職業適性を見るための検査である。知的能力、言語能力、数理能力、書記的知覚、空間判断力、形態知覚、運動共応、指先の器用さ、手腕の器用さといった複数の適性能を見る。職業世界へ入る前に、自分の能力の凹凸を冷たく見るための道具である。
では、なぜそこまでして職業適性を見なければならないのか。
理由は単純である。
大学へ行けば何とかなる、という時代が終わっているからである。
いま問題になっているのは、単なる「Fラン大学廃止論」ではない。
財務省的に言えば、定員割れ大学に公的資源を流し続けるのは無駄である。学力も職業接続も弱い大学を延命し、学生を四年間置いておき、卒業後に何となくホワイトカラー就職を期待させる。その仕組みに予算をつけ続けるのは、たしかに無理がある。
ここまではよい。
問題は、その先である。
大学を整理するなら、大学に行かない人間をどこへ接続するのか。
大学に行っても低付加価値ホワイトカラーにしかならない人間を、どの職業世界へ接続するのか。
工業、農業、水産、エネルギー、物流、製造、保守、整備、医療技術、看護、介護、情報へ、どう人を接続するのか。
高専、実業高校、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業をどう位置づけ直すのか。
中学卒業後の進路を、普通科高校から大学へ流す一本線ではなく、職業適性と職業世界を前提にした複線的なトラックとしてどう設計するのか。
適性検査、学力評価、職業教育、産業政策、労働政策、移民政策をどう接続するのか。
本来、そのグランドデザインを出すべきなのは、文科省であり、内閣府であり、場合によっては経産省である。
だが、それが見えない。
財務省は切る話をする。
それは、財務省の仕事としては分かる。
しかし、切った後に何を作るのか。
大学進学万能論をやめた後に、どの教育制度と職業接続を作るのか。
低レベルホワイトカラーの逃げ道が消えた後に、どの職業世界へ人を接続するのか。
その設計が見えない。
官僚やシンクタンクは何をやっているのか。
ブライトさんなら、そう言うところである。
「なにやってんの!」
いや、本当に、なにをやっているのか。
大学を削れば終わりではない。
予算を切れば終わりではない。
定員割れ大学を潰せば終わりではない。
問うべきなのは、大学進学万能論そのものである。
そして、大学進学万能論を支えてきたのが、ホワイトカラー幻想である。
ホワイトカラーは上位職ではない
ホワイトカラーは上位職ではない。
ここをまず確認する必要がある。
ホワイトカラーとは、身体を使わない偉い仕事のことではない。オフィスにいるから知的で、現場にいるから低級だ、という話ではない。
ホワイトカラーは、特定の適性を必要とする職業群である。
書類を正確に読む。
文章を書く。
数字を扱う。
表を読む。
論点を整理する。
会議で何が決まったかを把握する。
期限を管理する。
他部門と調整する。
法律や制度や手続きを理解する。
抽象的な情報を処理する。
複数の関係者の利害を整理する。
こうした仕事には、当然ながら適性がある。
言語能力が低い人間に、大量の文書処理をやらせるのはきつい。
数理能力が低い人間に、数字の正確さを求める仕事をやらせるのはきつい。
書記的知覚が弱い人間に、細かな事務処理や照合作業を任せるのはきつい。
知的能力が不足している人間に、抽象的な制度、契約、業務フロー、システム仕様を扱わせるのはきつい。
これは差別ではない。
適性の話である。
向いていない仕事に人を置けば、本人も壊れるし、周囲も壊れる。
逆も同じである。
空間判断力が高い人間がいる。
形態知覚が高い人間がいる。
運動共応が高い人間がいる。
手先の器用さ、手腕の器用さが高い人間がいる。
機械、構造、物理空間、身体の使い方、現場判断に強い人間がいる。
そういう人間を、大学の偏差値競争とオフィス労働だけに流し込むのも損失である。
ホワイトカラーが偉いのではない。
ブルーカラーが偉いのでもない。
職業には、それぞれ適性があるだけである。
にもかかわらず、日本社会は長いあいだ、ホワイトカラーを「まともな人生」の標準にしてきた。
大学へ行く。
会社に入る。
オフィスで働く。
スーツを着る。
名刺を持つ。
会議に出る。
メールを返す。
資料を作る。
それが、普通の社会人であるかのように扱ってきた。
だが、普通に見えるものほど疑った方がいい。
普通とは、たいてい、かつて機能していた制度の残骸である。
かつては合理性があった
誤解しないでほしい。
ホワイトカラー幻想は、最初から完全な幻想だったわけではない。
かつては、それなりに合理性があった。
農業はきつかった。
工場もきつかった。
