インレー湖の向こう側——湖上に見えてきた暮らし【海外での記憶#45|ミャンマー編-07】

インレー湖を、ガイドと一日巡った。
それまで私が知っていたのは、観光ガイド本で見た景色と、そこに書かれていた知識だけだった。
けれど、湖や村を巡るうちに、観光ガイド本だけでは見えなかったものにも、少しずつ出会った。

ニャウンウー空港(バガン空港)
2017年。
寺院や仏塔で知られる観光地バガンを離れ、シャン州のヘホへ向かった。
空港で見かける旅行者の姿は、バガンへ来たときより少なく感じた。
バスで駐機場へ移動し、プロペラ機に乗り込んだ。
さらにミャンマーの奥へ入っていくような旅の始まりだった。


やがて飛行機は、ヘホ空港に到着した。
空港では、日本から手配していた地元の女性ガイドが待っていた。
この地域について、日本で得られる情報は多くなく、移動や言葉の面も含め、土地勘のある人の力を借りることにしていた。
そして、この日の目的地はインレー湖だ。
ガイドと車に乗り、湖の船着き場へ向かった。


空港を離れると、緑に囲まれた山道が続いた。
その途中に、大きなガソリンスタンドがぽつんと現れた。
人の姿はあって、営業しているようだったけれど、広い敷地はがらんとして、遠目には廃墟のようにも見えた。
その先では、切り開かれた山肌が、道路脇にむき出しになっていた。
見知らぬ山道を進むうちに、少し不安も感じた。

しばらくすると、道沿いに寺院や僧侶の姿が見え、スイカを並べた露店も現れた。
さらに進むと、建物や看板、バイクが増え、車は、インレー湖の近くにあるニャウンシュエの町へ入っていった。
先ほどまでの山道とは違い、人の暮らしが見えてきて、少しほっとした。


ようやく、インレー湖の船着き場に着いた。
周囲にはバイクや三輪車が並び、人の出入りもあって、少し賑やかだ。
建物の壁には、片足で櫂(かい)を操る人の姿が描かれていた。
観光ガイド本で見た、インレー湖周辺に暮らすインダー族(Intha)の片足漕ぎだろうか。民族好きな私は、少し気持ちが高ぶった。
さっそく、ガイドとともに細長い舟へ乗り込んだ。

船頭がエンジンをかけると、舟は船着き場を離れ、水路を進んでいった。
やがて両岸が遠ざかり、山に囲まれた広い湖面が現れ、視界が一気に広がった。
いよいよインレー湖へ出た。

湖へ出て周囲を見渡すと、人や荷物を載せた舟が行き交っていた。
そのうち一つの舟には、籠や袋が隙間なく積まれ、その間に何人もの女性が乗っていた。
市場へ品物を運ぶ途中なのか、買い物を終えて戻るところなのか。籠や袋の中には何が入っているのだろうと、いろいろ想像した。

また別の舟では、一人の男性が片方の足を櫂(かい)に絡めるようにして舟を操り、両手で網を引き上げていた。
「ああ、これだ」と思った。
観光ガイド本の写真や船着き場の絵で見た片足漕ぎが、いま目の前で漁の動きになっていた。
その身のこなしに、思わず見入った。


さらに進むと、水路の先には寺院や仏塔が見え、湖上には旅行者向けのコテージもあった。
湖を進んでいくと、暮らしや仕事、観光、信仰の場所が次々と現れた。なんだか、湖が町のように思えてきた。
そして、舟は一軒の高床式の建物に近づいた。この日、最初の見学場所だった。

建物の中には、首に金属製の輪を重ねたカヤン族(Kayan)の女性たちがいた。
彼女たちに会えることも、インレー湖を訪れた理由の一つだった。
観光ガイド本の中で見ていた姿が、目の前にあった。三人の女性が並んで座り、笑顔で迎えてくれた。
それでも、実際にその姿を目の前にすると、私は少し戸惑った。

写真を撮ってもよいかとガイドを通して尋ねると、女性たちは笑顔で応じてくれた。
言葉で直接やり取りしたわけではない。
それでも、互いの表情を通して、ぎこちないなりに通じている感覚はあった。その流れの中で、私も一緒に写真に収まった。

近くには、首に重ねて身につける金属製の輪も置かれていた。
年齢とともに少しずつ輪を増やしていくと、説明を受けた。
手に持たせてもらうと、見た目以上に重かった。
首に当ててみてもよいと言われたが、私には、その重さを確かめるだけで十分だった。

