天皇を政治利用するな――形式的共和制と実質的共和制から考える日本のCrowned Republic

All eyes on 実質的共和制


1 天皇を政治利用するな

天皇を政治利用するな。

この原則は、天皇制を守りたい側だけが守ればよいものではない。天皇制を批判する側にも、皇位継承制度を変更したい側にも、歴史学者にも、憲法学者にも、政治家にも、国際機関にも適用されなければならない。

天皇陛下は、政治的な意見を自由に表明できる立場にはない。愛子内親王殿下も、自分が皇位に就くべきか、皇室典範をどう改正すべきかを政治的に発言できる立場にはない。

それなのに、周囲は勝手にお気持ちを読み始める。

天皇陛下は皇統の将来を憂慮されているはずだ。

愛子さまは国民の期待に応えたいと思っているはずだ。

上皇陛下も女性天皇を望んでいたはずだ。

皇族方は男系男子限定の制度に苦しんでいるはずだ。

すべて、「はずだ」である。

政治的な発言を制限されている人の沈黙を、自分の政治的主張への同意として翻訳する。これは代弁ではない。政治利用である。

本人が反論できないことを知ったうえで、その権威だけを借りている。

愛子天皇待望論については、すでに「愛子天皇待望論は、なぜサブカル的にも浅いのか――三周目の天皇制論」で論じた。

愛子さま個人への敬意や好感と、皇位継承制度の設計は別のレイヤーにある。人気は正統性ではない。好感は制度変更の根拠ではない。皇室を推し活にするな、という話である。

そこで論じたことを、ここで繰り返すつもりはない。

本稿で問題にするのは、その一段上にある構造である。

皇族の沈黙を、自分たちの政治的結論に都合よく読み替えるな。

歴史学の権威を使って、現代の政治的願望を天皇へ投影するな。

国民の人気を使って、皇位継承制度を動かすな。

そして、国際機関の権威を使って、日本に皇室制度の変更を迫るな。

2026年7月17日、皇室典範の改正が成立した。改正内容は、女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持できるようにすることや、旧皇族の男系男子の子孫を養子として皇室へ迎える道を開くことなどであり、皇位継承資格を男系男子に限る原則は維持された。(AP News)

その翌日、国連のハク事務総長副報道官は、日本の皇室典範改正について問われ、グテレス事務総長の見解として、国連は「あらゆる地位や職業において女性の権利向上につながる包摂的な政策」を各国に奨励すると述べた。

背景には、国連女性差別撤廃委員会が2024年、女性皇族による皇位継承を認めていない日本の皇室典範について改正を勧告し、日本政府が「皇位継承の在り方は国の基本に関わる事項だ」と抗議した経緯がある。(Nippon)

これに対するぼくの第一声は、端的にこれである。

「うっせぇわ」by Ado。

https://www.uta-net.com/song/292534/

国連なんぼのもんじゃい。

もちろん、Adoの歌を憲法解釈や制度設計の根拠にするつもりはない。

ここで借りたいのは、その知的アティチュードである。

ぼくは「うっせぇわ」を、日本社会の外から日本文化を全否定する歌だとは読んでいない。日本社会の常識を知らない者が、社会規範そのものを拒否する歌でもない。

むしろ逆である。

日本社会の常識を熟知している。

模範的に振る舞う方法も知っている。

社会人らしい作法も知っている。

おそらく、その気になれば、かなり上手にこなせる。

そのうえで、それらの作法が人格全体への服従要求に膨張した瞬間に、「うっせぇわ」と返す。

そこに、日本文化へのアンビバレンツがある。

日本社会の共同生活を成立させる作法は必要である。だが、その作法を知っていることと、作法を押し付ける者に人格まで査定されることは違う。

ぼくがリベラル左派と、その延長線上で振る舞う国連へ向ける「うっせぇわ」も、それと同じである。

人権を否定しているのではない。

女性の権利向上を否定しているのでもない。

国際協調を否定しているのでもない。

ただし、「女性の権利」「包摂性」「国際標準」という語を唱えれば、日本の歴史的制度へ上から介入できると思うな、と言っている。

皇位は「あらゆる地位や職業」の一つではない。

一般の公職でもない。

採用試験で能力を競う職業でもない。

すべての国民に就任機会を平等に開けば済む地位でもない。

皇位は、世襲であること自体を制度原理とする。選挙や能力競争によって選ばれないからこそ、政治権力から切り離された国家的権威として機能する。

ここで丸山眞男の天皇制論がどうこう、近代日本思想史がどうこうと始めるつもりはない。それこそ、うっせぇわ、である。本気でやるなら、国学、尊王論、水戸学、明治国家論、戦後思想まで、数百年にわたる研究史を引き受けなければならない。本稿ではそこへ踏み込まず、世襲によって政治的競争から切り離された皇位が、現に国家的権威として機能していることを所与の制度的事実として扱う。

世襲であることが不平等だから、その不平等を解消しろと言うなら、男系男子限定だけを問題にするのは半端である。皇族と一般国民の区別そのものを廃止し、皇位を公募し、全国民に立候補資格を与えなければ論理が通らない。

だが、それをすれば皇室ではなくなる。

皇室とは、そもそも一般的な機会平等の外部に置かれた制度である。

その制度が憲法上正当化されているのは、皇族が一般国民より優れているからではない。皇族に政治的特権を与えるためでもない。政治権力を持たない世襲的権威を置くことによって、政治権力者が国家的権威まで所有するのを防ぐためである。

