愛子天皇待望論は、なぜサブカル的にも浅いのか――三周目の天皇制論

All eyes on 愛子天皇待望論。

愛子さまを天皇に、という声がある。

その気持ち自体は、分からなくはない。愛子さまには品がある。清潔感がある。知性も感じる。立ち居振る舞いもよい。国民から好かれているのも分かる。現在の皇室をめぐる世論の中で、愛子さまに期待が集まること自体は、かなり自然な現象だと思う。

だから、最初に言っておく。

ぼくは、愛子さま個人を否定する気は一切ない。

むしろ逆である。

愛子さまが魅力的だからこそ、愛子天皇待望論は浅い。

ここで分けなければならないのは、愛子さま個人への敬意や好感と、皇位継承システムの継続性である。この二つは、まったく別のレイヤーにある。前者は個人への感情であり、後者は制度の問題である。

ところが、愛子天皇待望論は、ここを混同する。

愛子さまが素晴らしい。だから天皇にふさわしい。国民に愛されている。だから天皇になってほしい。女性でもいいではないか。時代に合っているではないか。国民感情に沿っているではないか。

一見すると、これは優しい。現代的で、リベラルで、国民感情にも合っているように見える。

だが、構造としてはかなり浅い。

それは、人気キャラをメインルートにしろ、と言っているのに近いからである。


皇室は推し活の対象ではない

皇室に親しみを持つことは悪くない。敬意や好感を持つことも自然である。皇室報道があり、行事があり、映像があり、写真があり、人々がそこに物語を読む以上、皇室がある種のキャラクター性を帯びることは避けられない。

しかし、そこには越えてはいけない線がある。

親しみは制度変更の根拠ではない。
好感は継承ルールを書き換える根拠ではない。
人気は正統性ではない。

愛子さまが国民に愛されていることと、愛子さまを天皇にすべきかどうかは、同じ問題ではない。

この区別を失った瞬間、皇室は推し活の対象になる。

推しが一番人気だから、公式は推しを勝たせろ。推しがかわいそうだから、推しを報わせろ。推しのルートが一番美しいから、公式設定を変えろ。そういう話になる。

それはサブカル的にも浅い

なぜなら、本当に強い物語は、人気キャラをそのまま勝たせることで成立するとは限らないからである。むしろ、人気キャラを勝たせないこと、不条理な設定を維持すること、読者や視聴者の欲望に迎合しないことによって、作品や制度の強度が保たれることがある。

皇室を作品にたとえること自体に抵抗がある人もいるだろう。だが、ぼくはあえてそう言う。

愛子天皇待望論は、公式設定の重みを理解しないライト層の二次創作に近い。

サブカルは天皇制をどう読んできたか

かつてサブカル批評は、天皇制を単なる政治制度としてだけでなく、記号、物語、空虚な中心、データベース、消費される象徴として読もうとしてきた。

大塚英志、東浩紀、宇野常寛らの議論を、そのまま皇室論に転用することはできない。彼らの議論そのものから、「男系だからてえてえ」という結論が自動的に出てくるわけではない。そこは雑に接続してはいけない。

しかし、彼らの議論が扱ってきた語彙――物語消費、データベース消費、動物化、サバイバル、決断、設定、キャラクター、空虚な中心――を経由すると、現在の愛子天皇待望論の浅さはかなり見えやすくなる。

東浩紀のいう動物化は、単に「オタクが劣化した」という話ではない。大きな物語が失われたあと、人々が深い意味や歴史的文脈ではなく、キャラクターや属性やデータベース的な断片を消費するようになる、という診断だった。

それを皇室に当てはめるなら、愛子天皇待望論はかなり動物化している。

愛子さまが素敵。
愛子さまがふさわしい。
愛子さまがかわいそう。
愛子さまなら国民が納得する。
愛子さまを天皇にしてほしい。

これは、個人のキャラクター性への反応としては理解できる。だが、そこから皇位継承システムを書き換えろという話になるなら、それはキャラクター消費で制度を動かそうとしていることになる。

