つらいときの乗り越え方
昨日は久しぶりに京都までお出かけしてまいりました。いつもの、お世話になっている先生のクリニックからの帰り、少しつかれてはいたのですが、昨夜はどうしても教会に寄りたくって。いつものカトリック河原町教会さまにお伺いしてまいりました。
わたくしがお御堂(みどう)(=ご聖堂のこと)に着きました頃、もう京の街はすっかり暗くなっておりましたこともあってか、中にはどなたもいらっしゃいませんでした。いつもならどこかのお席に座らさせていただいて、お祈りを捧げさせていただくのですが、昨夜はドアを開けてまっすぐそのままご祭壇のほうへ向かわせていただき。わたくしはご祭壇上にいらっしゃるイエスさまの十字架の前に立ちました。
先に、先生のクリニックで泣いてしまっていたからでしょうか、(先生が、先日急逝した大好きな伯母のことで、とても心に響くよい言葉をかけてくださいましたこともあり、思わず泣いてしまったのです)、ご祭壇の前に立たせていただいても、(いつもならすぐに泣いてしまうのですが)涙は不思議と出てはきませんでした。でも、ひとしきり、思いのたけをいろいろと述べさせていただきました。どうか、どうか、お助けください、と。
わたくしにとりまして、信仰は無くてはならないもの、です。それこそ子ども時代からそれなりに「信仰」があったとしましたなら、まさにその頃から、紆余曲折を経ながらも自分なりに積み上げてまいったものが、わたくしの中にはございます。しかし、最近のわたくしはあまりにも激動の一か月を過ごし、また、今もまた決して心から笑える状況ではないこともあり、改めて、神さま、イエスさま、聖母マリアさまに、わたくしは本当にどうしたらよろしいのでしょう? どうしたらこの苦境を乗り越えてゆけるのでしょう? そうひたすら問いかけておりました。
もっとも、そんなふうにいたしておりましても、例えば何かの映画のシーンのように、神の声が響くわけでもございません。お御堂にはわたくしひとり。延々と神さまへの問いかけ……というか、訴えは続きます。少し時間が経ったところで、わたくしは本来ならもっと神さま、イエスさま、聖母マリアさまを賛美し、普段お守りくださっていること、そして、つい最近も素晴らしい「奇跡」を経験させていただきましたことーーそうしたことへの感謝を申し上げなければならなかった、そうはたと気づきました。そう、敬愛なるジョエル師(ジョエル・オスティーン牧師さま)はいつも、神に希(こいねが)い求めるばかりではなく、まず神を賛美しなさい、とおっしゃいます。そうしたことを昨夜はまたすっかり忘れてしまっておりました。そうだ、こんなにも自分は恵まれているではないか! そこで祈りは、懇願や問いかけ(詰問?)から賛美や感謝へと変わりましたが、それでもひととおりお祈りを捧げさせていただいた後、最後に一礼し、お御堂のドアを開け、再び門のところで深く一礼し、地下鉄の駅へと向かうわたくしの足はやはり重いままだったのでした。
神のご計画はわたくし達が思い描くそれらとは違う、神には神のタイムスケジュールがある、神は困難の二倍、御恵みをお与えくださる、神は目には見えないところでわたくし達のために懸命に働いていてくださる、天は既にこの世に勝っておられる、神の善は全ての希望……、などなど、そうした、これまで沢山沢山何度も何度も学ばせていただいてまいりました数々の尊い御教えも、そして、つい最近の「グアダルーペの聖母マリアさまの奇跡」も、本当に本当に心から、ありがたいものでございますが、それでも、このひと月、あまりにいろんなことがありすぎて、そして、今も決して心から笑える状態ではなく、寧(むし)ろ不安や恐怖に苛(さいな)まれ、罪悪感をひたすら感じ、ただ神の道を必死で求めるよりほかないわたくしにとりまして、今、こうした状況をどう乗り越えていったらよろしいのですか? 希望を捨てずに強く在れとおっしゃることは、痛いほど身にしみてよーくよーくわかっております。しかし、神さま、わたくしにお与えになっていらっしゃる十字架は本当に重く、わたくしなどにはもう到底これ以上負って歩くことも難しいと思えるときもしばしばです、今日も愛に基づいた行いであったはずなのに、なぜか怒られ、責められ、どうしてわたくしはいつまでもこうしたカルマを背負わねばならぬのでしょうか……? 神さま、わたくしは一体いつまでこのような状況下に在らねばならぬのでしょうか? わたくしはそれほどまでに至らぬ者でございましょうか……?
