見出し画像

Win〜彗星は南から 第19話 人生のすべて

第19話 人生のすべて

 病室に現れた万次郎の姿に、広美は目を見開いて固まることしかできなかった。
 万次郎は、優しく微笑みながら近寄り、へたりこんでいる広美の手を取ると、ゆっくりと立たせてやる。
 そのまま広美の頭を撫でた。

「……大きゅうなった、大人になったねゃあ」

「なんで……いまさら……」

 泣き笑いのような顔を作り、明美を向くと優しく微笑み返す。

「広美、すまんかった」
「お父ちゃん、自分の事しか考えれんかった」
「馬に乗れんなった事で、お父ちゃんの生き甲斐を全部奪われたと思うてしもうて」

 広美から明美へ、そしてベッドの仁美にそれぞれ視線を移した。

「ほんとうの、わしの生き甲斐は……」
「こんなに、目の前におったのに」
「確かに、おったのに」
「気づく事が出来んかった」
「ほんまに、すまん!」

 流れはじめた涙は、もう止まらない、広美がそのまま万次郎の胸に、顔を埋めて声をあげて泣き始める。
 万次郎はしっかりとその体を抱きしめて、優しく背中をさすってやった。

「……そんな言葉、ずっと、聞きたかった」
「子供の時の……優しいお父ちゃんに、戻って欲しかった」
「けんど、素直に言えんかった……」

 言葉を重ねる度に、感情があふれて来る。
 涙に混じり、途切れ途切れになりながらも、思いの丈を吐き出すように、広美の言葉は止まらなかった。

「甘えやと思いよった」
「車椅子になったがも、お母ちゃんのお葬式の時も」
「一番辛いがは……」
「悲しいがは……お父ちゃんやって解っちょったのに!」

 万次郎の目にも、光るものが現れる。
 自分に向けて、無邪気な笑顔を見せていた広美の姿が重なった。

「……ありがとう、広美」
「ほんで、せんでも良い苦労をかけてすまんかった」

 明美がそっと広美に寄り添い、椅子に座らせてやると、万次郎は仁美に向き直る。
 その頬に、そっと触れた。
 広美は、はっと我に返ると、あらためて明美の顔を見る。

「……先約って……まさか!」

 明美は無言で頷き、万次郎がまた広美の頭に手を置いた。

「そう言うことや」
「わしも、もうお前らに世話をかけるわけにはいかん」
「お前は信吾が……」
「仁美は騎手として」
「自分で未来を作っていける」
「わしらは、それを見守るだけや」

 広美は言葉を失ってしまう。
 長い時間、隔絶した父親に対するわだかまりが、綺麗に洗い流された。
 万次郎もまた、父親として自分に接してくれている。
 それは長年広美自身が渇望していた瞬間に他ならない。