データベースなんかには萌えない。

萌えるのは、設定の重みである。やり直せなさである。不条理な制約である。人気投票で動かない公式の冷たさである。だからこそ、それを引き受けるキャラクターや制度に強度が出る。

ここで区別しておきたいのは、「読むこと」と「消費すること」の違いである。

後世の視点で過去の人物や制度を読むこと自体は悪くない。歴史小説はしばしばそれをやる。たとえば垣根涼介の『信長の定理』は、織田信長にパレート法則的な発想を重ねる。もちろん、信長がパレート法則を知っていたわけではない。完全に後付けである。だが、その後付けは小説として機能している。後付けであることを引き受けた上で、人物造形と物語構造の中で昇華しているからである。

問題は、後付けそのものではない。後付けを後付けとして引き受けず、キャラクターの魅力や現代的な気分を、そのまま気持ちのよい結論へ直結させることである。

その意味で、愛子天皇待望論の多くは、その域に達していない。

愛子さまというキャラクターの魅力を、国民感情にとって気持ちのよい制度変更へ直結しているだけである。それは読みではない。消費である。

一周目、二周目、三周目

ここで、天皇制をめぐるサブカル的な受容を、かなり乱暴に三つに分けてみる。

一周目は、普通の伝統保守である。

万世一系だから守れ。神聖だから守れ。伝統だから男系を維持せよ。皇室とはそういうものだ。これは一番分かりやすい。信仰や伝統や保守思想の言葉で、男系継承を守ろうとする。

二周目は、ネット右派的なメタ消費である。

左派やフェミニズムや男女平等論への対抗として、皇室をミーム化し、萌え化し、サブカル記号として使う。愛国や反左翼のために、キャラクター性やネット的な茶化しを動員する。ここでは、皇室は政治的対立の武器になる。

そして三周目がある。

三周目は、愛国でも反左翼でもない。少なくとも、それを第一の根拠にしない。

三周目は、システムの設定を読む。

男系継承を、「神聖だから守るべきもの」としてではなく、「このシステムをこのシステムたらしめてきた、過酷な公式設定」として読む。現代的な価値観から見れば、不条理で、硬直的で、説明しにくく、国民感情にも沿わないかもしれない。だが、その書き換え不能性こそが、システムの強度を作っている。

これは、いいルールだから守る、という話ではない。

むしろ、ひどいルールである。過酷なルールである。人間的幸福や自己実現とは相性が悪い。現代の平等感覚にも乗りにくい。だからこそ、軽々しく変えた瞬間に、皇室はただの現代的制度になる。

それはもう、皇室ではなく、皇室風にデザインされた現代制度である。

男系継承は「正しい」以前に、過酷な公式設定である

男系継承を擁護すると、すぐに「女性差別だ」「時代遅れだ」「家父長制だ」と言われる。

そう言いたくなる気持ちは分かる。

現代の制度設計として見れば、男系継承はかなり異様である。一般社会のルールとして見れば、到底そのまま正当化できるものではない。会社や学校や自治体や一般家庭で、男系継承を正義として持ち込めば、それはただの差別である。

だが、皇室は一般社会ではない。

ここが重要である。

皇室を、一般社会の平等原理でそのまま評価すると、必ず壊れる。皇室は、普通の近代的個人が自己実現する場所ではない。国民の人気投票でキャリアパスを決める場所でもない。現代社会の価値観に合わせて、最適化されるべき公共人材配置システムでもない。

皇室は、制度であり、象徴であり、儀礼であり、継承であり、公式設定である。

そして、公式設定というものは、しばしば理不尽である。

強い物語には、たいてい理不尽な設定がある。主人公が選べない出生、変えられない血筋、引き受けるしかない宿命、逃げられない役割。読者の快適さや人気投票に合わせて、それらを全部丸くした瞬間、物語は弱くなる。