そこを理解せず、「あらゆる地位や職業」における女性の権利向上という一般論を持ってくるなら、答えはやはり「うっせぇわ」である。

国連であろうが、女性差別撤廃委員会であろうが、事務総長であろうが、制度を理解しないまま日本に説教する権利はない。

権威があるのは分かった。

だが、その権威を使って日本の権威制度へ雑に介入するな。

天皇を政治利用するな。

2 共和制論は、なぜ左翼の専売特許になったのか

日本で共和制を論じると、ほぼ自動的に天皇制廃止論だと思われる。

共和制とは、君主を廃止し、大統領を置くことである。

天皇制を支持する者は君主制論者であり、共和制とは反対側にいる。

そういう整理が、長く当然視されてきた。

実際、日本で共和制を語ってきたのは、ほとんど左翼だった。

戦前の日本共産党は、コミンテルンの方針に従って「天皇制の廃止」「天皇制の転覆」「天皇制の打倒」を掲げた。戦後の1951年綱領では、国家の首長を国民が選挙し、四年ごとに改選する大統領制を明示した時期もあった。

ただし、この共和制論は日本社会に定着しなかった。

日本共産党自身も、戦後を通じて一貫して大統領制を主要政策として掲げ続けたわけではない。他の主要政党も、天皇制廃止を現実の政策選択肢として提示しなかった。

神田文人の「日本における共和制論」は、この空白を歴史的に検討した論文である。

神田は、日本では共和制や大統領制についての研究自体がほとんどなされてこなかったと指摘する。天皇制廃止や共和制が、現実の政治的選択肢としてほぼ成立しなかったためである。

