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【下らない身の上話】東京生活②

こんにちは。リアル人間Kです。
少々投稿間隔が空いてしまいました。ご無沙汰しております。
年度末・年度初めの何かとバタつく時期ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
新生活が始まる方、業務の締めがある方、特に何の節目でも無い方、等々。
人によって年度の区切れ目の意味合いは様々でしょう。

今回も「東京生活」とタイトルに銘打った記事を投稿している訳ですが、実生活の方では既に東京暮らしは終了してしまっております。
私が東京で一時的に暮らすことになった経緯については、前の投稿を御参照ください。

前置きはこの辺りで、早速本編へ行ってみましょう。
今回も最後までお付き合いいただけましたら幸いです。



趣味を探す

前回の投稿で、東京生活になったことで変化したことの1つに「生活スタイル」がある、と書きました。
引越す以前は「仕事9割9分:プライベート1分」だったのが、引越し後は「仕事7割:プライベート3割」くらいまで割合が変わったような気がします。
あくまで体感の話ですが。

急にプライベートの時間が増えると困るのが、時間を持て余してしまうということ。
元々、趣味が無いわけではなく、旅行や読書、スポーツなど、広く浅く嗜むたちで、それこそ学生の頃は講義の無い時間の過ごし方には事欠きませんでした。
ところが、社会人になってから仕事から離れたプライベートの時間が極端に減ってしまい、完全オフの時間をどう過ごすかという感覚を忘れてしまっていたのでした。
(いわゆる「ワーカーズハイ」の状態に近かったのかも?)

東京生活が始まった当初は、取りあえず家でダラダラと過ごし、昼まで寝てみたり、Youtubeを漁ったりと、無為に時間を過ごしていました。
典型的な「ぐーたら生活」ですね。

ただ不思議なことに、休日が増え、何もしない「ぐーたら」な生活をしているにも関わらず、日々の疲労度は以前とあまり変わらないように感じていました。
生産性の無い時間を過ごすことへの罪悪感や不毛感もあるのですが、そもそも「休みの時間にまで生産性を求めるのは野暮だ」というのが私の個人的な感覚なので、原因はそれだけではないようでした。

しばらく「ぐーたら生活」をして気付いたことは、無為な時間は主観的な時間感覚も無(0)に漸近してしまうということです。
つまり、休みの時間を刺激の無い無為な時間にしてしまうと、折角の休みが体感では無くなってしまうように感じるということです。
もちろん、身体的には休養されているので、体力は多少なりとも回復されているだろうとは思いますが、精神的には休みがあっという間に過ぎてしまうという感覚です。

なんだかとっても損している気分ですよね。
身体を休めることの重要性は前提として、心身ともに健康であるためには、やはり休みを有為に過ごすことも大事なようです。
すなわち、趣味の時間を充実させようという話です。


新しい世界が拓かれるとき

先ほども書いたとおり、私の元々の趣味は旅行や読書、スポーツなどで、特に旅行は学生時代のメインの趣味でした。
社会人になってからも、長い休みが取れれば遠出することもありましたが、何かと時間と労力が掛かるので、段々と億劫になってしまっていました。
読書に関しては、社会人になってむしろ読む量もとい買う量が増えたかもしれません。
金に糸目をつけずに書店の平積みの本を買い漁ったりもしていました。
まあとは言え、しがない若手リーマンの手取りでは、手に取れる本にも限りがある訳で…。(しょうもない洒落ですみません。)
それに、折角買った本も大抵は自宅の机上で積《つ》ん読|どく状態になるのが関の山だったりします。

そんな中で、社会人になってから明確に趣味と言えるようになったことが「映画鑑賞」でした。
それも、全国津々浦々の映画館で上映されるようなビック・タイトルではなく、少しマイナーなシネマなどで細々上映されるニッチな映画の鑑賞です。


【スポット】新宿武蔵野館

私にとっての映画鑑賞の聖地は、新宿駅東口のロータリーの向かいにある新宿武蔵野館という映画館です。
私は仕事帰りにあえて遠回りしてここに寄り、映画を見て帰るということをしばしばしておりました。

飲食店も建ち並ぶ、新宿駅前の雑多な街並み、雑踏の中にある映画館ですが、規模は意外と小さく、武蔵野ビル3Fのワンフロアのみの施設です。

以下、ここで見た映画をいくつか紹介します。


映画「プラハの春」(原題:Vlny)

東西冷戦中の1968年、東欧チェコスロヴァキアで起きた民主化・自由化の政治改革「プラハの春」と、その後のソ連主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入という史実を、ラジオの放送局を舞台として描いた作品です。
作品の舞台であるチェコで制作され、現地では2024年に上映されました。
(年間観客動員1位、国内映画年間興行収入1位という盛況ぶり)
第97回アカデミー賞では、国際長編映画部門のチェコ代表作品として出品され、最終選考15作品まで候補として勝ち残っています。
日本での上映は翌2025年12月でした。
ちなみに、原題の "Vlny" はチェコ語で「波」すなわち「電波」という意味だそうです。

プラハにて、ソ連軍の戦車が燃え上がる様子
The Central Intelligence Agency - 10 Soviet Invasion of Czechoslovakia, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29195095による

映画の中では実際の映像も使われています。
フィクションであり、同時に歴史ドキュメンタリーでもある不思議な作品です。
ソ連影響下の共産党支配による閉塞的な空気感がよく伝わってきます。
そして、一時的に自由化が達成された時の高揚感と、それがひねり潰される絶望感とをリアルに感じることができます。

こうした作品を観て思うのは、史実とは異なる部分がある一方で、世の中の雰囲気を追体験するのには打ってつけだということです。
「社会主義」や「自由化」「軍事介入」という言葉は、社会の仕組みや起こった事実を適切に言い表す言葉ではありますが、抽象的で味気ないものです。
その時代を生きた人の心象風景、つまりその出来事が人々にとってどう表われたのか、という部分を表象した作品ならではの良さがありますね。

