選ぶたび、誰かを思う
今回は、義理の母の話です。
遠方に住んでいるため、義母と会えるのは一年に一度ほど。
それでも毎週末のビデオ通話は欠かしません。
義母が住んでいるところは、スーパーをはじめとするお店が遠く、今は同居している家族が買い物をしています。
もともと義母はとても料理が得意で、4、5年前までは背筋も伸び、年齢よりも若々しい印象でした。
一緒に買い物へ行くと、魚を選ぶ目利きも抜群で、自分のペースでテキパキと買い物を進めていました。
買ってきた魚を鮮やかに捌き、あじの刺身やしめ鯖をご馳走してくれたこともあります。
義母の作るしめ鯖は本当に絶品で、
「しめ鯖ってこんなに美味しいものなんだ」
と感動したのを覚えています。
ところが昨年帰省した際、思いも寄らぬ告白をされました。
「わたくし、実は魚、嫌いなんです」
驚きました。
自分が好きだから作っていたのではなく、夫や私が好きだからという理由だけで、あんなに手間をかけてくれていたのか。
その愛情の深さに、改めて感謝の気持ちが湧きました。
義母の衰えにショックを受ける場面もありました。
背中が曲がり、動きもだいぶ鈍くなっていました。
料理も、米を研ぐことや簡単なものを作る程度。
買い物に誘っても
「もう大儀で。行ってきてくれます?」
と繰り返すばかりで、結局一緒に店へ行くことは叶いませんでした。
かつて、買い物が好きだった義母が、選ぶことさえ億劫になってしまった。
その変化が、何よりも寂しく感じられました。
最近のビデオ通話では、ほんの1分前に話したことも忘れてしまうことがあります。
画面越しの義母は穏やかですが、自分で何かを決める機会が減っていく日常は、義母から何を奪っているのだろう。
そんな不安が頭をよぎりました。
スーパーの棚の前で迷う自分の姿に気づいたとき、ふと思ったのです。
もしこの『迷う』ことすらできなくなったら、と。
もし私が義母の立場だったら、と考えてみました。
私は買い物が趣味です。
もし、買い物に行くという選択肢がなくなり、店で商品を選ぶこともできなくなったら。
あの小さなワクワクをもう感じられないのだとしたら、どんなに寂しいだろう。
そう思うと、胸が締め付けられます。
お店に行けば、
「今日は何を作ろう」
「孫はこれが好きだったかな」
「たまには自分のために、これを買ってみようかな」
そんなふうに、あれこれ悩みながら品物を選ぶ。
その一つひとつの「選ぶ」という行為は、誰かを想う時間であり、
自分の「好き」を大切にする時間でもあると思います。
その時間こそが、暮らしの楽しみであり、毎日を少し豊かにしてくれているのかもしれません。
何を食べよう。
どこへ行こう。
どれにしよう。
当たり前のように繰り返している毎日の「選ぶ」ということ。
選べることは、自由であり、幸せ。
その選択のすべてに、誰かを、そして自分を想う温かな気持ちが宿っている。
そんな当たり前の幸せに、義母の姿を通して気づかされました。
ふと、私の母が口紅を引いてデパートへ出かけた日のことを思い出しました。
あの日の母も、自分で選び、自分で歩き、自分で「これがいい」と決めていました。
義母の姿と重ねてみると、「選ぶ」という何気ない日常は、私たちが思っている以上に、人の意欲や喜びを支えているのかもしれません。
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