プノンペンからコダッチ島へ——名前の先、水辺の子どもたち【海外での記憶#43|カンボジア編-08】

コダッチ島(Koh Dach)は、シルクアイランドとも呼ばれている。
その名前を見れば、絹織物を見に行く場所だと想像できる。実際、私もそう思って、プノンペンから川の向こうの島へ向かった。
けれど、それだけではなかった。
橋を渡り、フェリーに乗り、島の道を進んでいくうちに、シルクアイランドという名前だけでは拾いきれないものが、少しずつ見えてきた。

2017年。
プノンペンを離れる日の朝、ホテルの窓から外を眺めていた。
窓の外には、建物が重なるプノンペンの市街地の風景が広がっていた。
王宮やリバーサイドなど、市街の観光エリアはひと通り見た。午後には、飛行機でバンコクへ戻る予定だった。
ただ、午前中、少し時間がある。その時間をどうしようかと、ガイド本を開いてみた。
そこで目に入ったのが、コダッチだった。
プノンペンからそれほど遠くない、メコン川の中にある島。シルクアイランドとも呼ばれているらしい。
午前中だけなら行けそうだ。

ガイド本に従い、まずは市内の船着き場へ向かった。
あたりを少し探すと、コダッチ島行きの案内看板があった。けれど、看板周辺に観光客の気配はあまりない。
近くにいたスタッフらしき人に聞くと、ここからの船はすぐには出ない、トゥクトゥクで行く方法もある、というようなことを言われた。

そこで、そのスタッフに手伝ってもらい、近くにいたトゥクトゥクのドライバーと交渉することにした。
希望は、絹織りの場所に寄り、島を一周し、最後はプノンペンまで戻ること。その内容で値段を決めた。
思っていたより安くまとまり、それなら行けると思った。
トゥクトゥクで出発した。

真横に改修工事中の日本支援の橋が並ぶ
トゥクトゥクは、市街地を離れてトンレサップ川の方へ向かった。
そこには、日本支援のカンボジア日本友好橋と、その真横に造られた中国支援の新しい橋が並んでいた。
日本支援のカンボジア日本友好橋は、チュロイ・チョンバー橋とも呼ばれ、1960年代に造られた橋らしい。一方、隣の中国支援のカンボジア中国友好橋は、第二チュロイ・チョンバー橋とも呼ばれ、2015年に完成した比較的新しい橋だった。
ただ、2017年当時、日本支援の橋は改修工事中だった。
実際に車やバイクが流れていたのは、中国支援で造られた新しい橋の方だった。
私たちのトゥクトゥクも、その流れの中に入っていった。

工事現場には日本企業の名前も見えた
実は前日、私は一度この橋の近くを歩いていた。
日本が関わっているカンボジア日本友好橋を見たいと思っていたからだ。
実際に訪れたら、日本支援の橋は改修工事中だったことが分かった。
さらに、その真横に、中国支援で造られた新しい橋があることもわかった。
日本支援の古い橋と、中国支援の新しい橋。
私はその二つが並んでいる構図として、この場所を見ていた。そして、いま使われているのは中国支援の橋だった。
日本支援の橋を見に来た私には、思っていたよりも複雑な風景だった。

車やバイクの流れは隣の新しい橋へ移っていた
ただ、そのずれは、橋の前に立って初めて生まれたものではなかった。
そもそも前日、この橋へ向かう時、トゥクトゥクのドライバーに「Japan Friendship Bridge(カンボジア日本友好橋)」に行きたいと伝えても、うまく通じなかった。地図を見せてようやく通じた。
その時の私は、日本の名前が入った橋として、この橋を見に行こうとしていたのだ。
橋そのものよりも、日本や中国という支援国の名前を先に見ていた。
ただ、現地で通じていたのは、チュロイ・チョンバー(Chroy Changvar)という呼び方だった。
自分が外から持ち込んだ名前だけでは拾えないものが、そこにはあったのだ。少なくともそのドライバーにとっては、どこの国の支援という名前よりも、現地で通じる橋の呼び方の方が先にあった。
その前日の記憶を残したまま、私はこの日、中国支援の橋を渡ってコダッチ方面へ向かった。