海外の街角に立つカヤン族の女性たち
室内には、海外の街角に、首に金属製の輪を重ねた女性たちが立つ写真も飾られていた。
かなり古そうな写真だった。いつ、なぜ撮られ、どのような意味でここに飾られているのかは聞かなかった。
ただ、今、目の前にいる女性たちのそばに、過去の出来事が一枚の記録として残されていた。

古い写真から目を戻すと、建物の中では、若い女性と年配の女性が並んで機を織っている。
背後には、色鮮やかな織物が掛けられていた。
過去の記録のそばで、今、女性たちは手を動かしていた。


建物を離れると、舟は再び水路へ出た。
途中、水路沿いに学校が現れた。校庭では、白い上着と緑の服をそろえて着た子どもたちが遊び、元気な声が水辺まで届いてきた。
学校を過ぎると、両岸の木々が次第に近づき、水路は細くなっていった。

インディン村
やがて舟は、インディン村の船着き場に着いた。
インディン村は、多くの仏塔が集まる場所として知られている。
木造の橋を渡ると、屋根付きの参道が延びていた。参道には、観光客向けの土産物店が続いていた。
その先に多くの仏塔があるようだ。

参道を歩いていると、ガイドが食用だという幼虫を見せてきた。
食べてみるかと勧められたが、私にはカブトムシの幼虫のように見え、どうしても手が出なかった。
曖昧に断ると、ガイドは「おいしいのに」と言い、その幼虫をためらう様子もなく口にした。本当に食べるんだと、私は少し驚いた。
さらに歩いていると、ガイドが屋根付きの参道を外れて歩き出した。
私もそのあとについていった。

屋根付きの参道を外れると、煉瓦の表面が崩れた仏塔群が広がっていた。
草木が入り込み、漆喰の剥がれた仏塔が、形を少しずつ失いながら並んでいる。
参道のすぐ外に、こんな風景があったんだと少し驚いた。


近づいて見ると、崩れた像や装飾の断片が煉瓦の間に残っていた。
仏塔の内部には、人物らしき姿を描いた彩色もわずかに残っている。
崩れた煉瓦や消えかけた彩色からも、ここに祈りが重ねられてきたことが伝わってきた。

さらに進むと、仏塔は道の両側に密集していた。
仏塔の間を歩いていると、少し迷路に入り込んだようでもあり、観光ガイド本の「1000基を超える仏塔がある」という記述にも納得した。
その光景は圧巻だった。

そこに並ぶ仏塔の多くは、先ほど見た朽ちかけたものとは違い、金色や白色だった。
傷んだ仏塔に手が入り、色が塗り直されてきたのだろうか。古い姿のまま残すだけではなく、信仰の中で姿を変えながら受け継がれているように見えた。
そして、仏塔の頂部にある傘のような飾りには、小さな鈴が下がっていた。風が吹くと、ときどき鈴の音が仏塔の間に響いた。

仏塔群を見たあと、ガイドは、屋根付きの参道とは別に、竹藪のそばを通って船着き場へ戻る道があると教えてくれた。
私は、その道を選んだ。歩く人の姿もほとんどない静かな道だった。

歩いていくと、道端で薄いせんべいのようなものを作っている人がいた。
大きな容器で砂を熱し、その熱で焼く。見慣れない作り方だった。眺めていると、ガイドが一枚買い、私に渡してくれた。
食べてみると、味はほとんどしなかった。でも、こんな調理法もあるんだなと思った。

さらに歩いていると、竹を組んだ囲いの中で、若者たちが編んだボールを使って球技をしていた。
ここでは、こんなスポーツが流行っているのかなと思いながら、写真を撮った。
参道で見た食用の幼虫も、この帰り道で出会った食べ物や球技も、観光名所だけを巡っていては目に入りにくいものだった。
ガイドは、私の見える範囲を広げてくれているのかなと思った。私とは相性が良かった。


やがて道は水辺へ出て、船着き場へ戻った。
舟を待つ間、ガイドが近くにいた若い男性と話し、男性は私にもバナナを一本くれた。
私はお礼に、手元にあったタバコを数本渡した。男性は喜び、ガイドも交えて和やかな空気になった。
1000基を超える仏塔を見に来たインディン村だったが、帰るころには、食べ物や球技、バナナとタバコを交わした短い時間まで、この村の記憶になっていた。