男系継承も同じである。

これは、万人が納得できる美しい制度ではない。むしろ、その不条理な縛りによって、皇室は皇室であり続けてきた。そこに現代の分かりやすい正義をパッチとして当てると、たしかに一時的には気持ちよくなる。愛子さまを天皇にできる。男女平等にも見える。国民感情にも合う。

だが、その瞬間、公式設定の冷たさは失われる。

そして、ぼくはそこに萌えない。

愛子さまが天皇にならないルートこそてえてえ

ここで、いちばん言いたいことを言う。

愛子さまが天皇にならないルートこそ、てえてえ。

これは、愛子さまを軽んじる言葉ではない。逆である。愛子さま個人の魅力を、皇位継承システムの改変理由として消費しない、ということである。

愛子さまが素晴らしい。だから天皇にする。

これは一見すると敬意に見える。だが、構造としては、愛子さま個人を国家制度のアイコンとして使っている。愛子さまのキャラクター性を、皇位継承システムを書き換えるための燃料にしている。

それは、敬意ではなく消費ではないのか。

愛子さまは、天皇になることでしか物語が完成しない存在ではない。天皇にならない人生にも、その先がある。その先を、国民が勝手にハッピーエンドとして書き切ってはいけない。

「愛子さまが天皇になれば美しい物語になる」という感情は、かなり危うい。

それは、国民が自分たちの見たい物語を、愛子さまに背負わせているだけかもしれないからである。

本当に敬意があるなら、むしろ、愛子さまを制度変更のアイコンとして消費しないことではないか。天皇にならないまま、その先の人生が続いていく。その人生を、国民が所有しないことではないか。

だから、愛子さまの将来については、国民として祈るのみである。

俺たちの戦いはこれからだ。

そういう終わり方でいい。

いや、むしろその方がいい。

完結させない。回収しない。国民感情のハッピーエンドにしない。愛子さまという個人を、皇位継承論の結論にしない。

そこにこそ、敬意がある。

愛子天皇待望論は、なぜ浅いのか

愛子天皇待望論が浅いのは、女だから駄目、という話ではない。

愛子さま個人が駄目、という話でもない。

浅いのは、個人の魅力と制度の継続性を混同しているからである。

浅いのは、国民感情と正統性を混同しているからである。

浅いのは、現代の平等感覚を、そのまま皇室という特殊制度に適用できると思っているからである。

浅いのは、キャラクター人気で公式設定を書き換えようとしているからである。

そして何より浅いのは、愛子さまを本当に一人の個人として見ていないからである。

愛子さまを天皇にしたい人々は、愛子さまを大切にしているように見える。だが、その言説の中で、愛子さまはしばしば「理想の天皇像」「男女平等の象徴」「現代的皇室の希望」「国民統合の物語」として使われる。

それは、個人を物語に回収する態度である。

スピ論の言葉で言えば、これはスピっている。

現実の制度、継承ルール、歴史的制約、身体、責任、個人の人生を飛ばして、「国民に愛される女性天皇」「時代に合った皇室」「男女平等の象徴」という抽象的で大きな意味へ逃げている。

