OBSERVER(オブザーバー)|第1話 幸福な死
あらすじ
高度に管理された未来都市。そこでは、人々の幸福度や死亡確率までもがシステムによって予測され、不幸は事前に排除されていた。監査官・久瀬透のもとに届いたのは、生存確率99.98%だった親友・宮坂直人の不可解な死亡記録。事故として処理されたその死には、都市モデルでは説明できない「予測外」の異常が残されていた。相棒の相馬七海と調査を進める中、久瀬は消去される記録、書き換わる現実、そして都市が未来そのものを管理している可能性へ辿り着く。やがて自身が現実を確定させる「観測者」の候補であることを知った久瀬は、完璧に管理された世界か、不確定で不完全な人間の未来か、究極の選択を迫られる。観測と現実、人間とシステムの境界を描く存在論SFミステリー。
PROLOGUE
観測ログ No.0
対象:都市運用モデル
状態:安定
例外発生率:0.0003%
観測者:未確定
——観測開始。
LOG 01 幸福な死
三年前。大学の観測研究棟から転落死。
事故として処理された。だが、久瀬透だけはそう思っていなかった。
被害者──宮坂直人。
その事実を確認してから、久瀬透は端末を閉じた。
画面に映った久瀬の姿は、短く整えた黒髪も、切れ長の灰色の瞳も、監査官らしい無機質な印象しか与えなかった。
脳裏に、古い記憶。
『レポートまた忘れたのか』
『悪い』
『お前絶対社会人向いてない』
呆れたように笑う宮坂。
削除済みデータの周辺にだけ、宮坂の痕跡が残っている。
監査官として見れば、それはただの欠損データだった。
だが久瀬にとって、それは違った。
三年前、助けられなかった親友が、まだどこかで消され続けているように見えた。
久瀬は無意識に、胸元の監査官バッジに触れていた。効率と規律を叩き込まれた脳が「無駄な検索をやめろ」と警告を発している。それでも、指が止まらなかった。
「知り合いですか?」
隣から、監査局の冷たい空気には不釣り合いな、少し高い声がした。2つ年下の相棒、相馬七海だ。
「大学時代の親友」
七海は首を傾げた。琥珀色の瞳が、端末の光を反射して小さく揺れる。
「宮坂さん? 監査局のデータにはない名前ですね」
七海は消えた宮坂の名前を、もう一度検索した。
存在しないと表示された後も、すぐには端末を閉じなかった。
存在しない。システムがそう言うなら、それは現実ではない。
なのに、久瀬の指先にはまだ、宮坂が投げつけてきたパンの、あの不格好な温もりの記憶が、消えないバグのように残り続けていた。
監査局の朝だった。
壁面には都市運用モデル。
人流予測。
犯罪発生率。
事故発生率。
すべてリアルタイムで更新され続けている。
異常はない。
その時。警告音。
壁面表示が、一瞬で赤く染まる。
【案件発生】
会議室の空気が変わる。
全員の視線が一斉に前方へと突き刺さる。
上席監査官が表示を開いた。
【死亡案件】
性別:男性
年齢:二十九歳
職業:会社員
原因:転落死
【死亡予測率:0.001%】
「予測外です」
誰かが言った。
会議室が静かになる。
異常に低い。あり得ない。
都市モデルの誤差範囲を超えている。
「現場確認班」
上席が言った。
「久瀬、相馬」
「了解」
七海が立ち上がる。
肩にかかるほどの、赤みを帯びたブラウンの髪が揺れる。
久瀬も後に続いた。
監査局の漆黒のスーツを着ていれば、街に紛れてしまうほど特徴はない。
ただ、その無表情だけが、人を近寄らせない空気をまとっていた。
窓の外。都市は今日も正常だった。
信号は必ず青になるタイミングで切り替わり、人々は誰ともぶつからず、事故は起きる前に避けられていた。
誰もそれを疑っていない。
だから、予測外死亡が気持ち悪い。
エレベーターに乗り込む。
七海が端末を見ながら言った。
「死亡者、幸福度高いですね」
「高い」
幸福度:92
ストレス指数:8
対人関係:良好
完璧な数字だ。死ぬ理由などどこにもない。
久瀬は、数字の奥にあるはずの「その人の表情」を思い出そうとした。
昔は、そんな無駄な癖があった気がする。
けれど、監査局の漆黒のスーツに身を包んだ今の自分には、もうノイズにしか感じられなかった。
だから、七海が発した言葉に、一瞬だけ思考が弾かれた。
「でも、幸福って数字にできるんですかね」
七海は端末を見つめたまま、小さく唇を尖らせていた。
監査局の人間なら誰も使わない、非効率で、曖昧な言葉。
「できるから使われている」
久瀬は答える。
「死ぬ理由がない」
七海はそう呟いて、ふう、と小さくため息を吐いた。その吐息が、エレベーターの鏡面ガラスをわずかに曇らせる。
数字ではない、生きた人間が隣にいる。久瀬はなぜか、七海から目を逸らせなかった。
その瞬間、背後から視線を感じた。
久瀬は振り返る。
誰もいない。
誰かが見ていた。そんな気がした。エレベーターには七海しかいない。
「どうしました?」
七海が首を傾げる。不思議そうにこちらを見上げた。
「……何でもない」
監査官は事実を扱う。推測はノイズになる。
現場は高層マンションだった。
規制線。警察。救急。
いつもの光景。
警察官が言う。
「遺書がありました」
短い文章。
《私は幸福でした》
あまりにも短い。
「幸福だった人間が、わざわざ書きます?」
七海が言う。
風が吹いた。
その時、久瀬は気づく。群衆の向こう。
こちらを見ている男。
顔を見ても印象が残らない。ただ、視線だけが離れない。
「また会ったね」
黒いコートの男は、小さく笑った。
「次は間に合う?」
久瀬が瞬きをした時には、彼はもういなかった。
「久瀬さん?」
七海の声。
久瀬は視線を戻す。遺書の下に、新しい行が割り込む。
《この記録は存在しません》
瞬きをする間に、ログごと消えた。
七海が亡くなった人に黙って手を合わせる。
服の袖が少しだけほつれている。
久瀬は黙る。
そんなことをしても“意味がない”と思った。
監査局へ戻る車内。窓の外、人々は歩いている。
平和だった。幸福だった。
そして、どこか不自然だった。
その日の夜。監査ログを確認していた久瀬は手を止めた。
削除済み領域に、一件だけ復元できないデータが残っている。
送信者:宮坂直人
本文:───お前は
そこで途切れていた。久瀬は画面を見つめた。
宮坂直人。
存在しないはずの人間から、存在しないはずの記録が届いている。
それでも、久瀬には分かっていた。
これはエラーではない。
誰かが、残したものだ。
【観測ログ No.01】
観測対象:久瀬透
観測開始
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