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【Re:write】第51話 遠隔の盾と、歌う心臓

―絶望を、書き換えろ。


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夕闇が、廃鉱山の口をゆっくり塞いでいた。

黒い坑道の奥から、湿った冷気が吐き出されている。
岩陰に組んだ即席の陣地には、乾いた土と濡れた石の匂いが混じっていた。膝をついた泥が、体温を奪う。布越しに、冷たさが骨へ染みていく。

カイは、坑道の入口を見据えていた。

アリアはその隣で、両手を膝の上に置いている。指先は白い。けれど、震えてはいなかった。
エラーラは水晶板を抱え、目だけを忙しく動かしている。ドレイクは戦鎚を地に突き立てたまま、肩の力を抜かない。

ミミは、アリアの背中にしがみついていた。

小さな額が、アリアの肩甲骨のあたりに押しつけられている。
呼吸が浅い。服の布が、吸うたびに小さく沈んだ。

カイは喉の震えを抑え込む。

「ミスト。質量五パーセントを分離。先行しろ」

温度のない声だった。

アリアが静かに目を閉じた。
まぶたの下で、視線がわずかに動く。

「ミストちゃん。ウンディーネちゃんを探して」

ミストの輪郭が揺らいだ。
白い身体の端が、薄くほどける。霧のひと房が千切れ、足元の泥を濡らさずに浮いた。

音はなかった。

霧は、坑道の闇へ滑り込んだ。

カイの網膜に、霧の微細な振動が座標として流れ込む。
壁面の凹凸。崩れた支柱。水の跡。地中に残る魔力の濁り。

アリアの皮膚には、別のものが届いていた。

冷気。
狭い石壁にこもった湿り気。
どこかで滴る水の気配。
ミストが触れた暗闇の手触りが、アリアの身体を内側からなぞっていく。

同じ坑道を見ている。
同じ闇に触れている。

それでも、二人が受け取る世界は違っていた。

ウンディーネとの接続が切れた地点まで、残り十メートル。

五。

四。

三。

――キィィィィィン。

アリアの身体が跳ねた。

背中に張りついていたミミの手が、布を握り潰す。
アリアの顎が上がり、喉の奥で息が潰れた。声にならない。目を閉じたまま、眉間だけが深く歪む。

鼓膜を通らない音だった。
空気ではない。
骨の内側に直接差し込まれる、高周波の針。

アリアの指が泥を掻いた。
爪の先に、黒い土が入り込む。

カイの奥歯が鳴った。
握り込んだ拳の関節が、白く染まる。

一拍だけ、命令の順序が崩れた。あの痛みを通したのは、自分だ。

「今だ」

声は戻っていた。
低く、硬い。

「アリア。波形を反転させろ。安らぎのイメージで上書きするんだ」

アリアは歯を食いしばった。

頬に、汗が一筋落ちる。
冷えた夜気に触れ、すぐに温度を失った。

水飛沫。
水面を撫でる風。
ミミの笑い声。

アリアの中で、音の棘とは別のものが立ち上がる。
白い光ではない。強い祈りでもない。
いつかの浅瀬。くるぶしまで浸かった水。跳ねる雫。ミミが両手を広げて笑ったときの、空気の柔らかさ。

