時計、眼鏡、宝石(時間・時刻・時計・03)
「「時を聞く」から「時を見る」へ(時間・時刻・時計・02)」の続きです。
前回は、次のように終わりました。
ところで、hour と言えば、忘れられない歌があります。話が長くなりそうなので、次回にまわします。
そんなわけで、今回は hour という言葉の連想でつなげたものです。(※一部を、以前の記事の再構成でお届けします。)
砂時計
hour ⇒ hourglass・砂時計。
hourglass という言葉を思いだしました。砂時計のことですね。hourglassというと、以下の映画を連想します。
YouTubeで、この動画を見つけた時には歓喜したものです。懐かしい。
いっしょに見た人を思い出します。いっしょに行った映画館も覚えています。その人の服装も覚えています。場所は東京、渋谷。あの時は最後まで見たような記憶があります(私は映画が苦手で最後までじっと席に座っていられないのです)。
あの人はいまどうしているのでしょう。この映画は後にレンタルで借りて見たこともあります(持続して見ることができないので途中で何度も止めて断続的に見ます)。私としては珍しいことです。忘れられない映画です。
Time flies.
*
映画は「ジェレミー(Jeremy)」(1973年)、主題歌は主役を演じたロビー・ベンソンが歌っています。この映画の内容というかストーリーは、主役の少年がユダヤ系だと考えるとよく分かります。その意味では時代を反映している気もします。
とてもセンチメンタルな物語なのですが、懐かしくて、その感傷に浸らずにはいられません。主題歌には正式はタイトルはなく、Hourglass Songと呼ばれているようです。
余談になりますが、上の動画では主人公の男の子の部屋にある本棚が映しだされます。あそこに並んでいる本が気になってなりません。画質が悪いので、一時停止にして目を細めてにらむことがあります。背表紙に Emily Dickinson なんて見えたりしますね……。
それにしても、いろいろな物がある部屋です。どれも洗練されて高価な印象を受けます。この映画のオープニングは少年がかなり裕福な家庭の子弟であることを匂わせています。ニューヨークの高級アパートというかコンドミニアムでしょう。
動画の最後で、門衛に送られて少年がアパートを出ていきますが、チェロの個人レッスンを受けに行くのです。
*
言葉を転がしてみます。
hourglass・砂時計・sandglass・eggtimer・eggglass。本来は、ゆで卵をつくるときに用いられるたようです。
glass、グラス、ガラス、硝子、ギヤマン、ビードロ。
glass は glasses と複数形になると、二つのレンズからなる眼鏡の意味にもなりますね。
上の映画の主人公の少年、ジェレミーも眼鏡をかけています。
動画の 2:00 から 2:10 にかけての、目覚めた少年が眼鏡をかけるまでのシーンが好きです。なんか、目覚めたときの仕草と表情がかわゆくないですか?
空間・時間、長さ・レトリック
ところで、いま上で書いた「動画の 2:00 から 2:10 にかけての」みたいに、動画の時間の表示は時刻の表示と同じ文字列(数字も文字です)を使うのですね。
映画や動画は時間の芸術だということでしょう。あと、楽曲もそうですね。
時間に拘束される出来事は、始まりと途中と終わりがある(線状に進むという意味です)のですから、0:00 というかたちで時刻のように刻むのが便利であり、ベストなのかもしれません。
同じく線状に進んで始まりと途中と終わりがある、物差しや巻き尺の目盛りと同じなのかも。目盛りは等間隔で刻むものです。
空間と時間は、「長さ」という共通したレトリック(修辞)・言葉(言辞)で処理し、数字で刻むことで、地点と時点のありかを正確に示すということでしょうか。
このように考えると、言葉の処理とイメージの処理と事物の処理はレトリックだとつくづく思います。要するに、物は言いようなのです。つまり、別のレトリックも可能なのかもしれません。
「言葉の世界」と「イメージの世界」と「事物の世界」が重なるように感じられます。
私の好きな言い方(自分語)だと、言界と幻界と現界(どれも「げんかい」と読みます)とが重なるのです。ただし、そのどれもが同時に限界でもあります。人は神ではありません。
時空を「収納する・おさめる」
時空(時間と空間)は、どのように言い表す(口にしたり文字にする)ことができるのでしょう?
