Win〜彗星は南から 第18話 命の限り
【閲覧注意】
子供が溺れる描写があります。
第18話 命の限り
遠林病院の診察室では、広美が執刀医と向き合って座っていた。
「……申し上げにくいのですが、腹部の刺し傷が、複数の臓器を損傷しております」
「処置は施しましたが、小腸から漏れ出た細菌が繁殖して起こる敗血症」
「損傷した臓器の機能が回復しない、多臓器不全に陥る可能性があります」
「……それは、つまり……」
医師は、広美の目を見て告げた。
「生命の危険が、非常に高い状態です」
思考が止まった。
ほんの数時間前は、幸福の絶頂にいたはずだ。
互いにとって、空白になった7年の時間を埋めるように、笑い合い、語り合った。
ショッピングモールで服を選び、その笑顔を眺めて慈しみ、ショーウィンドウを見つめる横顔に、妹の感性の豊かさを実感した。
騎手としての将来はおろか、その生命さえも危機の真っ只中にいる。
広美は、搾り出すようなか細い声で呟くように、言葉を発した。
「……そんな、これからなんです」
「妹は……まだ19歳なんですよ?」
「……騎手としても、人としても……」
医師は、広美の目をしっかりと見据えて頷いた。
「私たちも、あらゆる手を尽くします」
「どうか、お気持ちはしっかりと保ってください」
その言葉は、彼女にとってはかすかな祈りだった。
今の広美は、その祈りに縋ることしかできない。
ヘールボップの深層心理領域では、姿を現した明美と万次郎が向き合っている。
「……ずっと、見よったで、7年前のあの日から」
「そうか……あれから、父親として、家族として、最悪な生き方やった」
「……お前が、あの子らにしよった事が、何もできん」
「向き合い方すら、わからんかった」
薄れて行くヘールボップの記憶の景色、その中の仁美の笑顔を眺める。
「まんじさん、あなたは真面目すぎるがよ」
「真面目に向き合うとして、できんくて」
「あきらめた、そうやろう?」
苦笑して、視線を落とす。
「それは、まんじさんだけやない」
「広美と仁美もそう……」
「広美らあ特に、あの子はあなたにそっくりやき」
「仁美は、必死にあなたに向き合おうとした」
「あなたを追いかけて、振り向かせようとした」
「三人がみんな、不器用やっただけながよ」
「……やっぱり明美やねゃあ」
「お前がおったきこそ、家族やったがやねゃ」
明美は優しく微笑みながら、万次郎の手を取る。
「人から見たら、私は辛い、しんどい人生やったかもしれません」
意地悪く笑いながら、明美が自分の鼻を指差すと、バツの悪そうに顔をしかめる万次郎。
「けどね、私は"少なくとも"たいちゃあ幸せでしたよ」
「……そんなわけあるか!」
「わしは……わしがお前に何をしたか、忘れたがか!」
「あれが……幸せなはずがあるか!」
すると、今度は万次郎の頬に触れる。
「ほら、ちゃんと分かってくれちゅう」
「私に苦労かけたって……」
「そうやって思うてくれるだけで、幸せながです」
「優しい……まんじさん」
万次郎と明美が静かに抱擁を交わす姿を、コメットハンターは無言で見守っていた。
診察室を出ると、広美の目の前に信吾が立っている。
「……ごめん、調書を取るがが長引いてしもうて……」
その顔を見て、ふっと体の力が抜けた広美がその場に崩れると、信吾がしっかり抱き止めた。
「……仁美、すごい危ないがやって」
「大丈夫や、大丈夫」
「助からんかも……しれんがやって」
「そんなわけあるか、仁美ちゃんは強い子や」
広美がうわごとのように呟く度に、信吾の腕に力が籠る。
「私のせいや……」
「違う!」
「私が……あんな奴に関わらんかったら」
「あいつの言うこと、聞いちょったら」
「……全部、私が悪いがや!」
「絶対違う!」
「こんなことする奴が、一番悪い!」
そのまま縋りついて、号泣する広美を信吾が力強く抱きしめる。
その泣き声は、病院の廊下中に響き渡っていたが、誰も咎めるものはいなかった。
深夜、栗東の竹邸では、竹がリビングのテレビの前で項垂れていた。
『本日午後3時30分ごろ、高知県高知市内のショッピングモールにおいて』
『南海競馬所属の、沖浜仁美騎手、19歳が暴漢に腹などを刺される事件が発生しました』
「……何故こうなるんだ」
『沖浜騎手は、その後救急搬送されましたが、現在は意識不明の重体だそうです』
「あの家族が……何をしたって言うんだよ!」
