サティとドビュッシーの「ジムノペディ」から考える、BGMってなんじゃろな?
先日レビューした穏やかなピアノ曲、ジムノペディ。実はあの曲、後年ドビュッシーによって管弦楽版に編曲されているらしいのです。
でも、ピアノとオケ版で何かが違う。この感覚は以前チョロっと書いた「展覧会の絵」ピアノ版・オケ版比較記事と似て非なるもの。今回はちょっと違う視点での「あれ?」を素人なりに書いていこうと思います。
注意)当記事での記述はあくまでも素人の感想ですのであしからず。少しだけ悪く言う場面もありますので、それが苦手な方はブラウザバック推奨です。
概要:2人の「ジムノペディ」
一つは言わずもがなエリック・サティによるピアノ曲。こちらが原曲。3つのジムノペディと銘打たれているように、3つの楽章から構成されています。曲の詳しい解説はこちらの記事からどうぞ。
一方でドビュッシー。こちらは1897年に編曲された管弦楽曲です。サティ原曲版の第2番をカットし、第3番の後に第1番が来るという自由な構成。二人の作曲家が友人同士だったことで編曲がされたという経緯があり、「展覧会の絵」の編曲の背景にあった商業的な作為や依頼者の存在はありません。それに、友達同士なら原譜の不在なんてことも起こらないわけです。
ただし、「こっちが本家だと思ってた」と言われがちなラヴェル編曲「展覧会の絵」とは違い、オケ版ジムノペディはあまり一般社会に馴染んでいない印象。筆者も前回のレビュー記事を書く途中でその存在を知りました。……なぜ?
その答えを探るべく、ドビュッシーのジムノペディを聴いてきました。以下はその感想を述べていきます。いつもの音楽レビューよりだいぶ感覚的ですが、お許しください。
感想:物悲しく、彩り豊かな管弦楽版
音楽が再生された途端、私は身構えました。ものすごいクラシック音楽感。
「あ、聴かなきゃ」
と勝手にスイッチを入れられたかのような感覚に陥りました。まず見た目もピアノ一台から小規模オケへ。ちゃんとしなきゃというクラシック特有のキッチリ感に襲われます。ピアノ版だと何も考えずに聴き流せるのに、オケ版だと一つひとつの音を捉えようと聴覚が研ぎ澄まされる感覚。良くも悪くもクラシック感のある編曲に思えました。
この曲は古代のどんちゃん騒ぎが元ネタなのに、それを皮肉るかのように静の音楽となっているのが特徴。どちらのバージョンでもズンチャー、ズンチャーという一定のリズムに乗せて、純朴なメロディが奏でられます。
弦楽器の奏でる物憂げなメロディー。花曇りの午後のベランダみたいなスッキリしない感じと言えばいいのか……。じっとりとした、湿度の高い音が流れ込んできます。良くも悪くも夢想的なドビュッシーらしい音の重ね方だなと思いました。濁った色彩のパレットが頭によぎりました。
遅れてやってくる第1番もとにかく美しい。これじゃ男どもの祭典じゃなくてギリシア美人の彫刻のようだ、と感想を抱かせるように終わります。曲の不気味さはそれほど感じられないので、ピアノのジムノペディが怖いと思う人にはおすすめの編曲です。
考察:聴かせる音楽とBGMみたいな音楽
・オーケストレーションと温度感
ドビュッシーの代表曲「月の光」のセルフカバー(管弦楽版編曲)にも言えることですが、ドビュッシーのピアノ⇒オケ編曲は温度感を与える作業のように感じられました。ピアノ版だと冷たく気高い月の光。これが管弦楽版になるとキラキラ輝いた温かい慈愛の光のように感じられるのです。
そして、展覧会の絵の際でも触れたのですが、オーケストレーションをすると音がカラフルに感じられます。これはピアノだけではできない表現方法や音色の種類を付与することができる、という意味合いで捉えてください(最後にリンクを添付)。その彩り具合が温度感を生み出すのでしょう。
ここではオーケストレーションすると、元の曲にフィルターがかかる状態になるという点を覚えていてください。個人的に展覧会の絵はそのフィルター効果でヒットしたと考えているので、一概に悪いことではないのです。
・シンプルさを取るか、オケ的美しさを取るか?