これは時間と空間を、どのように収納するか、つまりどのように「おさめる」かだという気がします。
おさめる、収める、納める、修める、治める
「おさめる」は、辞書によると「おさ・長・首長」から来ているようです。首長ですから、統治と管理という話になります。
以上、広辞苑の「おさめる」を参考にしました。
*時空を収める・納める ⇒ 時間と空間を数値として物に刻んで(物に刻んだ数字に置き換えて)収納する。時空の「代わりに」物とそれに刻んだ数字をもちいる ⇒「「代わりに」は魔法の言葉」)。時計・ストップウォッチ、物差し・巻き尺。
*時空を修める ⇒ 修辞・レトリック。時間と空間を「長さ」(「おさ・長」と重なります)という言葉とそのイメージで修める。
*時空を治める ⇒ 時間と空間を管理くらいはできるかもしれませんが、統治は無理なのではないでしょうか。庶民(治めるではなく納める側の人びと)は統治できても……。人は神ではありません。
話を変えます。
時計、眼鏡、宝石
昔は時計と眼鏡と宝石を売っている個人のお店があちこちに見られました。
時(とき)は、かつて叩いてみんなで聞くもの(寺の鐘・clock)であったのが、個人的に見るもの(懐中時計・腕時計・watch)へと移り変っていった――。そんな話を前回はしました。
時計は、昔も今もただ見るだけのものではなく財産にもなります。高価な時計は、私には縁がありませんけど。
時は鐘なりが、時は金なりになったということでしょうか? 鐘の鳴るところには金の成る木がある(これも前回にした話です)、というのも変わりつつあるようです。とくに、この国では。
信者で儲ける。この漢字はよく出来ていると思います。
*
時は見えません。自分の姿と同じで見た人はいません。
時計で見ているものは時ではありません。また、鏡をのぞき込んで、そこに見えるのも自分ではないのです。
時そのものではない、自分そのものではない。こう言えば分かりやすいかもしれません。
文字を読んでいるときに頭に浮ぶものも、そのものではありません。でも、そのものだと人は信じたがります。
文字も、鏡も、時計も、ある意味、錯覚製造装置なのです。私はその錯覚を否定も非難もするつもりはありません。人である以上、受け入れる以外に生きていく術はなさそうです。
なお、いま述べた意味での、文字と鏡と時計、そして映像について綴った拙文「鏡がある限り、文字がある限り」を先日投稿しましたので、よろしければお読みください。私にはとても愛着のある記事なのです。
錯覚、記憶、既視感
錯覚製造装置なんて身も蓋もない話で記事を終わりたくないので、付け加えます。
文字、鏡、時計、映像は、記憶喚起装置だとも思います。文字や鏡や時計や映像を見ていると、記憶が押し寄せてくることがあります。
思い込みの激しい私なんか、デジャビュ(既視感)の洪水に襲われて気が遠くなることさえ珍しくはありません。そんなときには、既視感誘発装置だとつくづく思います。
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時計を例に取ると、文字盤の長針と短針の形が顔とか表情に見えることがあるのです。
三時なら三時の顔と表情があって、その顔と表情を見ていると、同じ時計、または別の場所の別の時計の三時の顔と表情が思いだされます。
ほら、同じ三時でも夜中に目が覚めて、傍らの目覚ましの顔を見てがっかりするときがあるじゃありませんか?
「あーあ、こんな時間にまたトイレかよ」なんて。
そんな瞬間に、子どもの頃に三時が来たときの記憶が不意によみがえって、にこっとすることもあります。
じっと時計の顔を見つめていると、これまでのいろんな場所でのいろんな三時がやって来るのです。
いい思い出も悪い思い出も、悲しい三時も嬉しい三時も、ぜんぶ三時なのです。
*
時計の文字盤を英語では face と言うのを思いだしました。針は hand と言います。
いま私は壁の時計を見て、一人でにやにやしています。
時の妖精(鎌を持った時の神ではなくて)が、時計の顔を舞台にして手旗信号を振っているように見えてきて、なんだかほっこりした気分になりました。
この記事のヘッダーみたいな感じです。
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