そのまま両手で顔を覆って、ひとり嗚咽を漏らすことしかできなかった。
『犯人は、その場から逃走し、現在も行方がわかっておりません』
『調べによりますと、犯人は都内に住む上崎徳和容疑者、37歳、無職と見られており』
『沖浜騎手の姉の元交際相手で、警察は一緒にいた沖浜騎手の姉を狙った犯行と見ています』
恵美は自宅で、呆然とテレビを見つめていた。
「……なんてことなの?あの人……ううん」
「元々、人間ですら……なかったのね」
『警察は、上崎容疑者と沖浜騎手の姉との間に何らかのトラブルがあったものとして、捜査を進めております』
剣持事務所では、深夜にも関わらず、剣持と高部が顔を見合わせている。
「高部君、こうなったら一連の出来事を警察にリークすべきだな」
高部は黙って頷き、そっと眼鏡を上げた。
仁美の病室に通された広美は、ベッドに横たわる仁美の姿に愕然となる。
身体中に複数の管が通され、呼吸は声が大きく速い。
瞳は閉じられ、胸だけが激しく上下している。
思わず隣にいる信吾に縋りつき、声をあげて泣き叫ぶしかできなかった。
その様子を、黙って見守る看護師が、広美が落ち着いてくるのを見計らって、声をかける。
「あの、本当に申し訳ないがですが……」
「病院の規定で、深夜の付き添いはお一人でお願いします」
「いや、けんど……」
「……良いき」
看護師に詰め寄ろうとした信吾を、広美が制した。
「ここは……ひとりで大丈夫やき」
「あんたは……ボップらぁの所へ行っちゃって」
「みんな、心配しゆうき」
「……広美さん」
広美は、信吾に無理矢理な笑顔を作った。
「彼女の……言うこと……ちゃんと、聞きや?」
「……そうせんと」
信吾は、肩で大きく息をした。
「……モテんか」
「わかった、けんど、いつでも呼んでくれよ!」
そう言うと、もう一度広美の震える体を抱きしめた。
ヘールボップの深層心理領域では、明美と万次郎の会話が、ひと段落ついていた。
「……そうか、そんなことが……」
明美は黙って首を縦に振る。
「まんじさん、そうしたら、仁美は助かるが」
「覚悟は良い?未練はない?」
彼女の言葉に、決意を固めた清々しい表情を向けた。
「あるはずが無いろう?」
「わしは、あいつらの為に生きてきた」
「わしの命は、広美と仁美の為にあるがや!」
くすりと鼻を鳴らすと、明美はコメットハンターを見る。
「……あの子、きっとここに来るき」
「わかるんですか?」
「それが母親と言うもんよ」
「真面目な子やき、必ずボップちゃんに会いに来る」
「……お別れを言いに」
万次郎の拳が、硬く握られた。
明美は続ける。
「その時は、有無を言わさず力ずくで連れて来てよ」
「……コメットさん」
コメットハンターは、表情だけで答えた。
「……♪キラキラ愛の星」
「♪キラキラ光る星……」
万次郎が、苦虫を噛み潰したような笑顔でとがめる。
「お前、ふざけゆう場合やないろうが?」
「しかも、世代が違うやろう?」
「よう知っちゅうねゃあ」
明美はまた悪戯っぽく笑った。
「なんで?仁美は助かるし」
「私はまた、まんじさんと一緒におれる」
「ふざけても良い場合やない?」
「ほんまに、お前には敵わんわ」
そして、コメットハンターと向き直った。
「お前に、新馬戦で初めて乗った時」
「あのダービー」
「今回のボップの中の出来事」
「わしの人生の大事な場面には、いつもお前がおったねゃあ」
「私も、あなたのおかげで、種牡馬になれた」
「ヘールボップのような、次の世代を残すことができました」
人馬はしっかりと視線を合わせた。
「あっちの世界にも、レースはあるがか?」
「もちろん」
「歴史に名を残す名馬たちが、星の数ほど走ってますよ」
「お前とわしで、殴り込みやねゃあ」
「望むところです」
言葉を交わすと、明美が万次郎の傍らに立ち、コメットハンターに軽く手を振る。
すると二人は、厩舎に立っていた。
感じた視線の先には、ヘールボップがいる。
(万次郎さん、行っちゃうんですか?)
「そんな情けない声を出すな」
「お前には、仁美がおる」
「お前と仁美は無敵や、どこの競馬場でも、どんな相手でも」
ヘールボップは、低く鼻を鳴らす。
すると、次は明美が声をかけた。
「ボップちゃん、仁美をよろしくね」
(はい、わかりました)
二人が一歩踏み出そうとすると、今度はまた別の声が聞こえた。
(先生!)