この問題設定には、ぼくも同意する。

日本には共和制論がほとんどなかった。

だが、ぼくと神田では、そこから先が違う。

神田は、共和制を天皇制の外部に置く。

天皇制を維持するか、人民主権の共和国へ移行するか。

その二者択一を、基本的には維持している。

しかし、そこで重大な問いが抜け落ちる。

天皇を廃止した後、国家的権威は誰が担うのか。

大統領が国家元首になるとして、その大統領は政治権力と国家的権威を同時に持つのか。

直接選挙で選ばれた大統領が、国民の代表、行政府の長、軍の最高指揮者、国家の象徴を兼ねるなら、それは本当に権力の共和化なのか。

それとも、分離されていた権威と権力を、一人の政治家へ再統合することになるのか。

共和制を、世襲君主の不在だけで定義すると、この問いが見えなくなる。

ぼくは最初から共和制論者だったわけではない。

義務教育を考え直した。

教育学部はいらないと論じた。

大学進学万能論とホワイトカラー幻想を批判した。

GATBを使って、能力と職業世界を接続しろと論じた。

18歳までの教育責任と、18歳以後の複線型トラックを設計した。

少子化を単なる出生数ではなく、社会の再生産可能性として論じた。

移民で国内制度の失敗を覆い隠すなと論じた。

日本語を高等教育と公共議論のできる言語として残せと論じた。

天皇の権威と政府の権力を分けろと論じた。

それらを積み上げた結果、国家を公共物として国民が引き受けるという一点へ到達した。

それが共和制だった。

だから、ぼくの共和制論は、天皇制廃止論から出発していない。

大統領制導入論でもない。

国家を誰が引き受けるのか、という問いから出発している。

日本で共和制を語ってきたのは、ほとんど左翼だった。

だが、ぼくはネトウヨである。

日本を残すべきだと考える。

天皇制を残すべきだと考える。

日本語公共圏を残すべきだと考える。

国民国家を残すべきだと考える。

公共空間の規律、生活上の作法、文化、サブカルチャー、都市、教育制度、地域社会を、次の世代へ渡すべきだと考える。

この意味で、ネトウヨでよい。

しかし、親方日の丸ではない。

政府がやることなら何でも正しいとは思わない。

自民党政権だから支持するのでもない。

保守を名乗れば免責されるとも思わない。

大学を削減するだけで、その先の職業教育を作らないなら批判する。

移民を労働力不足の便利な埋め合わせにするなら批判する。

文科省が測定を嫌い、人格評価へ逃げるなら批判する。

国家を守ると言いながら、教育も再生産も公共圏も放置するなら批判する。

だが、「親方日の丸ではない」とは、単に政府の政策を是々非々で批判するというだけではない。

ぼくは日本文化を丸ごと肯定しているわけでもない。

日本文化の内部にある同調圧力、空気支配、人格査定、感動的な共同性の押し売りには、かなり強い嫌悪がある。

日本のポップソングにも、その種のものが多い。

みんな一緒。

仲間を信じろ。

君は一人じゃない。

夢はかなう。

つながっている。

頑張れば届く。

そうした言葉で、共同性と努力を情緒的に絶対化する歌には、反吐が出るほど嫌悪を覚える。

共同体が嫌いなのではない。

他人と協力することが嫌いなのでもない。

共同生活に必要な作法や規律は、むしろ必要だと考えている。

嫌いなのは、機能的な作法が人格的な善悪へ膨張することである。

共同生活のために順番を守ることと、仲間を愛せる人間であれと要求されることは違う。

職場を動かすために情報共有することと、職場を家族のように愛せと要求されることは違う。

公共空間で騒がないことと、空気を読んで異論を言うなと要求されることは違う。

だから、ぼくはAdoの「うっせぇわ」に共感する。

日本社会を知らない者による外部からの拒絶ではない。

日本社会の作法を知り、それを遂行できる者による内在的批判である。

ぼくがリベラル左派へ向ける「うっせぇわ」も同じである。

リベラル左派は、日本的同調圧力を批判してきたつもりなのだろう。

だが、「人権」「多様性」「包摂性」「国際標準」「国連」という新しい常識を作り、それに従わない者を道徳的に査定し始めた瞬間、構造は同じになる。

古い上司の「社会人なら分かるだろ」が、国際機関の「包摂的な政策を」に置き換わっただけである。

言っている内容が新しくなっただけで、正しさを共有しない人間を人格的に下に置く仕組みは変わっていない。

だから、うっせぇわ、なのである。

政府を支持するから、国家を引き受けるのではない。

日本文化を全面肯定するから、日本を残すのでもない。

国家を公共物として引き受けるから、政府も文化も批判する。

残すべき日本と、切るべき日本を区別する。

それが、ぼくの共和制である。

3 形式的共和制と実質的共和制

ここで、共和制という言葉を二つに分ける。

形式的共和制と、実質的共和制である。

形式的共和制とは、世襲君主を国家元首に置かない政体をいう。

大統領がいる。

国家主席がいる。

集団的元首がいる。

元首が議会によって選ばれる。

あるいは国民によって直接選挙される。

選出方式や実権の強弱は問わない。

世襲君主がいなければ、形式上は共和国である。

この定義では、アメリカもフランスもドイツも韓国も中国も北朝鮮も共和国である。

日本、英国、カナダ、オーストラリア、サウジアラビアは君主国である。

この分類自体は間違いではない。

問題は、それだけでは政体の質をほとんど説明できないことである。

北朝鮮は共和国である。

正式名称は朝鮮民主主義人民共和国である。

だが、国家の最高権力は金日成、金正日、金正恩へと三代にわたり事実上継承された。

血統によって最高指導者が継承され、政治権力、軍事権力、革命神話、国家的権威が一族へ集中している。

世襲君主を持たないという形式だけを見れば共和国である。

だが、国家を一族の所有物にしないという共和制の実質から見れば、極端な反共和制である。

そこで必要になるのが、「実質的共和制」という理念型である。

ここでいう理念型は、現実の国家を「共和的/非共和的」の二つの箱へ分類するためのものではない。現実に純粋な形で存在する平均像でも、国家はこうあるべきだという道徳的理想でもない。権力の法的拘束、責任主体の明確さ、政権交代可能性、権威と権力の分離、市民による批判と修正、次世代への継承といった特徴を一面的に強調して組み上げ、現実の各国がその型とどこで一致し、どこで逸脱し、別の原理とどう混合しているかを見るための比較項である。理念型は現実を分類箱へ押し込むためではなく、現実との距離を測るためにある。

実質的共和制とは、国家が一人、一族、一党、現政権、官僚組織、軍、企業、宗教組織の私有物にならず、公共物として運営されている状態をいう。

ぼくは、少なくとも次の条件によって判断する。

第一に、公権力が法に拘束されていること。

第二に、統治の責任主体を特定できること。

第三に、政権を平和的に交代できること。

第四に、政治権力者が国家的権威を私有できないこと。

第五に、市民が政府を批判し、制度を修正できること。

第六に、国家が現世代だけの所有物ではなく、次世代へ継承される公共物として扱われること。

第七に、市民が権利を享受するだけでなく、教育、勤労、公共秩序、社会の再生産、言語公共圏の維持を引き受けること。

以下の評価は、各国の本質を一語で確定する判決ではない。この七つの条件による理念型を比較項として、各政体がどの次元では共和制的であり、どの次元ではそこから逸脱しているかを見るためのものである。

したがって、この意味での共和制は、国家元首の選出方式だけでは決まらない。

選挙で選ばれた大統領が国家を私有することもある。

世襲君主を戴きながら、政治権力を国民、議会、内閣へ完全に移すこともできる。

つまり、共和国であることは、実質的共和制の必要条件でも十分条件でもない。

君主がいるから、非共和的なのではない。

大統領がいるから、共和的なのでもない。

問うべきなのは、王冠があるかではない。

国家が誰かの所有物になっていないかである。

4 Crowned Republicは150年前から論じられていた

君主を戴きながら、実質的には共和制として統治される国家。

これは、ぼくが勝手に発明した概念ではない。

英国では、すでに19世紀に論じられていた。

ウォルター・バジョットは、1867年の『イギリス憲政論』で、英国憲政を「尊厳的部分」と「実効的部分」に分けた。

王室は、国家の継続性、尊厳、統合、儀礼、国民的感情を担う。

議会と内閣は、実際の政治、政策決定、行政、責任を担う。

バジョットは、1867年の時点で、英国について「共和国が君主制の衣の下へ忍び込んだ」と表現している。

アルフレッド・テニスンは、1873年に英国を a crowned republic と呼んだ。

UCLの憲法研究部門も、英国は世襲元首を保持していることを除けば、ほぼすべての共和国的属性をすでに備えているという文脈で、バジョットとテニスンの表現を紹介している。(University College London)