建設もきつかった。
商店や自営業も不安定だった。
家業に縛られる人生は重かった。
身体を壊せば終わる仕事も多かった。
その時代に、大学へ行き、会社へ入り、オフィスで働くことは、たしかに上昇だった。
読み書き計算ができることには希少性があった。
帳簿を扱えることには価値があった。
文書を作れることには価値があった。
電話、手紙、契約、請求、経理、管理を担える人材は、組織に必要だった。
商業学校的な教育にも、実質があった。
近代的な会社を動かすには、事務、簿記、会計、商業、物流、信用管理、文書処理が必要だった。そこには、現実の職能があった。
だから、子どもを大学へ行かせたい、会社員にしたい、机の前で働かせたい、という親世代の感覚にも、それなりの合理性はあった。
身体を使う仕事から逃がしたい。
不安定な家業から逃がしたい。
会社員として安定させたい。
できれば大企業に入れたい。
それは、単なる俗物根性ではない。
時代の合理性だった。
問題は、その合理性が消えた後も、神話だけが残ったことである。
大学へ行けばよい。
大卒ならよい。
オフィスならよい。
ホワイトカラーならよい。
そういう粗い地図だけが残った。
しかし、地図が古くなれば、目的地には着かない。
学校はなぜオフィスへ人を流すのか
学校もまた、ホワイトカラー幻想を支えてきた。
学校は、基本的に教室的能力を評価する。
座っていられる。
話を聞ける。
文字を読める。
文章を書ける。
計算できる。
提出物を出せる。
時間割に従える。
教師の指示に従える。
ペーパーテストで点を取れる。
これらは、ホワイトカラー的能力と親和性が高い。
だから、学校の評価で上に行く人間が、大学へ行き、オフィスへ行くことには、ある程度の自然さがある。
ぼく自身もそうだった。
親から「ホワイトカラーになれ」と言われたから、その道へ行ったわけではない。単に、ぼくの知的適性が高く、学力競争に向いていたから、大学へ行き、結果としてITやコンサルのようなホワイトカラー側へ流れた。
それ自体は、不思議なことではない。
問題は、そのルートを全員の標準にしたことである。
さらに問題なのは、学校がペーパーテストを冷たく使い切らなかったことである。
ペーパーテストだけで人を見てはいけない。
子どもには多様な能力がある。
知識偏重ではいけない。
主体性が大事だ。
協働性が大事だ。
表現力が大事だ。
人間力が大事だ。
一見すると、もっともらしい。
たしかに、ペーパーテストだけで人間の能力をすべて測ることはできない。
だが、そこで本当にやるべきだったのは、客観的な多面的測定である。
知的能力を見る。
言語能力を見る。
数理能力を見る。
書記的知覚を見る。
空間判断力を見る。
形態知覚を見る。
運動共応を見る。
器用さを見る。
職業興味を見る。
価値観を見る。
行動特性を見る。
職業世界と照合する。
つまり、GATBやキャリアガイダンスの方向へ行くべきだった。
ところが、学校教育はしばしば、そこへ行かない。
多様な能力を見ようと言いながら、客観的な測定ではなく、内申、態度、主体性、意欲、人間力へ流れる。
これはかなりまずい。
ペーパーテストの冷たさから逃げて、教師の主観に依存する曖昧評価へ行く。
測定をやめても、選別は消えない。
ただ、不透明になるだけである。
そして不透明な選別は、家庭の情報力、教師との相性、学校文化への適応、空気を読む力、作文能力、演技力によって左右される。
これは公平ではない。
むしろ、ペーパーテストより悪い。
ホワイトカラー幻想は、学力だけでできたわけではない。
学力を冷たく使い切れず、かといって職業適性を客観的に見ることもできず、「主体性」や「人間力」という優しい言葉に逃げた教育制度によっても支えられてきた。
企業はなぜホワイトカラーを増やしたのか
企業もまた、ホワイトカラー幻想を支えてきた。
とくに日本型大企業は、新卒一括採用で大卒を採り、社内で育て、異動させ、管理職候補にする仕組みを長く使ってきた。
これは高度成長期には、それなりに機能した。
会社が成長している。
市場が伸びている。
事業が増えている。
人手が必要である。
社内に仕事がある。
若者をまとめて採って、会社の中で育てればよい。
そういう時代には、白紙の大卒を採って、社内で染めることにも合理性があった。
だが、この仕組みは、低成長、専門化、IT化、グローバル化の中で歪んだ。
仕事があるから人を置くのではない。
人がいるから仕事を作る。
そういう構造が生まれる。
会議が増える。
資料が増える。
承認が増える。
調整が増える。
根回しが増える。
管理が増える。
管理を管理する仕事が増える。