「そんな顔をするな」
「お母さんも言うたろう?」
「ひとつの命が尽きたら、違う命の灯がともる」
「自分の子供の命に変わるがぞ」
「お父ちゃんには幸せなことや」

 広美は顔を伏せて黙って頷いた。
 明美は、慈愛のこもった笑顔を崩さず言う。

「……それにね、もうちょっと時間がかかるき」
「体はここにあるけど、仁美の心は」
「いま、ここにおらんき」

「……え?」

 不思議そうに明美に向き直ると、万次郎が口を開いた。

「大丈夫や、しばらく経ったら必ず戻んてくる」
「わしの相棒が連れてきてくれる」
「それまで、話でもしようか」

 きょとんとする広美の隣に座ると、万次郎が急に真顔になった。

「……本当に、信吾で良いがか?」

 突然の言葉に、広美は思わず吹き出してしまった。

「真面目な顔して、何を言いだすかと思うたら」

 万次郎もつられて顔をほころばせる。
 暗く、重苦しかった病室に、再び笑い声が響きわたった。

 武政厩舎の馬房では、ヘールボップの前に、信吾がひとり立っていた。
 言葉はない、ただ無言で一点を見つめたままだ。
 そこに、洋平と瀧越が現れる。

「ボップのジャパンカップは……中止や」
「明日……登録解除の手続きをする」

 重たい言葉が落ちた、瀧越は頭をかきながら言葉を出す事ができない。

「それだけやない、北林オーナーは、仁美ちゃん以外乗せる気はない、と」

 初めて信吾が洋平に振り向いた。

「それ、どう言うことですか?」

 瀧越が長いため息をついて、視線を上げる。

「ボップを、引退させるらしい」
「自分の牧場に連れて帰って、余生を過ごさせるがやと」
「正直、ポップは俺には荷が重い……」
「仁美ちゃんみたいに、あんなに気持ちよう走らせれる自信はないき」

「……そんな」

 信吾はその場に膝をつき、涙を流す。
 すると、ヘールボップが首を下げて、その顔を信吾に近づけた。
 洋平と瀧越も、その肩に手を添える。

「あと、俺らあに出来ることは、仁美ちゃんの無事を祈ることだけや」

「もう消灯やろう?朝の作業は俺らあがやるき」
「お前は、朝から広美ちゃんの所に行っちゃれ」

 信吾は黙って立ち上がり、袖で目を拭うと、三人で並んで厩舎をあとにした。
 やがて、照明が落とされて暗闇と静寂が訪れる。

(……ジャパンカップは中止)
(僕は引退……か)
(帰れるのか……牧場に)

 ヘールボップは窓の外の星空を、じっと眺めていた。

(母さん、元気かな?また会えるかな?)
(一緒に、暮らせるのかな?)
(……けど)

 青黒いサラブレッドの瞳から、一筋の涙が流れた。

(また走ってみたかったな)
(芝のコース)

 自身が勝利した、2歳の時のGⅠレースの瞬間が思い浮かぶ。

(勝ちたかったな)
(母さんから聞かされた)
(お父さんが勝ったダービーと同じ)
(府中の2400メートル)

 脳裏に浮かぶ、勝利の瞬間の大歓声。

(……走り、たかったな!)