つまり、君主国と共和国は、形式分類としては対立する。

だが、立憲君主制と共和的統治は両立する。

形式上は立憲君主制。

実質上・機能上は共和制。

それが crowned republic である。

ここで重要なのは、王室を単なる飾りだと考えないことである。

政治的実権がないから無意味なのではない。

政治的実権を持たないこと自体に、制度的意味がある。

国家的権威を政治権力から分離する。

首相は政府を率いることができる。

しかし、国家そのものにはなれない。

選挙で勝った政治家は行政権力を持てる。

しかし、国家の歴史的継続性、儀礼的尊厳、国民統合の象徴まで私有することはできない。

政権が交代しても、国家は続く。

政府が失敗しても、国家的権威まで崩壊しない。

政治家が人気を失っても、国家そのものの正統性とは切り分けられる。

これは、権力分立とは別の分離である。

立法、行政、司法を分けるだけではない。

権威と権力を分ける。

バジョットやテニスンの議論は、英国についてのものだった。

だが、日本にも同じ補助線を引くことができる。

むしろ、日本の方が、権威と権力の分離という制度経験を長く持っている。

5 共和国は、本当に共和制的なのか――G20と北朝鮮を比較する

ここで、G20の19か国に北朝鮮を加え、形式的政体と実質的共和制を比較する。

G20は現在、19の主権国家に、欧州連合とアフリカ連合を加えた構成である。本稿ではEUとAUを除き、国家だけを扱う。(G20)

比較項目は次の五つである。

①形式的政体
世襲君主を置く君主国か、非世襲元首を置く共和国か。議会制、大統領制、半大統領制なども示す。

②国家元首と政府首班
国家を代表する元首と、実際に政府を率いる首班が、同一人物か別人か。

③権威と権力の分離
国家的権威、政治権力、党権力、軍事権力が、どの程度分離されているか。

④政権交代可能性
選挙その他の制度によって、現実に政権を平和的に交代できるか。

⑤実質的共和制
国家が一人、一族、一党、現政権の所有物にならず、公共物として統治されている度合い。

⑤は公的な国際ランキングではない。

本稿の定義に基づく比較評価である。

日本

①象徴天皇制を採る議会制立憲君主国。
②国家的権威を天皇、政府首班を内閣総理大臣が担う。
③天皇は国政権能を持たず、行政権は内閣に属する。権威と政治権力は憲法上明確に分離される。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。政治権力者が国家的権威を私有できず、政府と国家を切り分けられる点で優れている。

英国

①議会制立憲君主国。
②国家元首は国王、政府首班は首相。
③王室が継続的権威を担い、議会と内閣が政治権力を担う。慣習憲法による分離。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。世襲元首を持つが、統治の実質は議会、内閣、選挙、有権者にある。

カナダ

①議会制立憲君主国・英連邦王国。
②国家元首は国王で、総督が国内でその職務を代行する。政府首班は首相。
③王権的権威と政治的実権を分離。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。形式上は君主国だが、政治権力は民主的制度の下にある。

オーストラリア

①連邦制・議会制立憲君主国。
②国家元首は国王で、総督が代行する。政府首班は首相。
③国家的権威と日常的政治権力は分離。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。ただし、君主制を明示的共和国へ変更する議論は継続している。

サウジアラビア

①絶対君主制。
②国王が国家元首であり、首相として政府も率いる。
③王家の権威と政治権力が強く結合する。
④民主的な政権交代制度はない。
⑤実質的共和制は弱い。

ドイツ

①連邦制・議会制共和国。
②国家元首は連邦大統領、政府首班は連邦首相。
③儀礼的・統合的機能を担う大統領と、政治的実権を持つ首相を分離。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。

イタリア

①議会制共和国。
②国家元首は大統領、政府首班は閣僚評議会議長、すなわち首相。
③大統領は国家統合と憲政上の調整を担い、首相と内閣が統治する。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。ただし、政党政治の不安定さに対し、大統領が調整的役割を果たす局面がある。

インド

①連邦制・議会制共和国。
②国家元首は大統領、政府首班は首相。
③大統領と首相を分離し、通常の実権は首相と閣僚会議が担う。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度から強い。ただし、巨大な多民族・多宗教国家であり、政党優位、宗教対立、中央集権化などの緊張を抱える。

南アフリカ

①議会制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねるが、国民による直接選挙ではなく、国民議会によって選出される。
③元首と政府首班は同一だが、議会との結びつきが強い。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度から強い。憲法秩序と複数政党制を持つが、長期与党支配、行政能力、汚職、社会格差などの問題を抱える。南アフリカは一般に議会制共和国と分類される。(CIA)

アメリカ

①連邦制・大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③国家的権威と行政権力は大統領職に集中するが、議会、司法、連邦制による強い抑制がある。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。ただし、大統領個人への国家的権威の集中、党派対立による国家象徴の分裂、政治の人格化という危険を持つ。

フランス

①半大統領制共和国。
②国家元首は大統領、政府首班は首相。
③制度上は分離されるが、大統領が強い民主的正統性と外交・安全保障上の権限を持つ。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は強い。ただし、大統領権力の集中度は高い。

韓国

①大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③国家的権威、行政権力、選挙による国民的正統性が大統領職へ集中する。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度から強い。自由選挙と政権交代は定着しているが、権力の人格化、前政権への司法的・政治的断罪、政治対立の全面化という脆さを持つ。

インドネシア

①大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③権威と行政権力は大統領に集中するが、多党制、議会、地方分権による抑制がある。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度。民主化は定着したが、軍、官僚、財閥、宗教、地域政治との複雑な力関係を持つ。

ブラジル

①連邦制・大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③国家的権威と行政権力は大統領に集中するが、連邦議会、司法、州政府による抑制がある。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度から強い。ただし、政治の人格化、議会との断片的連合、汚職、制度不信が大きい。