コーラ瓶のような容器にガソリンが入っていた
橋を越えて国道6号線を進み、フェリー乗り場へ向かった。
その途中、トゥクトゥクは燃料を入れるために止まった。
ガソリンスタンドに寄った、と言えばそうなのだが、日本で思い浮かべるような場所ではなかった。
バイク修理店のような店先に、コーラの瓶のような容器が並んでいる。その中にガソリンが入っていて、そこからトゥクトゥクに燃料を注いでいた。
橋を渡り、市街地から少し離れると、移動の途中に見えるものも変わっていった。

トゥクトゥクごと船に乗る
やがてフェリー乗り場に着いた。
そこは、観光船の乗り場というより、車やバイクがそのまま川を渡るための場所だった。
土の上にトラックやトゥクトゥクが停まり、前方にはフェリーが口を開けるように着いていた。
私もトゥクトゥクごと、その船に乗り込んだ。

フェリーに乗っている時間は、たぶん10分ほどだった。
長い移動ではない。
周りを見ると、船の上には、バイクに乗った人たちがそのまま並んでいた。観光客らしい人は、あまり見かけなかった。
観光船に乗っているというより、地元の人たちの移動の中に、こちらが混ざっているようだった。


船の上から振り返ると、川の向こうにプノンペンの建物が見えた。
さっきまでいた町が、川を隔てた向こう岸になっていた。
フェリーに乗っている短い時間で、プノンペンから少し外へ出たのだと思った。
そして、しばらくして、フェリーは対岸に着いた。
人が降り、バイクが動き出し、トゥクトゥクもその流れに続いた。
コダッチ島に入った。


フェリーを降りると、またトゥクトゥクに乗った。
島に入ってすぐ、一車線のような橋を渡った。
橋を越えると、赤土の道が続いていた。
プノンペン中心部からそれほど遠くない場所なのに、道の感じはすでに大きく変わっていた。


まず向かったのは、絹織りを見学できる場所だった。
入口には、Silk Island と書かれた看板があった。
中では、織機の前で人が手を動かしていた。細い糸が張られ、その奥で布が少しずつ形になっていた。
そこは、シルクアイランドという名前から想像していた通りの場所だった。


近くには、高床式の小屋のような建物や、ハンモックのある休憩場所もあった。
絹織りを見せるだけの場所ではなく、木陰で休めるようにもなっていた。
観光客向けの場所ではある。けれど、そこには、この島の暮らしに近い形も少し混ざっているように見えた。


絹織りの見学場所を出ると、トゥクトゥクは、コダッチの奥の方へ進んでいった。
絹織りだけを見て戻ることもできたのかもしれない。けれど、私は島を一周するような形で回ってもらうことにしていた。
道沿いには畑が広がり、牛が放牧されていた。
プノンペン中心部からそれほど離れていない場所なのに、プノンペンで見てきた雑居ビル街の風景とは明らかに違っていた。

高床式の家のような建物も見えた。
シルクアイランドで見た休憩場所の高床式とは違い、これは道沿いに立つ生活の建物のようだった。外から来た人に見せるための場所ではなく、そこで暮らすためのものに見えた。
川に近い島と考えると、床を高く上げたつくりも、この土地に合っているように見えた。

途中、寺を通り過ぎたあと、道沿いで僧侶にものを差し出す人の姿を見た。
そこは寺の前ではなく、店や看板が並ぶ、町の中の一角だった。
畑や高床式の家だけではない。コダッチには店があり、道があり、人の往来があり、その中に僧侶の姿もあった。

子どもたちの姿もよく目に入った。
私を見て、手を振る子どももいた。観光客がまったく珍しい場所というわけではないのだろう。けれど、プノンペン中心部の観光地で感じる視線とも少し違っていた。
こちらを外から来た人として見ているようでありながら、その場所の日常の中からこちらを見ているようでもあった。