 涙が止めどなく流れ続ける。
 その時だった。

「何を泣きゆうが?」
「たっすいがはいかんって、言うたろう?」

 聞き慣れた優しい声がする。
 仁美がヘールボップの馬房の中に立ち、その涙を拭ってやっていた。

「……仁美さん!無事だったの?」
「先生も、信吾さんも、凄く心配してたから」
「大丈夫だったんだね?」

 すると、仁美は首を振った。

「ごめんで、反対やき」
「お別れに来たが、もう、会えんなるがよ」
「遠い所に、行かんといかんなって」
「ありがとうね、ボップ」

 仁美の言葉に、ヘールボップの体が硬直してしまった。

「遠い所って?」
「北海道より遠い?」

 仁美は表情を、パッと明るくして、その場に腰を下ろした。

「もっとずっと遠い所」
「あんたの、お父さんがおる所」
「もう、誰とも会えんなる所ながよ」

 寂しげな表情を、ヘールボップに向けると、仁美も、馬房の窓から星空を見上げる。

「走りたかったな」
「ボップと、ジャパンカップ」
「見たかったな」
「お姉ちゃんと、信吾さんの結婚式」

 そして、仁美もまた、その目から大粒の涙をボロボロとこぼし出した。

「……話したかった」
「もう一度」

 もう、声にはならなかった。
 搾り出すように言葉を紡ぐ。

「もう一回」
「お父ちゃんと……」
「師匠と弟子やのうて」
「父と、娘として!」
「……お父ちゃんと!」

 ヘールボップが、いつものように仁美の涙を拭うように、顔を近づけた。

「仁美さん?……『たっすいがはいかん』じゃなかったの?」
「それに、話してたよ」
「万次郎さんと」

「……どう言うこと?」

 驚いて顔を上げる仁美。
 ヘールボップは、鼻面を頬に添えたままだった。

「万次郎さん、ずっと僕の中にいたんだ」
「心を閉ざしていた僕の代わりに」
「ヘールボップとして、生きていたんだ」

 思わず立ち上がる仁美。

「じゃあ、あのレース……」
「あんたと初めて出たレース」
「全部、ボップが一人で勝ったと思うたがは」

「そう、万次郎さんが走ったんだ」
「けど、僕が落鉄したレースと」
「潮嵐賞は、何もしてないよ」
「あれは、全部仁美さんと僕で勝ったレースなんだ」

「ペガサスカップは?」

「あのレースは、万次郎さんも乗ってた」
「でも」
「仁美さんと万次郎さん、全くおんなじ乗り方をしたんだよ」

 仁美は、また膝をついた。

「……そんな、そんな」
「お父ちゃんは?今はおらんが?」

「ちょっと前、明美さん?と一緒に」
「空に飛んでいっちゃった」

 顔を覆い、取り乱したように泣き出す仁美。
 堪えていたものが崩れる。

「やっぱり、まだまだ、あんたに乗りたい!」
「一緒にレースを走りたい!」

「お姉ちゃんと」
「信吾さんと、瀧越さんと、武政先生と」
「大好きな人らあと」
「……もっともっと……」
「生きて……行きたい!」
「生きていきたいがよ」

 その悲痛な叫びが、馬房に響いた。
 ヘールボップはただ黙って見つめることしかできない。

「大丈夫ですよ、仁美さん」

 ふっと声が聞こえる。
 隣の馬房のスポイルクーラーが、穏やかに声をかけて来たのだった。

「いつも、体に気を遣ってくれてありがとう」

 反対側の、クラークアローも続く。

「仁美さんは、帰ってこれます」
「先生が助けてくれます」

 カツラシンタローが、ハナスミレも声をかけてきた。

「先生が、仁美さんのところで待ってますよ」
「早く帰って来てください」

 厩舎の中の馬たちが、一斉に仁美に励ましの言葉をかけ続けた。
 そして、ヘールボップの体に光が宿った。
 身体の輪郭を縁取るように、表面からゆらゆらと立ち昇る。

「ボップ……その姿……」

 初めて見た時。
 馬運車から降りた、ヘールボップの立ち昇る汗の蒸気が、日差しに照らされて闘気を帯びているように見えた姿そのものだった。

「帰ってきて、仁美さん」
「一緒にジャパンカップを走ろう」
「『たっすいがはいかん』だよ……」

 ヘールボップの光は、あたり一面を照らしてやがて一箇所に集束して、一頭のサラブレッドになった。

「……コメット、ハンター?」

 仁美は、目の前に現れた栗色の競走馬に目を奪われた。
 調教師室に飾られた写真を何度も見ている。
 豊かな威厳と風格、それでいて優雅な気品を漂わせる馬体。
 それが仁美の目の前に現れている。

「はじめまして、仁美ちゃん」
「君には、息子が随分お世話になったね」
「ありがとう」

「いえ……どう、いたし、まして」

 仁美は、目の前の事実に思考が追いつかず、自分が何を言っているのかすら、理解できていない様子だった。

「明美さんは、君が必ずここに来ると言っていた」
「流石だね、人の親とは、すごいもんだ」

「……お母さんが?いたんですか?」

 コメットハンターは、厩舎の入り口を見つめる。

「万次郎さんと明美さんは」
「君の体の元に行っている」
「君も、自分の体に戻る時だよ」

 優しい口調のコメットハンターが、自分の背中を首で指した。

「さあ、私に乗りなさい、一緒に戻ろう」

「はい!」

 迷わずその背中に、仁美は跨った。
 父馬は息子に目を合わせる。

「……息子よ、父はずっとお前と共に在る」
「忘れるな」

「……はい」

 今度は、仁美がヘールボップを見て言った。
 力強い、確信のこもった声で。

「絶対に、帰ってくるきね」

「うん、待ってる」
「かならず、帰ってきてね!」

 やがて人馬は黄金の輝きに包まれて、その場から姿が消えていった。
 また、闇と静寂に包まれる厩舎。
 しかし、ヘールボップの心には、もう不安はない。
 明日には、いつもの笑顔で仁美が現れる。
 期待と希望しか存在していなかったからだ。