メキシコ

①連邦制・大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③権威と行政権力は大統領に集中する。
④制度上、政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度。選挙民主主義はあるが、政党優位、治安、汚職、司法能力、組織犯罪によって公共的統治が制約される。

アルゼンチン

①連邦制・大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③権威と行政権力は大統領に集中する。
④政権交代可能。
⑤実質的共和制は中程度。民主的競争はあるが、政治の人格化、経済危機、行政の継続性の弱さを抱える。

トルコ

①大統領制共和国。
②大統領が国家元首と政府首班を兼ねる。
③権威、行政権力、政党支配が大統領へ強く集中する。
④選挙は存在するが、公平な競争と権力交代可能性には強い制約がある。
⑤実質的共和制は弱まりつつある。

ロシア

①半大統領制を称する連邦共和国。
②国家元首は大統領、政府首班は首相。
③制度上は分離されるが、実際の政治権力と国家的権威は大統領へ高度に集中する。
④形式上は選挙があるが、実質的な政権交代可能性は著しく低い。
⑤実質的共和制は弱い。

中国

①一党支配の人民共和国。
②国家主席が国家元首、国務院総理が政府首班。ただし、最高権力の中心は中国共産党総書記にある。
③党、国家、軍の最高権力が同一指導者へ集中する。
④政党間の政権交代は不可能。
⑤実質的共和制は弱い。

北朝鮮

①形式上は社会主義共和国・人民共和国。
②国務委員長が国家を代表する最高指導者であり、内閣総理が政府実務を担う。
③政治権力、軍事権力、国家的権威、革命神話が最高指導者とその一族へ集中する。
④現実の政権交代可能性はない。
⑤実質的共和制はほぼ欠如している。

比較まとめ

この比較から分かるのは、君主制と共和国という形式分類だけでは、国家がどれだけ共和制的に運営されているかを判断できないということである。

君主制にも、サウジアラビアのように、王家の権威と政治権力が結合した政体がある。日本や英国のように、君主を戴きながら、政治権力を議会と内閣へ移し、権威と権力を分けた政体もある。

共和国にも違いがある。ドイツやイタリアのように、非世襲の国家元首と政府首班を分け、権威と政治権力を制度的に分離した国がある。アメリカや韓国のように、大統領が国家元首と政府首班を兼ね、国家的権威と行政権力を一つの職へ集中させる国もある。

それでも、元首と政府首班を別に置けば十分というわけではない。ロシアのように、形式上は大統領と首相を分けながら、実際には政治権力と国家的権威が一人へ集中することもある。中国のように、国家元首と政府首班の区別より上位に党権力が存在し、党、国家、軍が同じ指導部へ集中することもある。北朝鮮のように、共和国を名乗りながら、権力、権威、革命神話、血統継承が一族へ統合されることもある。

政権交代可能性も重要だが、それだけで実質的共和制が成立するわけではない。選挙があっても、国家が現職大統領、長期与党、官僚、軍、財閥、宗教勢力などの所有物に近づけば、共和制の実質は弱くなる。逆に、世襲元首がいても、その元首が政治権力を持たず、政府が法、議会、司法、選挙、市民的批判に拘束されるなら、国家は高い程度で公共化されうる。

ここで行ったのは、各国を一語で判決することではない。「実質的共和制」という理念型を比較項にして、各国がどの次元では共和制的であり、どの次元ではそこから逸脱しているかを見たのである。

したがって、問うべきなのは、王冠があるかではない。大統領がいるかでもない。

国家的権威と政治権力が分けられているか。

政治権力が法と責任に拘束されているか。

政府を平和的に交代させられるか。

国家が一人、一族、一党、現政権の所有物になっていないか。

そして、市民が国家を公共物として引き受けられるか。

共和国であることは、実質的共和制の必要条件でも十分条件でもない。

この比較で重要なのは、日本が君主国であるにもかかわらず共和制的だ、という逆説ではない。日本では、世襲の天皇を国家的権威として残しながら、政治権力を国民、国会、内閣へ移し、両者を制度的に分離している。その構造自体が、実質的共和制を支える一つの有力な設計になっている、ということである。