問題は、サティの音楽が温度感フィルターが要らないくらい完成されていたという点。もちろんドビュッシーも彼にしては控えめな表現方法によってサティの音楽感を忠実に再現してみようという意図は読み取れるのですが、私は管弦楽版に「そこまでは求めてないよぉ……」みたいな感想を抱いてしまったのです。のつこつすると形容するべきか、ちょっとした飽食感と言うべきか。曲に対する感想は人それぞれなのでこの意見に賛否あるのは承知していますし、ドビュッシーの編曲を否定しているわけではありません。
ただ、文句をつけるだけだとクレーマーみたいなので、ここからは私の抱いた違和の正体を分析していきます。
まず、サティのジムノペディはとにかくシンプル。余計なものを排除し、要素を削りに削ったストイックな構成をしています。それこそ明白なサビも、それに至る煽りも必要ありません。しれ〜っと始まってしれ〜っと終わる。当時としても今としても実に斬新な音楽です。このシンプルな音楽はラヴェルのボレロにも受け継がれているような気もします。
シンプル・イズ・ベスト
楽器の違いという要素までもがノイズに聴こえてきてしまうほどの断捨離具合。それほどまでに、サティの模索した「音楽的ミニマリズム」はシビアなのです。だからこそ、オーケストレーションによって付与される温度感が余計に悪目立ちしているのではないかな、と筆者は考えました。
そこで鍵となりそうなのがジムノペディの音楽はBGMの特性を持っているのではないかという説です。ジムノペディがBGMだとまでは言い切りませんが、限りなくBGMに近いクラシックという意味です。
・音楽とBGMの真ん中で
もしもサティのジムノペディを音楽として分析した時、あまりに異質な構造が浮き彫りとなるでしょう。近代的な音楽への意欲的な探求。多くの音楽人が頭を抱えたある種の問題作です。
でも、BGMとして聴いてみたら? さほど違和感もないし、ちょっと不思議な曲だなぁくらいの感覚になるはずです。
そもそもBGMとは何なのでしょうか。
ビージーエム【BGM】
〘 名詞 〙 ( [英語] background music の略 ) 職場、店内、駅の構内、公園などや、映画、テレビの画面の背景に、一種の雰囲気をかもし出すために流される音楽。バックグラウンドミュージック。
雰囲気を演出するための音楽。つまりそれ自体が主役になっていないということ。これはジムノペディに感じられる曲のシンプルさとリンクするのではないか、という考察です。
ここで勘違いしてほしくないのが、動画の背景に流すBGMが曲として評価されることもありますし、演出の内容によっては第九や運命などの有名クラシックが使われることもあるということ。曲としての優劣ではなく、それに演出としての適性があるかの軸で語っています。
続けます。演出としての音楽はそれに関する感情が単純なほど扱いやすい……第九なら「歓喜・完成・満足」、トッカータとフーガ(俗に言う鼻から牛乳)なら「悲しみ、絶望、恥ずかしい失敗」といった具合。ジムノペディはどうでしょう。悲哀・皮肉・シュールな笑い・怖さ・穏やかさ・安らぎ……使う場面によって多様に変化していく、単純な感情がたくさん含有されています。使う人の想像次第でいかなるシチュエーションにも合わせられるという万能な演出音楽に感じられませんか?
その万能が、オーケストレーションによって「美しさ・調和」に調整されてしまった。ピアノ独奏だからこその想像の余地、余白のようなものを楽器の多彩さによって埋められたように思えました。おそらく管弦楽版ジムノペディに感じた違和感の正体は、この万能BGM感の消失というのが今回の結論です。
まとめ
サティのジムノペディは無理に聴かせない、環境音のような音楽でした。聴く者に余白を与え、音楽なのに主役らしからぬ特殊なBGMっぽい音楽。
一方でドビュッシーの編曲は、当時としては異端すぎる音楽に色彩や温度感をプラスし、人々に受け入れてもらおうと画策した(※友情)ように思われます。それは同時に、ピアノ版のシンプルさによるBGM感を低減し、曲を真の意味で主役にするという試みでもありました。
どちらの曲にも良さがあるので、一概にどちらが悪というわけではありません。ただし、ジムノペディは特殊すぎるあまりオーケストレーションによって本質が失われてしまったようにも思います。
ジムノペディに限らず、サティの楽曲は家具のような働きをしたといいます。それはすなわちBGMの先駆け的存在であるということ。肩肘張らずに聴くことができる楽曲は、近くに置かれても主張しない極上の家具であり、現代を生きる我々にも受け入れやすいものであると思うのです。
おしまいに
5月17日がサティの誕生日という情報を得て、急ごしらえで書き始めたのがこの記事です。ちょっと日付は過ぎちゃったけれど、生誕160年の枠内だからどうか許してください。
さて。なぜ今回ここまで注釈が多いのかと言うと、短絡的にジムノペディはBGMだと捉えてほしくなかったからです。このご時世、かいつまんで解釈する人も多いので。もしもこの記事がAIに抜かれてそう解釈されてしまうようであれば、ちょっと怖いな。
さて、本アカウントでは執筆に関してAIを使わないことをモットーにしております。理路整然していないのでわかりにくい箇所も多かったかもしれませんが、本記事をAIでまとめさせたらそれこそピアノ版のオーケストレーションと同じような気もするのでやめておきますね。
最後に、私はドビュッシー大好き人間なので、彼のアンチというわけではありません。沈める寺と牧神の午後への前奏曲、大好きです。こういう尖った記事を書く方が悪いかもしれませんが、敵は増やしたくない。どうぞ、皆さんお手柔らかに……。
参考音源
オレンジの背景も相まってなんだか物悲しいジムノペディ。第1曲(後半の)では原曲よりも均衡と温かみを感じられる平和な終わり方となる。オーボエソロでのニュアンスが解釈一致しすぎていたのでご紹介。
・おまけ
今回の記事はいかがでしたか? もしよければ「♡スキ」を押していただけると、今後の創作活動の励みになります。また次回の更新もお楽しみに。それでは、最後までありがとうございました!