現場で価値を作るより、現場を管理する立場の方が偉く見える。
すると、ホワイトカラーは自己増殖する。
もちろん、管理は必要である。
企画も必要である。
調整も必要である。
会議も資料も、ゼロにはならない。
問題は、それが現場知や職能と切り離されたときである。
製造業であれば、本来は、設計、生産技術、品質、保守、物流、販売、現場改善とつながっていなければならない。
金融であれば、本来は、リスク、信用、法制度、顧客、商品設計、業務処理とつながっていなければならない。
ITであれば、本来は、業務、データ、システム、運用、アーキテクチャ、現場の制約とつながっていなければならない。
ところが、ホワイトカラーが現場から切り離されると、管理だけが残る。
管理する。
調整する。
外注する。
レビューする。
承認する。
資料を作る。
会議に出る。
責任を分散する。
これは知的労働ではない。
知的労働の殻である。
中身の抜けたホワイトカラーである。
アウトソースが壊したもの
ぼくは、ITの現場で、アウトソースがもたらした知的劣化を見てきた。
ここで、特定の会社名を出すつもりはない。
問題は個別企業ではなく、構造である。
かつて、多くの企業はITを外へ出した。
システム開発を外へ出す。
運用を外へ出す。
設計を外へ出す。
保守を外へ出す。
業務知識を外へ出す。
トラブル対応を外へ出す。
アーキテクチャの判断まで外へ出す。
その結果、社内には何が残るのか。
ベンダー管理が残る。
予算管理が残る。
会議が残る。
資料が残る。
承認が残る。
調整が残る。
責任の押し付け合いが残る。
業務を知らない。
システムを知らない。
データを知らない。
現場を知らない。
設計判断ができない。
技術判断ができない。
しかし、管理はする。
これが、アウトソースで生まれたホワイトカラーの一つの姿である。
もちろん、アウトソースがすべて悪いわけではない。
外部の専門性を使うことは必要である。
社内で全部を抱える必要もない。
外部委託によって効率化できる領域もある。
だが、何を外へ出してはいけないのかを分かっていない企業は、知的に劣化する。
業務知。
設計知。
データ構造。
システム全体像。
運用の勘所。
現場の制約。
トラブル時の判断力。
これらを外へ出した企業は、自分で自分の頭を外注したようなものである。
そして、頭を外注した会社に残るのは、頭を使わないホワイトカラーである。
彼らはオフィスにいる。
だが、知的労働をしているわけではない。
オフィスに座っているだけである。
金融のホワイトカラーも安全ではない
製造業やITだけの話ではない。
金融も同じである。
銀行、保険、証券などの金融業は、いかにもホワイトカラー的な世界に見える。
きれいなオフィス。
スーツ。
数字。
書類。
審査。
窓口。
バックオフィス。
管理部門。
コンプライアンス。
本部機能。
だが、金融の定型事務ほど、自動化に向いている領域も少なくない。
紙を読む。
データを入力する。
書類を照合する。
定型的な審査をする。
問い合わせに答える。
レポートを作る。
定型文書を作る。
マニュアルに沿って処理する。
こうした仕事は、RPA、SaaS、AIと相性がよい。
もちろん、金融のすべてが消えるわけではない。
リスク管理、複雑な審査、商品設計、法制度対応、高度な営業、投資判断、システム設計、経営判断は残る。
だが、低レベルな事務処理は削られる。
物理世界を相手にしないぶん、むしろ削りやすい。
倉庫で物を掴むより、画面上のデータを処理する方が簡単である。
介護現場で人の身体を支えるより、定型文書を要約する方が簡単である。
工場設備の異音に気づくより、議事録を作る方が簡単である。
農地の水、土、気温、病害虫を見るより、メール文面を整える方が簡単である。
AIで真っ先に消えるのは、肉体労働ではないかもしれない。
むしろ、身体を使わない低レベルホワイトカラーの方が先に溶ける。
現場はそんなに簡単に自動化されない
よく、「AIやロボットでブルーカラーも全部なくなる」と言われる。
もちろん、自動化は進む。
工場も自動化される。
物流も自動化される。
農業も自動化される。
建設も機械化される。
点検もセンサー化される。
倉庫にもロボットは入る。
それはそうである。
だが、物理世界は面倒である。

現実の倉庫には、狭い通路がある。
棚がある。
棚番号がある。
商品がある。
同じ棚に、違う形、違う重さ、違う材質、違う壊れやすさの商品が混在している。
箱がある。
袋がある。
柔らかいものがある。
重いものがある。
奥に入っているものがある。
似たような商品がある。
人間なら何となく分かる例外がある。
それをロボットで完全に処理するのは、簡単ではない。