6 『農協月へ行く』で問うたこと、本稿で問うこと

以前、ぼくは「筒井康隆『農協月へ行く』から読む東アジアの近代化可能性」という、ふざけたタイトルの論考を書いた。

そこで扱ったのも、日本、中国、韓国、北朝鮮だった。

ただし、前稿と本稿では問いが違う。

前稿で問うたのは、東アジア社会が近代化し、生活作法、公共的洗練、自己修正能力を獲得できるかという問題だった。

日本も、高度成長期には、経済力と文化的洗練のアンバランスを抱えていた。

海外旅行へ出た日本人団体客が、大声で振る舞い、現地の作法を無視し、金を持った田舎者として見られることもあった。

筒井康隆の「農協月へ行く」は、その日本人団体客の戯画だった。

だから、現在の中国人観光客の振る舞いを見て、「中国人は本質的に粗野だ」「中国人は永遠に変わらない」と断定するのは間違っている。

日本も変わった。

中国も変わりうる。

ただし、日本の変化は、経済成長すれば自動的に起きるものではなかった。

江戸期以来の識字、出版、寺子屋、藩校、貨幣経済、村落自治、職分倫理、武士官僚制、地域的規律といった社会資源があった。

そこへ外圧、制度化、教育、恥の感覚、海外経験が作用した。

日本は外から修正されただけではない。

外圧を、既存の社会資源によって内部の自己修正へ変換した。

前稿の問いは、こうだった。

東アジア社会は、近代化と公共的洗練を獲得できるか。

本稿の問いは違う。

その近代化後の国家は、本当に共和制的に構成されているか。国家的権威と政治権力を分離し、国家を人民の公共物として扱えているか。

同じ中国、韓国、北朝鮮、日本を扱っても、角度は異なる。

中国は、前稿では、将来的な自己修正可能性を問う対象だった。

現在の中国人観光客の粗野さを、固定的な民族性へ還元するな。日本も同じ場所を通った。制度と教育によって変化する可能性はある。

今回は違う。

人民共和国を名乗りながら、党、国家、軍の最高権力が集中し、人民が政府を選び直すことのできない政体を扱う。

韓国は、前稿では、急速な近代化と社会的洗練の不均衡を扱った。

今回は、民主共和国でありながら、国家元首、政府首班、国民的正統性の中心を大統領へ集中させる制度を扱う。

北朝鮮は、前稿では、近代化の極端な失敗例として扱った。

今回は、共和国を名乗りながら、権力、権威、革命神話、血統継承を一族へ統合した実質的反共和制として扱う。

日本は、前稿では、江戸期以来の社会資源を近代化と自己修正へ接続した国として扱った。

今回は、形式上は君主国でありながら、天皇の権威と政府の政治権力を分離することによって、実質的共和制を高度に成立させた国として扱う。

どう考えても、日本は優れている。

もちろん、日本人という民族が本質的に優れているという話ではない。

日本のすべてが優れているという話でもない。

経済政策は失敗する。

教育制度は壊れる。

官僚制は硬直する。

企業はJTC化する。

政治家は劣化する。

公共圏も弱る。

少子化は進む。

だから日本を無条件に礼賛するのではない。

制度比較として、天皇の権威と政治権力を分けた日本の構造が優れていると言っている。

中国では、党、国家、軍が集中する。

北朝鮮では、権威、権力、血統、神話が集中する。

韓国では、自由選挙はあるが、国家的権威と行政権力が大統領職へ集中する。

日本では、天皇が国家的権威を担いながら、政治権力を持たない。

首相は政治権力を持つが、天皇にはなれない。

選挙に勝っても、国家そのものにはなれない。

政権交代によって、国家的権威まで入れ替わらない。

優れた制度資産があるなら、活かさない手はない。

それが、天皇を戴く日本共和制である。

7 八百年の制度知と、明治国家の功罪

日本の権威と権力の分離は、現行憲法だけから始まったものではない。

少なくとも鎌倉幕府の成立以来、日本は約八百年にわたり、国家的権威と実効的政治権力を分ける経験を積んできた。

天皇と朝廷が権威を担う。

幕府が実効的な統治を担う。

もちろん、常に平和的で明確な分離だったわけではない。

承久の乱があった。

南北朝の争いがあった。

朝廷と幕府の対立があった。

幕府が朝廷を統制することもあった。

朝廷の権威が政治的に利用されることもあった。

だが、それでも、実効権力を握った武家が、そのまま天皇になる構造にはならなかった。

源頼朝は天皇にならなかった。

足利尊氏も天皇にならなかった。

徳川家康も天皇にならなかった。

武家政権は、天皇の権威を利用し、時に圧迫し、統制した。

しかし、権力者自身が皇統を奪い、国家的権威と政治権力を完全に統合することはなかった。

これは、民主主義ではない。

国民主権でもない。

現代的な立憲主義でもない。

だから中世日本を共和制と呼ぶつもりはない。

ただし、権威と権力を分ける制度知はあった。

神話的時間まで含めれば二千六百年。

歴史的に確実な王統として見ても千数百年。

そして少なくとも鎌倉以来約八百年、日本は権威と実効権力を分けて国家を運用してきた。

この制度経験を、単なる前近代的残滓として捨てる必要はない。

むしろ、近代民主主義と接続して再利用できる制度資産である。

問題は明治国家だった。

明治維新は、日本を近代国家にした。

中央集権国家を作った。

廃藩置県を実施した。

近代法を整備した。

学校制度を作った。

徴兵制を導入した。

議会を作った。

官僚制を作った。

産業化を進めた。

列強による植民地化を回避した。

この功績を否定することはできない。

1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年に施行された。

議会、内閣、裁判所、法体系を持つ近代的立憲君主制が成立した。

大正期には政党政治と普通選挙へ向かう動きもあった。

したがって、明治から1945年までを、単純な暗黒時代として切り捨てるべきではない。