だから、愛子天皇待望論はスピである。

しかも、サブカル的にも浅いスピである。

これは反愛子さま論ではない

念のため繰り返す。

これは反愛子さま論ではない。

愛子さま個人への敬意と、愛子天皇待望論への批判は、まったく両立する。

むしろ、愛子さまを政治的・制度的アイコンとして消費することに抵抗する方が、個人への敬意に近いとぼくは思う。

愛子さまを天皇にしないことは、愛子さまを否定することではない。愛子さまを制度に回収しないことでもある。愛子さまの人生を、国民が勝手に物語化しないことでもある。

皇室は、国民の情緒を満たすための物語装置ではない。

そこを間違えると、皇室はキャラクター消費になる。

そして、キャラクター消費としての皇室は、たぶんかなり弱い。国民が飽きれば終わる。人気が落ちれば終わる。炎上すれば終わる。次の推しが出れば終わる。

それでは、皇室の意味がない。

皇室が皇室であるためには、国民感情に回収されない冷たさが必要である。人気投票で動かない硬さが必要である。現代の価値観で簡単に最適化されない不条理が必要である。

そこに耐えられないなら、天皇制など最初から無理である。

愛子天皇にしても、バッドエンドしかない

では、愛子さまを天皇にすれば、この物語は救われるのか。

救われない。

むしろ、そこで初めて問題が露出する。

愛子天皇を認めるとして、その先をどうするのか。女系天皇まで認めるなら、皇室が長く維持してきた「男系継承」の物語はそこで終わる。制度論としてそれを選ぶ立場はあり得る。だが、それは男系継承物語の修正ではなく、ジャンル変更である。

逆に、愛子天皇は認めるが、女系天皇は認めないとする。その場合、愛子さまの子は皇位を継げない。天皇の子でありながら、皇統物語の外に置かれる。すると、国民は今度はその子を「かわいそうな子」として消費することになる。

つまり、愛子天皇論は、愛子さまを救うように見えて、別の悲劇を予約する。

女系を認めれば、男系継承の物語が終わる。

女系を認めなければ、愛子さまの子が悲劇の子になる。

愛子さまを天皇にしなければ、愛子さま自身が悲劇の人として消費される。

どのルートでも、そこにはバッドエンドしかない。

だからこそ必要なのは、「愛子さまがかわいそう」「愛子さまこそふさわしい」という情緒ではない。愛子さま個人の魅力と、皇位継承制度の設計を分けることである。

この分離に耐えられないから、愛子天皇待望論は浅い。

制度を語っているようで、実際には悲劇のキャラクターを欲望している。愛子さまが天皇になれない悲劇を消費し、仮に愛子さまが天皇になれば、次はその子が継げない悲劇を消費する。

お前ら、せめてそこまで考えてから「愛子天皇」と言え。

愛子さまを物語の燃料にするな。

岡美穂子氏のような議論へ

この話は、単なるサブカル批評では終わらない。

この混線を、歴史学者が歴史学の権威をまとって加速させると、問題はさらに厄介になる。

ここで、岡美穂子氏のような議論に入る。

歴史学者が、女性天皇の歴史や通史監修の肩書を使って、現代の政権批判や皇統問題への政治的断言を行うとき、そこでは同じ混同が起きている。

女性天皇がいた。だから愛子天皇もありうる。
国民が望んでいる。だから制度を変えるべきだ。
今の政権は皇統問題に汚れた手を突っ込んでいる。だから日本史上最悪の政権の一つだ。

こういう話の運びは、歴史ではない。

それは、歴史の言葉を使った現代政治である。

もちろん、歴史学者が政治的意見を持つこと自体は自由である。だが、歴史学者という肩書を前に出して、女性天皇・女系天皇・男系女子・皇位継承制度・現代政治を雑に接続するなら、それは批判されるべきである。

なぜなら、そこでは歴史が、現代の情緒と政治的結論を正当化するための素材にされているからである。

そして、その浅さは、愛子天皇待望論そのものの浅さとつながっている。

愛子さまが素晴らしい。
だから天皇にしたい。

この気持ちは分かる。

だが、分かることと、浅くないことは別である。

人気キャラを勝たせるだけなら、誰でもできる。

公式設定の重みを読むこと。
不条理な継承ルールの冷たさを引き受けること。
個人の魅力を制度変更の燃料として消費しないこと。
天皇にならない人生の余白を、国民が勝手に書き切らないこと。

そこまで含めて読むなら、愛子さまが天皇にならないルートこそてえてえ。

愛子天皇待望論は、政治的に浅い。

そして、サブカル的にも浅い。

Word up.

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