自動倉庫を作るなら、倉庫そのものをロボット向けに設計し直す必要がある。
広い空間が必要になる。
設備投資が必要になる。
商品配置を変える必要がある。
サービス水準を見直す必要がある。
都市近郊で今の配送時間を維持するなら、立地の問題も出る。
ロボットが入れば終わり、ではない。
ロボットが入るためには、空間、設備、商品、オペレーション、配送、コスト、サービス水準を作り直さなければならない。
物理世界は、文章生成よりしぶとい。
現場職が安全だと言いたいのではない。
そうではなく、自動化の制約が違うのである。
低レベルホワイトカラーは、画面の中で完結する仕事が多い。
だから、ソフトウェアに削られやすい。
現場職は、物理世界、身体、空間、設備、天候、例外処理、安全性、顧客接点を抱える。
だから、自動化には別の制約がある。
ここを見ないで、「AIで全部なくなる」と言うのは雑である。
農業は逃げ道ではない
ブルーカラーや現場職の話をすると、すぐに牧歌的な話になりがちである。
田舎で暮らそう。
農業をやろう。
自然の中で働こう。
手に職をつけよう。
都会のオフィスを離れよう。
こういう話もまた、スピりやすい。
農業は楽園ではない。
土地がいる。
水がいる。
設備がいる。
機械がいる。
技術がいる。
体力がいる。
観察力がいる。
地域共同体との関係がいる。
天候リスクがある。
病害虫がある。
物流がある。
販売がある。
価格競争がある。
ブランド作りがある。
資金繰りがある。
田舎暮らしが合わない人間もいる。
既存の田舎の人間関係が面倒な場合もある。
遊休地を集約すると言っても、権利関係、相続、地域政治、農地制度の問題がある。
だから、農業を「ホワイトカラーに疲れた人の癒やし」として語ってはいけない。
それは別種のスピである。
しかし、それでも農業には可能性がある。
遊休地を集約する。
品種を選ぶ。
栽培技術を磨く。
直販する。
ブランド化する。
SNSで発信する。
地域性を使う。
物流を設計する。
加工や飲食とつなげる。
そうしたことができれば、農業は単なる肉体労働ではない。
身体、土地、技術、観察、機械、販売、ブランド、地域を組み合わせる職業世界である。
これは、オフィスに座っているだけの低レベルホワイトカラーより、よほど複雑で、よほど知的な仕事になり得る。
もちろん、誰でもできるわけではない。
だからこそ、適性を見る必要がある。
現場を捨てない企業
製造業にも、現場を捨てない企業がある。
現場。
技能。
改善。
生産技術。
品質。
保守。
物流。
物理現象へのフィードバック。
これらを企業内に残し、教育し、地域と接続している企業はある。
トヨタのように、技能育成や企業内教育を重視してきた企業がある。
エプソンのように、地域に高技能のものづくりを根づかせてきた企業がある。
食品や物流でも、現場を外へ投げすぎず、自社でコントロールするモデルはある。
ここには、次の問題へのヒントがある。
つまり、大学整理の後に、どのような職業教育を作るのか、という問題である。
工業。
農業。
水産。
エネルギー。
物流。
整備。
保守。
建設。
医療技術。
看護。
介護。
情報。
製造。
こうした領域に、どう人を接続するのか。
単に「大学へ行け」ではなく、どの適性を持った人間を、どの職業世界へつなぐのか。
ただし、ここでいう職業教育は、高専を持ち上げれば済む話ではない。
高専はすでに、ある程度強いトラックとして機能している。
むしろ難しいのは、実業高校、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業を、現代の産業構造に合わせてどう再定義するかである。
実業高校の位置づけも、社会状況の変化に応じた見直しが必要である。
この問題は、次稿で扱う。
ここで確認したいのは、ひとつだけである。
現場は、大学に行けなかった人間の落ち場所ではない。
現場は、別種の適性を必要とする職業世界である。
人間力という逃げ道
ここで、前に書いた「心理学スピ」の話に戻る。
ぼくは別の記事で、EQ、MBTI、多重知能理論、精神分析などを取り上げ、心理学の言葉がどこでスピるのかを書いた。
ここでその議論を繰り返すつもりはない。
ただ、ホワイトカラー幻想を考えるうえで、ひとつ重要な点がある。
ホワイトカラーに必要な具体的適性は、しばしば「人間力」へすり替えられる。
事務処理が遅い。
論点整理ができない。
数字を読めない。
資料を作れない。
会議で何が決まったか分からない。
期限管理ができない。
関係者調整ができない。
責任を処理できない。
これは本来、職務適性や能力配置の問題である。