しかし、構造的な危険はあった。

大日本帝国憲法は、天皇を統治権の総攬者とした。

長く分離されていた国家的権威と政治権力を、近代国家の中心で再結合した。

天皇は、国家的権威であると同時に、統治権の主体とされた。

軍は天皇の統帥権に直属するとされた。

内閣、軍、官僚、議会の責任関係は複雑化した。

誰が最終的な政策責任を負うのかが曖昧になった。

天皇の権威は強力だった。

だが、その権威を利用する者と、実際の責任を負う者が一致しなかった。

軍は天皇の名を使う。

官僚も天皇の名を使う。

政治家も天皇の名を使う。

国民教育も天皇の名を使う。

しかし、失敗したときに誰が責任を取るのかは曖昧になる。

権威と権力を結合したように見えて、実際には権威を誰もが利用しながら、責任だけが拡散した。

戦前の失敗は、天皇が存在したこと自体ではない。

天皇の権威を政治権力、軍事、教育、国家イデオロギーへ接続しながら、その権威に対応する責任主体を作れなかったことにある。

だから、本稿の「天皇を政治利用するな」は、リベラルだけに向けた言葉ではない。

国家神道も政治利用である。

皇国史観も政治利用である。

軍部が天皇の権威を使うことも政治利用である。

保守政治家が天皇を自分たちの正統性の根拠にすることも政治利用である。

右派が天皇のお気持ちを勝手に忖度することも政治利用である。

同じ原則を、左右に適用する。

明治から1945年までの約80年間の失敗は、それ以前約800年の制度知を否定しない。

むしろ逆である。

長く分けていた権威と権力を再結合したとき、何が起きたかを示している。

8 戦後日本は、権威と権力を再び分けた

1947年施行の日本国憲法は、天皇を廃止しなかった。

同時に、天皇から統治権を切り離した。

第1条で、天皇を日本国と日本国民統合の象徴とした。

その地位は、主権者である国民の総意に基づくとした。

第3条で、天皇の国事行為には内閣の助言と承認を必要とし、内閣が責任を負うとした。

第4条で、天皇は国政に関する権能を持たないと明記した。

第65条で、行政権を内閣に置いた。

これは、戦前からの単純な継続ではない。

天皇の地位は根本的に変わった。

同時に、完全な断絶でもない。

皇統と国家的権威は残した。

政治権力だけを切り離した。

その意味では、鎌倉以来の権威と権力の分離を、国民主権と近代立憲主義の下で再構成したと読むことができる。

昭和天皇については、英雄化しすぎてはいけない。

戦前の統治構造と戦争責任を消してはならない。

「戦後、平和主義者へ転向した」と単純化するのも危険である。

だが、戦後の昭和天皇が、憲法上の象徴として40年以上在位し、政治権力を行使しない天皇の形を実際に運用したことも事実である。

戦前の責任を背負った昭和天皇が、戦後は統治から離れ、慰霊、祈り、国家的継続性を担う存在になった。

ここに、戦前と戦後の断絶が体現されている。

上皇陛下は、その象徴天皇制をさらに実践的に作り上げた。

被災地を訪れた。

戦没地を訪れた。

沖縄、広島、長崎、硫黄島、パラオなどで慰霊した。

災害被災者と同じ目線まで身を低くした。

国民の苦難へ寄り添うことを、象徴の役割として示した。

これは政治ではない。

政策決定でもない。

行政命令でもない。

だが、国家の権威が、国民の死者、被災者、歴史的苦痛を忘れないことを示す行為だった。

今上天皇は、その実践を継承している。

即位に際し、上皇陛下が30年以上にわたり国民の幸せと世界の平和を願い、国民に寄り添ってきた歩みに触れ、自らも象徴としての責務を果たすと述べた。

昭和、平成、令和の三代を通じて、天皇は統治者ではなく、国家の継続性、慰霊、祈り、統合を担う権威として定着してきた。

もちろん、これは憲法条文だけから自動的に出てくるものではない。

象徴天皇が何をするかについて、憲法は詳細な職務記述を持たない。

だからこそ、三代の実践によって形作られてきた。

これを壊す理由があるだろうか。

大統領を置けば、もっと民主的になるのか。

首相とは別に儀礼的大統領を置くなら、その大統領を誰が選ぶのか。

国民が直接選ぶのか。

国会が選ぶのか。

任期は何年か。

再選を認めるのか。

政党政治からどう切り離すのか。

歴代大統領の蓄積によって、天皇と同じ継続的権威を作れるのか。

政治的野心のない候補者だけを選べるのか。

直接選挙で選ばれた大統領が、首相より強い民主的正統性を主張しない保証はあるのか。

選挙に勝った人物へ、国家的権威まで与えることは、本当に権力の共和化なのか。

天皇制を廃止する側には、立証責任がある。

世襲だから不平等だ、だけでは足りない。

いま存在している権威と権力の分離より、安全で、安定し、政治的に中立な代替制度を示さなければならない。

9 天皇の沈黙を、自説への同意に変えるな

ここで、現在の皇位継承論へ戻る。

愛子内親王殿下の人格や能力を問題にしているのではない。

女性一般の能力を問題にしているのでもない。

女性天皇が歴史上存在したことも事実である。

制度として女性天皇や女系天皇を選択する立場も、論理的にはあり得る。

問題は、制度変更の論証である。

皇位継承原理を変えるなら、変える側が説明しなければならない。

なぜ変える必要があるのか。

どこまで変えるのか。

女性天皇までか。

女系天皇までか。

直系長子優先にするのか。

愛子内親王殿下一代の特例にするのか。

配偶者と子の地位をどうするのか。

皇統の定義をどう変更するのか。

制度変更によって、国家的権威の継続性がどう維持されるのか。

政治的な人気や世論の変化から、皇位をどう隔離するのか。

それらを説明しなければならない。

だが、現実の議論では、立証責任がしばしば情緒によって飛ばされる。

愛子さまが人気だから。

愛子さまが優秀だから。

国民が望んでいるから。

女性を排除するのは時代遅れだから。