スポイルクーラーだった、そこから厩舎の中の全ての馬から声がかかる。
(ありがとうございました)
(お世話になりました)
(ほんとうに、感謝しています)
込み上げる感情に、胸が押しつぶされそうになりながら、満面の笑顔を見せる万次郎。
「おう!みんなも元気で!頑張れよ!」
やがて、二人の体は光に包まれ、夜空に高く舞い上がり、一筋の流星になった。
月もない夜の砂浜。
打ち寄せては返す波の潮騒のざわめき、砂を踏み締めた時の、ザクッ、ザクッという響き。
それだけが、その空間に存在する音。
その音に混じって、誰かを呼ぶ声が聞こえる。
「……ぇちゃん、お姉ちゃん!」
あたりを見回しながら、泣き叫ぶ妹の声に広美が駆け寄った。
「仁美、お姉ちゃんはここ、ここにおる、あんたの目の前におるやいか!」
「……どこ?どこにおるが?お姉ちゃん!」
声は聞こえるが、姿が認識できないようだ。
抱き止めようと飛び込むと……
ーーするり
仁美の体をすり抜けて、砂浜に倒れ込む、振り返った広美は、さらに驚愕した。
そこにいたのは、19歳ではない、幼児の時の妹の姿だった。
仁美は、泣き叫びながら波打ち際に向かって。
「お姉ちゃん〜!暗い〜!どこにおるが?」
「……怖い〜!」
「仁美!そっちに行ったらいかん!戻れんなる!仁美!」
後を追いかけると、仁美が波に飲まれて溺れ始めた。
「いや〜!ゴボッ、お姉ちゃん、たす、ゴボッ、助けて〜!!」
必死で、沖に向かおうとするが、波に入ると広美の体が前に進まない。
必死で腕をばたつかせる仁美に、懸命に手を伸ばしても届かない。
「仁美!……仁美!」
「おね、ぇちゃ……ゴボッ、ボ」
最後に、仁美の腕が、海の中に完全に沈んで行ってしまった。
「……っ!」
「仁美……いや、仁美!」
「仁美ーーーーー!!!」
「……はっ!」
慌てて顔を起こすと、そこは病室だった。
仁美を見ると、呼吸の声が聞こえて、胸が上下している。
胸を撫で下ろすと同時に、今の妹の姿を見て安心する自分に悲しみを覚えた。
その瞬間だった。
「広美、広美!」
「……この、声?」
「お母……さん?」
隣を見ると、穏やかな笑顔の明美がいた。
7年ぶりに見る笑顔、耳に届く声、しかし広美の心は、別の思いで涙を溢れさせる。
「……何しにきたが?」
「仁美を迎えに来たがやろう!」
広美は、明美とベッドの間に割り込んで、両手を広げて首を振った。
「いかん!連れていかさんで、仁美を」
「つれていかんとって!」
「助けちゃってや!」
「……お願いやき、お願いやき!」
するとまた、明美はにこりと微笑む。
「あのね、広美」
「この世の中の命は、無限に近い数があるけど、それでも同じ時間に存在できるのは限りがあるが」
「そうやって、命が巡って、繰り返して、この世が作られていくがよ」
広美は、その場にへたりこんで、話に耳を傾けた。
「7年前、お母さんの命が尽きた瞬間」
「北海道の牧場に、新しい命が宿ったが」
「母馬、メイプルベルグのお腹の中に」
はっと、目を見開き明美を見た。
「……それ、もしかして……」
「そう、ヘールボップ」
「ほいたら、ボップはお母さんの生まれ変わりなが?」
すると、明美は首を振った。
「生まれ変わりとは違う、上手いこと説明できんけど、お母さんが、命のバトンを渡した相手かな?」
すると、広美の表情がパッと明るくなった。
「ほいたら、代わりに尽きる命があったら、仁美は助かるがやろう?」
「やったら私を連れてって!お母さんの所に、それやったら仁美は助かるがやろう?」
厳しい表情に変わる明美。
「あんた、本気で言いゆうが?それ」
「だって、仁美には未来があるやか!」
「騎手として、活躍して生きていく未来があるやいか!」
「馬鹿なことを言いな!」
時を同じくして、別の病室で眠る万次郎の目が開いた。
起き上がり、呼吸器と点滴の管をすべて抜き取り、背伸びをして肩を回した。
「あ〜!よう寝えたわ」
ベッドから、立ち上がると、数歩進む。
「足も動く」
「16年ぶりの自立歩行、やっぱり便利でえいわ」
そのままドアノブに手をかけて呟いた。
「……最後の、水入らずの家族の団欒や」
廊下に出る。
病室も、廊下も、ナースステーションも、すべての時計の針が、秒針すら止まっていた。
再び仁美の病室、明美は広美を叱るように諭していた。
「仁美には未来がある、確かにそう」
「やったら、あんたには未来がないが?」
「あるろうがね!」
号泣しながら首を振る広美に、明美は続ける。
はっきりとした声で。
「信吾くんと幸せに生きていく未来が、あるろうがね」
「けど、けど、それやったら仁美が……」
「仁美がおらん世界で、私、幸せにらぁ、なれんき……」
その場にうずくまる広美に、明美はまた慈愛の籠った笑顔を向けた。
「……それにね、もう先約がおるがよ」
広美は、不思議そうに顔を上げた。
「……先約?」
その時病室のドアが開かれる、そこに立つ人物を見た広美は、驚きのあまり目を剥き、体を硬直させていた。
「おいおい、なんな?その幽霊にでも会うたような顔は」
「ちゃんと、足もあるろうが?」
万次郎は片足を伸ばして開いたり、足踏みをしておどける。
茶目っ気を含んだ表情で、広美に視線をあわせた。
「……まあ、前と違うて、立てれるし、歩けるけど、ねゃあ」
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