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OBSERVER(オブザーバー)|第8話 観測誤差

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 LOG 07 違和感

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LOG 08 観測誤差


午前三時。眠れなかった。
夢の内容は鮮明だった。

白い部屋。
宮坂直人。
黒いコートの男。
《観測者》
知らないはずの言葉なのに、脳の皺に妙に馴染んでいた。

久瀬は端末を開く。
検索。観測者。該当なし。
存在しない言葉。
だが、夢の中の自分は、それを当たり前のように呼んでいた。
消えない違和感が、胃の奥を冷たく震わせる。

朝、監査局。七海は遅刻してきた。珍しい。
いつもは丁寧に整えられている前髪が少し乱れ、肌からはいつもの快活さが消えてひどく冷え切っているように見えた。
「寝不足?」
久瀬が聞く。
七海は不機嫌そうに、しかしどこか怯えたように椅子へ座った。
「悪い夢を見ました」
「どんな」
「知らない男に怒られました。お前はそこにいるなって。……すごく冷たい、機械みたいな声で」
心臓が跳ねる。
「黒いコートだった?」
七海がげっそりとした顔を上げる。その琥珀色の瞳が細かく揺れていた。「……なんで知ってるんですか」
久瀬は答えなかった。答えられなかった。
世界が宮坂の記録だけでなく、自分のすぐ隣にいる七海の精神まで侵食し始めている事実に、指先が凍りつくような恐怖を覚えた。

会議室。山城が前に立つ。
表情は変わらない。しかし、空気が違った。
張り詰めた、明確な緊張。

空間投影。
【案件一覧】
No.1152
No.1153
No.1154
No.1155

四件。
七海が隣で小さく呟く。
「増えるペース上がってますね」
誰も答えない。山城が説明する。
「全員に共通点がある」

画面切替。
職業。年齢。性別。居住区。全部違う。
しかし、最後の項目だけ同じだった。
【未来予測誤差率】
全員が異常値だった。

久瀬は目を細めた。
未来予測誤差率。都市が最も嫌う数値。
予測できない人間。統計から外れた人間。
山城が言う。
「今後はこの数値を最優先で調査する」

なぜ、死亡原因より先に誤差率を調べる?
まるで、彼らが「なぜ死ぬか」を最初から知っているみたいだった。

会議後、廊下を歩きながら七海が呟く。
「監査局は、本当に事件を調べているのでしょうか」
久瀬は答えなかった。
なぜなら、同じ冷え切った疑念を、自分も抱えていたから。

午後、久瀬は自席で、独自に調査を始めた。
宮坂の残した、古い端末のデータ領域。
ほとんどが文字化けしている。
しかし、数行だけ、くだらない文字列が復元された。

『今日の昼飯、カレーな』
『また判例かよ』

胸の奥が、不自然に熱くなる。宮坂は確かに生きていた。
あの騒がしい学食の音、投げつけられた購買のパンの、少し安っぽい甘い匂いと確かな温もりが、記憶の奥から鮮明に蘇る。

モニターが一瞬だけ暗転する。
《誤差は排除される》
久瀬は何も操作していない。
ログの残らない文字列が、システム自身の意志のように現れ、すぐに消えた。脳裏に残るパンの温もりを、冷徹なデジタルテキストが上書きして消し去ろうとする。その世界の拒絶に、久瀬は激しい眩暈を覚えた。

帰り道。監査局前の花壇。
七海が、土に半分埋まった小さな名札をそっと指で払いながら言う。
「この花、毎週違うんです。システムが最適化のために植え替えてるみたいなんですけど……誰も見てないのに、変ですよね」
「気づかなかった」
久瀬が興味のなさそうな声で言う。
「でしょうね」
七海はふっと寂しそうに笑った。
その小さな、無駄なものに目を向ける七海の温度が、システムに追い詰められた久瀬の心を、わずかに人間側に引き戻す。

その夜。久瀬は御影の研究室を訪れた。
事前連絡はしなかった。それでも、御影は驚かなかった。
「来ると思っていた」
そう言って、御影は古いパイプ椅子を勧める。
研究室は薄暗い。
本。資料。複雑な数式。
そして、壁一面の予測モデル。
異常な量だった。

久瀬は切り出す。
「予測誤差率について知っていますか」
御影の目が細くなる。
「誰に聞いた」
「監査局です」
御影は黙った。
カタ、と微かな音が響く。御影が持ったコーヒーカップが、彼の老いた手の中で隠しきれずにガタガタと震えていた。かつての教え子たちの死の重さに、その背中がひどく小さく見える。