暗闇を進む霧の粒子が、一斉に震えた。

不可視の壁が生まれる。
逆位相の干渉波が、ノイズの針を一本ずつ削っていく。

アリアの眉間から、皺が少しずつ薄れた。
詰まっていた息が、細く漏れる。

ミミはまだ、背中にしがみついている。
手の力だけが、ほんの少し緩んだ。

「成功だ」

カイの視線は虚空を見据えたまま動かない。

「継続。反応を探れ」

盾に守られた霧が、ノイズの嵐を抜けていく。

横穴の奥。
崩れた石の下。
泥が溜まり、水が薄く光っている場所。

微小な魔力反応。

そこに、泥にまみれた小さな水たまりがあった。

ただの水に見えた。
けれど、中心だけが細かく震えている。逃げ場を失った小さな生き物が、寒さに耐えるような震え方だった。

カイが思考のままに通信を開く。

「ウンディーネ。俺だ」

しばらく、返答はなかった。

水面に、小さな輪がひとつ広がる。
泥の膜が裂け、鈍い銀色の光が底から滲んだ。

『……マスター。システム汚染十二パーセント。自己修復中……』

声は薄い。
途中で途切れかけ、また繋がった。

アリアのまつげが揺れる。
ミミが、背中越しに息を止めた。

「よく耐えた」

カイは短く言った。

その声に熱はない。
けれど、切り捨てるための冷たさではなかった。

カイはアリアへ視線を向ける。

「アリア。ミストの斥候を二つに分割しろ。片方でウンディーネを包み、入口へ。ドレイク、回収を」

「おう」

ドレイクが闇へ走った。

「もう片方は直進。発生源を特定する」

霧が裂けた。

一方は、水たまりを包むように後退する。
泥の膜ごと、こぼさないように。
壊れた器を布で包むような、遅い動きだった。

もう一方は、ノイズの震源へ直進した。

ドレイクは、泥にまみれた水たまりの前で膝をついた。
質量のある身体が、坑道の狭さに引っかかる。肩が岩に擦れ、小さく石粉が落ちた。

「……待たせたな」

太く硬い指が、泥ごとその水を掬い上げる。
戦鎚を握る手とは思えないほど、動きは遅かった。指の腹に乗った泥水が、落ちそうになって、かろうじて留まる。

戻ってきたドレイクの掌を見て、ミミが駆け寄った。

泥水は、まだ震えていた。
形を保てないほど小さく、声を出す力も残っていない。

ミミは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れていいのか、触れたら壊れてしまうのか、わからない顔だった。

それでも、指先をそっと近づける。

小指の先が、水面に触れた。

「……おかえり。もう、こわくないよ」

水滴が、ミミの指先で小さく跳ねた。

ミミは袖で泥を拭こうとして、逆に少し伸ばしてしまった。
「あ」

小さな声が漏れる。
場違いなほど頼りない声だった。

ドレイクの眉が、わずかに下がる。
エラーラが水晶板から目を上げ、何か言いかけて、やめた。

ミミはもう一度、今度は布の端で、ほんの少しだけ水面の縁を拭いた。
泥はまだ残っている。
けれど、震えは少しだけ小さくなった。

カイとアリアは、残った斥候の視界を通じて、坑道の奥を見ていた。

振動が増す。
空気の密度が変わる。
霧の粒子が、前へ進むほど重くなる。

広大なドーム状の空洞。

中央。

天井から吊り下がる、赤黒い水晶。

その表面を、無数の管が這っていた。
血管のように絡まり、岩盤の隙間へ潜り、また結晶へ戻る。

ドクン。

ドクン。

水晶が明滅するたび、空気が押し返される。
ノイズは音ではなく、圧になっていた。壁の水滴が震え、天井の砂が細く落ちる。

『警告。高エネルギー反応。対象、レギオンの生体端末と九十七パーセント一致』

カイの網膜に、アラートが焼き付いた。

アリアの呼吸が浅くなる。
さっき受けたノイズの残りが、まだ身体の奥に引っかかっている。唇の色が薄い。

カイはそれを見た。
見て、目を逸らさなかった。

「……見つけた」

冷たい息が、唇の端から漏れる。

「セイレーン・ノード」

霧の斥候が、地形を記録する。
壁面。
管の走行。
結晶の高さ。
足場の崩落位置。
退路。

記録完了。

霧は、急速に後退を開始した。

岩陰の即席陣地。

ミミは、ドレイクの掌の中を覗き込んでいた。
ウンディーネの水面は、まだ濁っている。けれど、中心に小さな透明な点が戻り始めていた。

「盾、解除」

カイが短く告げた。

アリアのまつげが、わずかに震える。
張り詰めていた空気の障壁が、霧の粒となってほどけた。

彼女の足元へ落ちる前に、粒は夜気へ溶ける。

繋がっていた感覚が切れた。

カイの網膜から、坑道の座標が消える。
泥の黒さが戻る。夜気が肌に触れる。遠くで、葉擦れの音がした。

アリアの皮膚から、石壁の冷たさが剥がれた。
肩が一度だけ下がる。

二人は、それぞれの体温へ戻った。

夜の森。

頭上の樹冠の隙間から、冷え切った星光が降っていた。
一条ずつ、針のように細い。湿った葉の縁だけが、銀色に光っている。

大気の流れが、額に滲んだ汗から熱を奪っていく。
アリアの髪の先が、頬に貼りついていた。
ミミは手を伸ばしかけた。
指先の泥に気づいて、そっと握り込む。

触れようとして、触れなかった。

地下深く。
赤黒い結晶体が、不規則な脈を刻み続けている。

地表。
岩陰に身を潜めた五つの呼吸が、低く重なっている。

二つの震えは、まだ交わらない。

冷たい夜風が、鉱山の黒い口を撫でた。
乾いた土の気配。
地脈が焼けたような、かすかな鉄の匂い。

それらを孕んだ冷気が、木々の黒い輪郭を抜けていく。
少しずつ。
高く。
さらに高く。

坑道の口は、星の下で、小さな黒い穴になった。


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