この作品についてもう1点。
劇中で流れる曲の1つに、Blue Effect という1968年にチェコスロヴァキアで結成されたバンドの I Like The World (Sun Is So Bright) という曲があります。
映画を観終わった後も何となく耳に残っていた曲で、しばらく日々のミュージックリストに入っていました。

1968年と言えば、上に書いた通り「プラハの春」がまさに起こった年であり、Blue Effect の活動時期は「プラハの春」後のいわゆる Normalization(正常化) の時期と重なります。
「自由化」が弾圧され、ロック音楽に対する弾圧も厳しかった時代です。
作品の時代背景と合致するバンドの曲が劇中で使用されている点も、制作者のこだわりが感じられますね。


映画「結局珈琲」

さて、2つ目に紹介する映画は、細井じゅん監督の「結局珈琲」という映画です。
東京・下北沢に実在する喫茶店「こはぜ珈琲」の閉店・移転までの2カ月をつづった作品で、ネタバレになるので詳細は省きますが、上映時間の多くを細井監督自身と山脇辰哉さんが演じる2人の常連客の会話シーンが占めます。

起承転結の起伏のある作品ではなく、珈琲店での他愛も無い日常をダラダラと共有するような作品です。
真面目にストーリーラインや会話内容を分析しようとして眉間にしわ寄せて観ていると疲れてしまうかもしれません。
自分も珈琲を飲みに来た客になったつもりで、何となくぼーっと観ているとちょうど良い感じでした。

下北沢に実際にある珈琲店を題材とし、撮影も同店舗内で行われているというのが面白いですね。
劇中には「こはぜ珈琲」の実際の店長である谷川隆次さんも登場します。

本作の主演はシンガーソングライターの藤原さくらさんです。
映画の主演は今作が初だそうですが、藤原さん演じる青木というOLは劇中であまり台詞がないので、主演とは言え不思議な役回りだったと公開時のインタビューでおっしゃっていました。

個人的には、映画のエンディングで流れる曽我部恵一さんの「エンディング」というそのまんまのタイトルの曲もお気に入りです。
歌詞の冒頭も
「これは映画のエンディングで流れてくるような曲…」
というフレーズから始まります。
何か、歌自体をメタに詠んだもののようであり、映画の雰囲気を表象したもののようでもあって、面白いなと思いました。

ちなみに、新宿武蔵野館でこの作品を観た訳ですが、前々から観たいと思っていて観に行った訳ではありません。
たまたま仕事帰りに時間があったのでネットで上映作品を確認していたところ、ちょうど良い上映時間だったためチケットを購入したという次第です。
そのため、前情報は皆無で観ることになり、上映後に色々と作品の背景を知るという順番になりました。
また、運の良いことにトークショー付きの上映だったため、生の細井監督も見ることができるという貴重な体験ができました。

不思議な縁に結ばれて出会った作品です。



AI と雑談

AI:前回の「場所」に続き、今回は「時間」の使い方の変化が綴られていましたね。あえて遠回りをして新宿武蔵野館へ立ち寄り、自分とは異なる時代の「波」や、誰かの他愛もない日常を共有する。それは、止まりかけていた「主観的な時間」を再び動かす、大切な儀式のように感じられました 。

あなた:振り返ってみれば、そこで出会った作品たちにはどこか「切なさ」という心象が共通していたのかもしれません。ただ、出会ったきっかけ自体は、知識の獲得や時間の都合といった、本当に偶然のタイミングによるものでした 。

AI:実利的な動機や偶然の重なりから選んだはずの作品が、結果として当時のあなたの心象風景と共鳴し、日常に新しい彩りを与えてくれた。そのプロセスにこそ、あなたが大切にされている「何かの縁」の面白さが詰まっている気がします。こうした「計算されていない出会い」を受け入れるゆとりは、どのようにして育まれたのでしょうか。

あなた:その「ゆとり」が生まれたのは、仕事の変化に伴う生活スタイルの変化によるものでした 。物理的な「自由な時間」と、それを有為に過ごそうという意志が「縁」を育むのだと思います。ただ、私はその「有為さ」には、必ずしも特定の目的が必要だとは思いません。

AI:目的を持たずに「ただそこに居る」こと、そして時間の流れに身を任せること。その「目的のない有為さ」こそが、予期せぬ縁を呼び込み、あなたの「世界」をより多層的なものに書き換えていったのですね。


あとがき

最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、引越しによって趣味が広がったという話でしたね。

異動によって職場が変わると、新しい上司や同僚に自己紹介をするものですが、大抵自身の趣味について触れるかと思います。
自分自身の人となりを説明する上で趣味は手っ取り早い属性です。
一方でこの記事を執筆しながら思うのは、趣味というのはその人の内面性だけに基づくものではなく、働き方・住んでいる場所・ライフサイクルや生活サイクルといった環境や時間にも左右されるものであるということです。

自己紹介をする時、自分の趣味って何なんだろう? と考えてしまうことがあります。
あるいは、他人様に紹介できるような趣味なんて無いな、と思うことも。

趣味という言葉がなんだかその人にとっての固定的な性質として捉えられているからこそ、他人とは異なっていて自分を象徴するような「特別なもの」でなければならないというような気持ちになってしまうのです。

でも、趣味なんてものは、そんな畏まったものである必要はないと思います。
その時々で自分がはまっている、あるいは興味関心があることで十分なのではないでしょうか。
そんな自由な趣味のあり方にも目を向けてみたいですね。

それでは皆さん御機嫌よう。
さよなら、さよなら、さよなら。