 病室では、それまでの雰囲気とは打って変わった和やかな雰囲気で、三人の歓談が続いていた。
 そんな中、万次郎が窓の外を見て、何かに気づいたように呟く。

「……来たな」

「何が?」

 明美が広美の肩に手を乗せた。

「戻んてきたがよ」
「お帰り……って、言うちゃって」

 窓の向こうの夜空に、小さな光点が点ると、それがだんだん、こちらに向かって近づいてきた。

「お父ちゃん、お母さん……あれ」
「彗星?」

 両親は何も言わずにただ頷く。
 光の束が目の前に来た時、広美は思わず万次郎にしがみついた。
 そして。
 それは、窓をすり抜けて仁美の体に向かう。
 長い光の尾が、仁美の体の中に延々と吸い込まれていくさまを、広美は驚愕の眼差しで見つめることしかできなかった。

 やがて、彗星の光がすべて仁美の体の中に収まった瞬間。

「……お姉……ちゃん?」

 閉じられていた仁美の目が開く。
 そして、はっきりとした口調で、言葉を告げた。
 万次郎が、優しく酸素マスクを外してやる。

「お父ちゃん……お母さんも」

 広美は言葉を出せない、仁美の手をしっかりと握りしめ、その温もりを感じて肩を震わせている。
 そんな二人を、万次郎が両手で抱き寄せた。

「広美!仁美!」

 二人の娘たちは、ただ父の身体にしがみついて、感情の赴くままに涙を流す。
 母も、二人に寄り添い、慈愛の眼差しを絶やすことはなかった。

「すまんかった、仁美!」
「お前に、お父ちゃんのやり残したもんを、全部押し付けて」

「……違う、私は、自分の意思で馬に乗りたかった」
「お父ちゃんが見よった景色を見たかったが」

「お父ちゃんが、歩けん、馬に乗れん体やなかったら、違う生き方も選べたはずや!」

「そんなことない!お父ちゃんが、竹さんみたいに、今も現役やっても……私はおんなじ道を選んだき」
「私は、騎手の道を選んだき」

 その言葉は、万次郎の胸により深く刻まれた。
 自分が生きて来た、歩んできた道がしっかりと、娘に伝わっていたことを実感したからだ。
 背中を抱く腕に、力が籠る。

「ありがとう……ありがとう仁美」
「広美、弱いお父ちゃんですまん」
「自分の弱さを見せとうのうて」
「ちゃんと、向き合うことが出来んかった」

 広美は万次郎の胸で、首を振った。
 それは、言葉に出すよりも雄弁に語っている。

「ふたりとも、どこで何をしよっても良い」
「一生懸命、その日を、その時間を、生きてくれ!」

 明美が万次郎の肩に触れると、その身体が静かに光を放ちはじめた。

「おとう……ちゃん」

「まだ、行かんとって!」

 抱きしめる手を緩めた万次郎は、二人と目線を合わす。

「とにかく、毎日を幸せに生きてくれ」
「笑顔と、安らぎに満ちた、時間を生きてくれ」
「お前らあが……お前らあ二人は」
「わしの、お父ちゃんの」
「人生の……すべてや!」

 そしてまた、力強く二人を抱きしめた。
 言葉を搾り出す広美。

「ありがとう……お父ちゃん、これで、心から泣ける」
「お父ちゃんを想うて、泣けるき」

 仁美も、声を震わせた。

「ずっと、見よってよ」
「ずっとずっと、走り続けていくき」
「……ずっと、見よってよ!」

 最後には明美の言葉。

「姿は見えんでも、離ればなれになっても、みんな家族やき」
「ずっと一緒に、おるきね」

 そして、病室は光にあふれて、やがて止まっていた時計の針が動きはじめた。
 その瞬間。
 ベッドに横たわる万次郎のそばにある、医療機器の画面が、全て一本の線になり、リズムを刻んでいた電子音は、単調な音に変わった。

 沖浜万次郎、永眠。
 享年56歳
 競走馬を愛し、家族に愛された男の一生は、こうして幕を閉じたのだった。

最終回はこちらから

マガジンに全話収録しております。

いいなと思ったら応援しよう!