そんな思いで昨夜は遅く帰宅したのですが、今朝になってわかりましたのは、結局何があっても心を強く持ち、信仰をしっかりと礎として、守り石として、一歩一歩歩いてゆくしかない、歩き続けてゆくしかない、何も出来なくても、次の一歩、歩を進めることなら出来る、そんな答えでございました。
わたくしは霊的に見ても、そして心も身体も非常に弱い人間です。芯だけは強いかもしれませんが、でも、すごく泣き虫だし、感情も豊かすぎるためか、しょっちゅうほんの些細なことで心が揺れ動いてしまいます。勿論、歳を重ねるごとに、苦難が積み上がれば積み上がるほど、鍛えてもいただいてまいりました。しかし、もういい加減、この永遠にカラカラ回り続ける、輪っか(=ハムスターちゃんがケージの中でよく走っているアレ)から降りてもいいと思うのです。っていうか、わたくしが走っているその輪っかは誠に不毛過ぎる、甚だしく低次元のものでございます。ただただわたくしのエネルギーを不当に奪うばかりなのです。そんな中でも必死で頑張ってきているのに、どうしてこのカルマだけはいつまでも断ち切ることが出来ないのか? そんなことを考えると、本当にもう気が遠くなったりもするのでした。
しかし、先日初めてきちんと知ることとなった「グアダルーペの聖母マリアさま」の素晴らしい奇跡の数々などを思い起こしますとき、そして、ここまで実際に歩んでまいりましたこの人生で、沢山の素晴らしく尊いものも数えきれないほどいただいてまいったことを思えば(そう、そうした面も確かにあるのです!)、神さまに恨み言を申し上げている場合ではないな、と。確かに今はまた本当に力ないけれど、昔から、わたくしのモットーは泣きながらでも前に進む、でしたから、どんなに小さな一歩でも、ひたすら歩み続けてゆかなければ。結局そこにしか答えはないのでした。
これからの人生、本当に今度こそ全てを神にお委ねして、ひたすらあとはご奉仕に専念しよう。さすれば、きっと、神さまが全てをよくしてくださる。これまでだって、神は必要なものは全てお与えくださり、こんなにも弱いわたくしをここまで導いてきてくださった。ここまで歩ませていただいた、その道のりを信じよう。神が終わりとおっしゃるまでは、決して終わりなどではない。十字架でおくるしみになられたイエスさまのことを思えば、わたくしのくるしみなど、なんてことはないではないか?
救い主としてのイエスさまを信じるのなら、そして、全宇宙の最も高き所にいらっしゃる全能の神を信じるのなら、何を恐れることなどありましょうか? 不安に思うというのは、神を信じていないことと同義。不安に思うならば、これからもひたすら祈ればよいのです。そうすれば、きっと道は必ず自然と出来上がってゆくはずです。
今のわたくしが在るのも、そして、今のわたくしを取り巻く全ても、本当に全てが神の御恵み。神を信じ、神に付き従い、神が指し示される道をどこまでもゆきましょう。というか、とっくの昔からそうやってしか生きられない身なのですから。
今のわたくしはもっともっと信仰を深く強くするしかないようです。さぁ、この記事を書き終わったなら、また今宵もロザリオのノベナの祈りをお捧げいたしましょう。結局わたくしはそうやってしか生きてゆけない身なのです。
これからの一歩一歩の歩みを祈りに変えてまいりましょう。神は決してお見捨てにはならない。今一度この言葉を心の奥深くまでしっかりと沈めたいと切に願います。アレルヤ! アーメン。