ところが、それが「コミュ力がない」「人間力が足りない」「EQが低い」「社会人基礎力がない」「主体性がない」と言い換えられる。
すると、問題は人格評価になる。
これは危険である。
必要なのは、人格評価ではない。
職務の分解である。
その仕事には、どの能力が必要なのか。
知的能力なのか。
言語能力なのか。
数理能力なのか。
書記的知覚なのか。
空間判断力なのか。
形態知覚なのか。
共応なのか。
器用さなのか。
体力なのか。
対人処理なのか。
責任処理なのか。
反復耐性なのか。
現場判断なのか。
それを分けて見なければならない。
「人間力」は便利である。
便利だから危ない。
能力配置の失敗を、人格の問題にしてくれる。
制度設計の失敗を、本人の努力不足にしてくれる。
職業適性の問題を、社会人としての未熟さにしてくれる。
こうして、ホワイトカラー幻想は延命する。
「できる人」は人間力がある。
「できない人」は人間力がない。
そんな雑な話にしてはいけない。
必要なのは、人間力ではない。
適性である。
GATBから考えろ
だから、GATBである。重要なので二度貼る。
繰り返すが、GATBは神託ではない。
検査結果だけで人生を決める必要はない。
検査結果だけで職業を決める必要もない。
能力が低いから価値が低い、という話でもない。
だが、測定から逃げてはいけない。
自分は何ができるのか。
何が速いのか。
何が遅いのか。
何が得意なのか。
何が苦手なのか。
どの種類の処理で疲れるのか。
どの種類の処理なら続けられるのか。
それを見なければならない。
大学名では分からない。
自己分析では分からない。
MBTIでは分からない。
人間力では分からない。
「やりたいこと」では分からない。
職業適性を見なければならない。
ホワイトカラーに向く人間は、ホワイトカラーに行けばよい。
高度な専門職に向く人間は、そこへ行けばよい。
技術職に向く人間は、そこへ行けばよい。
現場に向く人間は、現場に行けばよい。
農業に向く人間は、農業に行けばよい。
物流に向く人間は、物流に行けばよい。
保守、整備、製造、建設、医療技術、介護、エネルギーに向く人間は、その職業世界へ行けばよい。
問題は、どれが偉いかではない。
どこに適性があるかである。
にもかかわらず、大学進学万能論は、この問いを消してきた。
とりあえず大学へ行け。
とりあえず大卒になれ。
とりあえず会社に入れ。
とりあえずオフィスに座れ。
これでは、適性が見えない。
そして、低レベルホワイトカラーが削られる時代には、この逃げ道はもう危ない。
ホワイトカラー幻想をやめろ
ホワイトカラー幻想をやめろ。
大学へ行けば何とかなる、という時代ではない。
オフィスに入れば安全、という時代でもない。
ブルーカラーよりホワイトカラーの方が上、という時代でもない。
死んだのは、低レベルホワイトカラーである。
定型事務、調整だけの仕事、会議のための会議、資料のための資料、外注管理だけの管理は、すでに削られ始めている。
それでも大学を増やし、定員割れ大学を延命し、学生を何となくホワイトカラーへ流し込むなら、それは教育ではない。
在庫処分である。
人間を在庫にしてはいけない。
必要なのは、職業適性からの再設計である。
GATBで適性を見る。
キャリア・インサイトで興味や価値観や職業世界と照合する。
大学進学だけでなく、工業、農業、水産、エネルギー、物流、製造、保守、整備、医療技術、看護、介護、情報へ接続する。
高専、実業高校、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業を作り直す。
学力一本ではなく、職業適性と職業世界をつなぐ。
財務省的な大学整理論は、そこまで行かなければならない。
いや、本当は財務省の仕事ではない。
予算を切る側が、教育制度と職業接続のグランドデザインまで描く必要はない。むしろ、それを描くべきなのは、文科省であり、内閣府であり、経産省であり、教育政策と産業政策を接続する側である。
だが、その絵が見えない。
だから、定員割れ大学の整理が、ただの予算カットに見えてしまう。
大学を削れば終わりではない。
ホワイトカラー幻想を壊した後に、何を作るのか。
そこが本題である。
次に必要なのは、職業教育とトラック分化の再設計である。
大学からオフィスへ。
その古い神話は、もう終わりにした方がいい。
自分が何者かを語る前に、自分がどの職業世界で機能するのかを見ろ。
「まともな社会人」になる必要はない。
機能する場所を探せ。
Word up.
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