最初は、シルクアイランドという名前から、絹織物の場所を思い浮かべていた。
けれど、実際に島の奥へ進んでいくと、思っていたよりも人の姿が多かった。店の前に人がいて、道沿いに子どもがいて、僧侶がいて、托鉢の場面もあった。
どれも、トゥクトゥクで走っている途中に見えた短い風景だった。立ち止まって深く見たわけではない。
それでも、シルクアイランドという名前だけでは収まらない、コダッチの暮らしの輪郭が少し見えてきた。

島の奥の方へ進んでいくと、数名の子どもたちが道をふさいでいた。
ここから先へ進むなら、お金がいると言われた。たしか少額のリエルだった。日本円にすれば数十円ほどで、ためらうような額ではなかった。
正式な通行料だったのか、子どもたちの遊びの延長だったのかもわからない。けれど、その場ではそういうものとして、小銭を渡した。
そのやり取りも、島の道の一部として過ぎていった。
トゥクトゥクは、その先へ進んだ。


そのあと、休憩所のような場所に立ち寄った。
そこにも機織り(はたおり)があり、人が手を動かしていた。
けれど、最初に訪れた見学場所とは少し雰囲気が違っていた。小屋の中には、食器や水の容器、日用品のようなものも置かれていた。
コダッチの絹織りは、外から来た人に見せるものとしてだけではなく、実際に、今の島の暮らしの近くに続いているように思えた。


トゥクトゥクは、さらに島の奥へ進み、最後に水辺へ出た。
目の前にメコン川が広がり、コダッチ島が川の中にある島だということが、そこであらためてはっきりした。
川沿いには草葺きの小屋のようなものが並び、子どもたちが水辺にいた。
ここにいた子どもたちは、私を気にする様子もあまりなく遊んでいた。
この水辺は、外から来た人が景色を眺める場所というより、地元の子どもたちが遊んでいる場所のように見えた。

水辺には、同じ年ごろの子どもだけでなく、少し年上に見える人の姿もあった。
遊んでいるのか、見守っているのか、ただそこにいるのかはわからない。
けれど、それぞれが別々にいるというより、地元の顔見知りの人たちが同じ水辺を使っているような空気を感じた。

水辺の近くには、はしゃいでいる子どもたちとともに、大人の姿もあった。
売店なのか、休憩所なのか、たまり場なのかは、はっきりとはわからない。
トゥクトゥクのドライバーにとっては、ここは少し休む場所として私に案内したのかもしれない。
けれど、外から来た私には、その水辺に長くいる理由がなんとなく持てなかった。その一方で、そこにいる人たちにとっては、その場所にいる理由がしっかりとあるように見えた。
島の端まで来たけれど、私はその場の雰囲気だけを感じて、そのまま戻ることにした。


水辺をあとにして、トゥクトゥクはフェリー乗り場へ戻った。
フェリー乗り場には、人やバイク、トラックが集まっていた。
私も地元の人たちの流れに混じって、トゥクトゥクごとフェリーに乗った。

帰りのフェリーでも、川の向こうにプノンペンの市街地を見た。
午前中に出てきた町へ、また戻っていく。

川を渡ってプノンペン側に戻ると、道沿いに制服姿の子どもたちが歩いていた。
コダッチの水辺で見た子どもたちとは違う日常があった。
けれど、それもまた、プノンペンで見かけた一つの風景だった。

やがて、トゥクトゥクはプノンペンのリバーサイドへ戻った。
川沿いには、何事もなかったように、いつもの町の時間が流れていた。
日本友好橋も、シルクアイランドも、名前は入口だった。
その名前を頼りに進んだ先で、橋の横には別の橋があり、島の奥には畑や家や、子どもたちのいる水辺があった。
私はそれを少しだけ見て、また川沿いの町に立っていた。
*これは2017年の記録です。
|追記|
|この文章について|
コダッチ島で何が強く残っているかと聞かれると、絹織りそのものではない。
シルクアイランドという名前で向かったはずなのに、あとに残っているのは、橋で感じた少しのずれや、島の道、そして島の子どもたちの姿だった。
午前中だけの短い時間だったので、何かを深く知ったとは言えない。
それでも、名前を頼りに行った場所で、その名前とは少し違うものが記憶に残ることがある。
コダッチ島は、私にとってそういう場所だった。
参考資料:
ウィキペディア/TripAdvisor ほか。
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