ボートに戻ると、再びインレー湖の観光地を巡った。
湖上には寺院や建物が集まり、その周りを舟が行き交っていた。まだ少し離れていたが、そこだけ賑わっているのが遠くからでも伝わってきた。ここが観光地として紹介されているのも納得した。


パウンドーウーパゴダには、金箔を貼られ続け、もとの形が分からないほど丸くなった仏像が安置されていた。
「ここまで貼るんだ」と思った。私も周囲の人にならって金箔を一枚貼った。人々が貼ってきた金箔の積み重なりに、私の一枚も加わった。

寺院のそばには、鳥をかたどった大きな金色の船が置かれていた。
毎年の祭りでは、先ほど見た金箔に覆われた五体のうち四体の仏像をこの船に乗せ、湖周辺の村々を巡ると説明された。
話を聞いていると、村ごとに人々が金色の船を迎える光景が浮かんだ。
祭りの日、湖がどれほど賑わい、普段とは違う表情を見せるのか。一度見てみたいと思った。

その後、水上に建つ織物工房にも立ち寄った。
広い室内には織機が並び、女性たちが布を織っていた。多くの人は、都合のつく時間に工房へ来て働くらしい。
パートタイムに近い働き方だとガイドを通して聞いた。

工房では、絹や綿のほか、ハスの茎から取り出した繊維も使われていた。
切った茎を引き離すと、内部から細い繊維が伸び、それを少しずつつなぎ、一本の糸にしていた。


工房を離れ、次の目的地へ向かう。
その途中には、湖上で暮らす人たちの家が続いていた。
軒先には色柄のある布が掛けられ、鉢植えが並び、家の前の水辺で過ごす人たちの姿もあった。
仕事場の先に、暮らす家々が続いている。どこにでもあるような仕事と生活の並びが、湖上にもしっかりとあった。

そして、葉巻を作る工房にも立ち寄った。
湖上に葉巻工房まであることが、少し意外だった。室内では、女性たちが床に座り、一本ずつ手作業で葉巻を巻いていた。

その後、湖上に建つ古い木造のガーペー僧院にも立ち寄った。
19世紀半ばに建てられたと聞き、これほど大きな木造の僧院が、長いあいだ湖上にあることに少し驚いた。

舟は再び湖を進んだ。
その先に現れたのは、建物ではなく、水上に何列も続く畑だった。
水草や泥が重なった浮島を細長く整え、湖底に差した竹の棒で固定していると説明された。そこではトマトが育てられていた。
家や仕事場、寺院が水上にあるだけではない。
陸地にあるものだと思っていた畑まで、湖の上につくられていた。しかも、湖の水を活かす形で成り立っている。素直にすごいなと思った。

そして、浮き畑の間には水路が通り、人や荷を載せた舟が行き交っていた。
その様子を見ていると、これまで見てきた場所や光景が頭に浮かんだ。
家や仕事場、寺院、畑、そして年に一度行われるパウンドーウーパゴダの祭り。
こうした場所や営みが水路と舟でつながり、湖上に一つの暮らしが成り立っているなと思った。


船着き場に戻り、陸へ上がった。
ガイドと歩いていると、木箱が積まれた倉庫があった。中をのぞくと、トマトが床いっぱいに積まれていた。
先ほど湖上で見た浮き畑で育てられたトマトが、陸ではこうして集められているのだなと思った。
湖上だけで成り立っているように見えた浮き畑での営みが、陸上へ続いていた。

倉庫を出たあと、ガイドとはそこで別れた。
バガンを離れた朝、ヘホの先に何があるのか、私はまだよく分からなかった。ガイドと一日かけて巡るうちに、訪れた場所の一つ一つが、人の暮らしの中にある場所として見えてきた。
そして、ガイドがいたことで、私一人では知らなかった道を歩き、気づかなかったものにも出会えた。
一日を終えるころには、インレー湖の上からその周りへ続く人の暮らしに、少し触れられた気がした。
*これは2017年の記録です。
|追記|
|この文章について|
今回は、現地のガイドに同行をお願いした。
私一人では見えなかったことも、ガイドがいたことで、見える範囲はかなり広がったと思う。ガイドは、その土地の答えを教える人ではなく、私の見える範囲を広げ、見方のヒントをくれる人だったのかなと思った。
参考資料:
ウィキペディア/TripAdvisor ほか。
海外での記憶
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