個人の自律と共同体による扶助ーDaseinsvorsorgeとLeistungsstaat、ドイツ基本法とGewährleistungsstaatー
法が、共同体を語るにあたっては、注意が必要である。共同体による相互扶助という論理には、国家が、それにどのように関与するかという視点が抜けがちではあるまいか。たとい市民社会の互恵の論理を法解釈に組み込むとしても、それを認定し強制するのは国家である。さらに給付を行うとなれば、国家が個人の源泉を把握することさえ必要となり、国家と社会のバランスが国家優位に解消される危険性もある。
やはり、共同体による扶助や連帯を実定化する審級は、さしあたりは国家なのではあるまいか。確かにそれ以外の社会による相互扶助がありえないわけではない。しかし、扶助のリソースを完全に持ちうるのは、国家権力でしかないように思える。
ここでは、国家が共同体となった場合の議論を念頭に置いて考えてみたい。その際、相当に慎重にならなければ、むしろ自由を圧殺しかねない。
ここで我々は、ナチス期のフォルストホーフの実存保障と給付国家の文脈を想起しなければならない。ここでは、国家は個人の生活に介入し、その実存ーヤスパースやハイデガー的ーにまでその配慮対象とする。そこに国家共同体として極限まで拡大された国家像があることは、論を俟たない。
ドイツは戦後、人間の尊厳条項をもとにかかる給付国家を無害化した。LeistungではなくGewährしか与えない保障国家が生まれたのだ。あくまで個人の自由を前提としつつ、社会国家原理は解釈される。個人の尊厳と共同体ーひいては国家ーのモメントをどうバランスを取るか、考えなければならない。
その点で民法における私的自治は、ひとまずは完全なる意思能力を持つ主体を個人として想定した上で完全に維持されなければならない。意思能力の欠如、ないし不十分な行為者に対する共同体による扶助というとき、それでも個人の尊厳が第一であって、そこに共同性を読み込むのは最低限度に留めなければならない。いかに意思能力は不十分であっても、親切心からであっても、介入は最低限に留めなくてはならない。
そして国家ではなく社会によるものであっても。社会も立派な権力である。個人のアトム化を招来したかもしれないが、それでも個人の自律という理念は共同性に優位する。
私は、法の共同性を否定するつもりはない。人間の尊厳を実体化するのは共同体であって、個人はその共同体に埋め込まれてこそ存立する。しかし、バランスを間違えると国家領域の全体化や社会による個人の圧殺を招くという危惧を持つのだ。