国連が男女平等を求めているから。

天皇陛下も心配しているはずだから。

上皇陛下も望んでいるはずだから。

愛子さまも国民の期待に応えたいはずだから。

その「はず」を止めろと言っている。

皇族は、政治的な反論ができない。

自分の名を使うなと言うこともできない。

自分は即位を望んでいないと言うこともできない。

自分は即位を望んでいると言うこともできない。

その沈黙を利用するな。

「天皇陛下のお気持ち」を勝手に書くな。

「愛子さまのお気持ち」を勝手に書くな。

国民が皇族の内面を所有するな。

皇族を、自分たちの政治的物語のキャラクターにするな。

これは、愛子さまを守るという意味でもある。

愛子天皇待望論は、愛子さま個人への好意を示しているように見える。

だが、個人の人生を国民の政治的欲望へ回収している。

愛子さまを制度の救済者にする。

皇室の危機を背負わせる。

男女平等の象徴にする。

リベラルな日本の象徴にする。

保守政権への対抗アイコンにする。

それは敬意ではない。

政治利用である。

国連の発言も、同じ構造に入る。

女性の権利向上という一般理念を皇位へ当てはめる。

女性が皇位に就けないことを、一般の職業機会の排除と同じ枠で処理する。

そして、国連という権威によって、日本国内の制度論へ方向を与えようとする。

だが、国連は日本国の主権者ではない。

皇室制度を維持する責任も負わない。

制度変更に失敗しても責任を取らない。

皇統が断絶しても責任を取らない。

日本の国家的権威が政治化しても責任を取らない。

責任を負わない外部機関が、一般理念だけを提示する。

これは、ぼくの言葉で言えばスピっている。

制度、歴史、責任、継続性を飛ばして、「女性の権利向上」という大きな理念へ逃げている。

だから、うっせぇわ、なのである。

国連なんぼのもんじゃい。

10 天皇を戴く日本共和制

日本は形式上、共和国ではない。

世襲の天皇を戴く立憲君主国である。

だが、実質上は高度に共和制的である。

主権は国民にある。

政治権力は国会と内閣を通じて行使される。

政府は選挙によって交代する。

裁判所は独立する。

地方自治がある。

国民は政府を批判できる。

天皇は国政権能を持たない。

首相は政治権力を持つが、国家的権威を所有できない。

天皇は国家的権威を担うが、政治権力を持たない。

権威と権力が分かれている。

世界の政体を見れば、共和国という名前だけでは何も分からない。

中国は人民共和国である。

北朝鮮は民主主義人民共和国である。

ロシアは連邦共和国である。

だが、共和国という国号は、国家が人民の公共物であることを保証しない。

一党が所有することもある。

一人が所有することもある。

一族が所有することもある。

他方、日本や英国は、世襲君主を持ちながら、国家の政治権力を公共化している。

君主がいるから非共和的なのではない。

冠があるから遅れているのでもない。

問うべきなのは、国家が誰かの所有物になっていないかである。

日本は、権威と権力を分ける制度経験を、少なくとも約八百年持っている。

明治国家は、それを再結合した。

近代国家形成には成功した。

だが、国家的権威を政治、軍事、教育、イデオロギーへ接続し、責任を曖昧にする危険も生んだ。

戦後日本は、その失敗を自己修正した。

天皇を廃止しなかった。

天皇から政治権力だけを切り離した。

昭和、平成、令和の三代を通じ、天皇は統治者ではなく、慰霊、祈り、継続性、国民統合を担う象徴として定着した。

この制度は優れている。

ならば、壊すのではなく、活かせばよい。

天皇に政治権力を戻すのではない。

政府を無条件に支持するのでもない。

伝統を唱えて制度責任から逃げるのでもない。

天皇を戴きながら、国民が国家を公共物として引き受ける。

教育を引き受ける。

子どもを社会の成員へ育てる。

能力を測り、職業世界へ接続する。

社会の再生産可能性を立て直す。

日本語公共圏を維持する。

公共空間の秩序を守る。

移民と帰化の条件を設計する。

文化を保存し、修理し、次の世代へ渡す。

政府が間違えば批判する。

日本文化が人格支配へ傾けば「うっせぇわ」と言う。

リベラル左派が「人権」「多様性」「国際標準」を使って新しい同調圧力を作れば、それにも「うっせぇわ」と言う。

国連が制度を理解せず、日本に上から説教するなら、国連なんぼのもんじゃいと言う。

それは反国家ではない。

反社会でもない。

国家を政府や文化的空気の所有物にしないための批判である。

共和制とは、政府への服従ではない。

国家を公共物として引き受けることである。

天皇制とは、政治権力者へ神秘的権威を与える制度ではない。

政治権力者から国家的権威を切り離す制度である。

両者は対立しない。

むしろ、日本では両者を結びつけるべきである。

日本には共和制論がなかったのではない。

日本がすでに持っていた共和制的実質が、共和制として概念化されてこなかったのではないか。

天皇を廃止して大統領を置くことだけが共和制ではない。

天皇を戴きながら、国民が国家を公共的実践として引き受ける。

政府と国家を分ける。

権威と権力を分ける。

残すべき日本と、切るべき日本を分ける。

その制度資産を自覚的に使う。

それが、天皇を戴く日本共和制である。

天皇を政治利用するな。

天皇の沈黙を、自説への同意に変えるな。

国連の権威を、日本の制度を上書きする免許にするな。

冠があるかではない。

国家が誰のものかを問え。

日本は、天皇を戴く Crowned Republic になりうる。

というより、すでにかなりの程度、そうである。

残された課題は、その実質を国民が引き受けることである。

Word up.

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