やがて、小さくため息をつく。
「久瀬君」
声が低い。
「君は今、見えてはいけないものを見始めている」
久瀬は言う。
「人が死んでいます」
「知っている」
「理由も?」
御影は窓の外を見る。
夕暮れ。街が血のように赤く染まっている。
「予測不能な人間が死ぬ。なぜです?」
御影は答えない。代わりに、別の質問をした。
「君は監査官だ」
「はい」
御影は静かに久瀬を見つめた。
振り向くその目は、底知れない疲弊と後悔に満ちていた。
「なら教えてくれ。なぜ監査官の判断ひとつで、都市の犯罪予測が変動すると思う?監査局はね、最初から事件を監査していない」
久瀬は言葉を失う。
それは───久瀬自身がずっと感じていた、数式にならない違和感。

言い切った瞬間だった。御影の表情が激しい苦痛に歪む。御影は自身の頭を両手で強く押さえている。
「が、あ……っ」
研究室の照明が微かに明滅し、バチバチと耳障りなノイズが鳴る。言葉そのものを、世界が物理的に弾き出そうとしている。
久瀬は駆け寄る。
「教授」
御影は額に脂汗を浮かべ、歯を食いしばる。
「まだだ」
苦しそうに息を吸う。
「まだ早い」
その言葉に、聞き覚えがあった。
御影の視線が久瀬を捉える。
恐怖、焦り、後悔。
いろんな人間の感情が混ざっていた。

夜。人通りは少ない。
久瀬は一人で歩く。頭の中が、御影の言葉の破片で整理できない。
「考えすぎ」
突然、隣から声。久瀬は足を止める。
黒いコートの彼が、並んで歩いていた。
久瀬は驚かなかった。そのことが、何より恐ろしかった。
久瀬は彼を強く睨みつけ、問い詰める。
「お前は、何を知っている」
彼は何も答えなかった。
ただ、久瀬が歩きながら持っていた缶コーヒーを当然のように奪う。
それから、冷たいコーヒーを一口、無言で喉に流し込む。
説明のないその行動が、意味深なセリフよりも深く、久瀬の心臓を抉った。街灯の光が揺れる。
その光景が、忘れていた本物の記憶を、激しく引き寄せた。


大学二年の昼休み。学食は混んでいた。
久瀬は一人で端の席に座っていた。
法律の判例集を開く。昼食はまだだった。
「また飯食ってねぇのか」
向かいへ誰かが座る。宮坂直人だった。
勝手にトレーを置く。
「……宮坂」
「お前さ」
宮坂は苦笑する。
「判例は逃げないぞ」
久瀬はページをめくったまま答える。
「昼休みは四十五分しかない」
「だから?」
「先に読んだ方が効率がいい」
宮坂は少し長めの黒髪を無造作にかき上げながら笑った。
背丈は久瀬より少し高く、整った顔立ちなのに、どこか隙があって人を安心させる男だった。

「効率、効率って」
パンを一つ久瀬へ投げる。
久瀬は反射的に受け取る。
「食え」
「いらない」
「嘘つけ」
宮坂は笑う。
「腹鳴ってたぞ」
図星だった。宮坂はコーヒーを飲みながら窓の外を見る。
「お前、将来倒れるぞ」
「倒れない」
「じゃあ俺が面倒見る」
宮坂が笑う。
少しだけコーヒーを飲む。窓の外を見る。
「……親友だからな」


意識が現在へ戻る。
久瀬は小さく息を吐く。
宮坂は、昔から変わらなかった。いつも、自分自身より先に誰かを心配していた。

視界に表示。
今まで見たことのない項目。

【───適合率:25%】
対象:久瀬透

久瀬は立ち止まる。
隣の彼は、それを見て、ただ静かに微笑んだ。
「ほら。始まった」

その頃、研究室。
御影は一人、机に手をついていた。
深く息を吐く。震える手で机の端末を叩く。
認証。暗号通信。
「……久瀬が来ました」

沈黙。

御影は目を閉じ、小さく呟く。
「予定より早いです。もう、止められないかもしれません」
通信終了。
暗い画面に映る御影の、怯えた人間の表情だけが、静かに揺れていた。


【観測ログ No.08】
観測誤差:増大
───適合率:25%


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