【映画評】『映画キミプリ お待たせ!キミに届けるキラッキライブ!』が観られる世界でよかった。
映画キミとアイドルプリキュア♪ お待たせ!キミに届けるキラッキライブ!
日本 , 2025
監督:小川孝治
上映時間:71分
公式サイト
https://2025.precure-movie.com/
1.ゆゆしき異常事態
なんでこんなにダイスキになっちゃったんだろ…
おはようからおやすみまで、ううん、寝てる時も!
わたし、心キュンキュンしてます!
……俺じゃあねーか。
この数週間というもの、
この映画を観る(泣く)
おうちで劇中の音楽を聴く(泣く)
夜にライブシーンなどを思い出す(泣く)
またこの映画を観る(もっと泣く)(以下繰り返し)
というGR∞VE L∞Pから抜け出せない。誰かデバッグしてほしい。
気付けば9月も過ぎたというのに、読書の秋もスポーツの秋もかなぐり捨てて『キミプリ』の秋であり、涙腺はもうお釈迦である。きっと同じようなおともだちが全国に量産されているはずなので、今こそ原告団を組んで東映を訴え、この映画をエンドレスロングランにさせるべきではないだろうか。
これが沼というやつなのか…今なら、本編18話(『キミは誰!?ハートズキューンされちゃった♡』)でズキューン沼にハマった主人公咲良うた / キュアアイドルの気持ちが「心」で理解できる。
いや、もちろん『キミプリ』は本編から素敵で楽しいキラッキランランなシリーズだし、だからこそ劇場版も観に行った。しかし、この映画は明らかに異常事態。外れ値を叩き出した感がある。
2.こんな経験ありますか?:「推し」の功罪
「推し」という言葉が人口に膾炙してすっかり久しい。
いまやアイドルやアニメキャラに限らずスイーツからブランドから文房具に至るまで老若男女が馬でも骨でも推す時代となった。
『キミプリ』はそんな時流に乗ったアイドルコンセプトのプリキュアだと思うのだけれど、ただ流行になびいただけではなく、今や拡散した「アイドルとは?」「推しとは?」をこの映画だけで再定義し、説明してしまっている。もちろんお子さまにも伝わる物語を通して、たったの70分ちょっとで。まずはそこに震えたい。
この本質をぶっ刺してくる感じは、何も今作に始まったことではない。プリキュアシリーズは常に、ある大きなテーマに対して《対話》を怠らずにシーズンを通して考えていくアプローチを大切にしてきたと思う。
ここでいう対話とはつまり、主人公たちの主張をゴリ押すのではなく反論も用意して考えさせることだ。
各シーズンのヴィランサイドの思想や行動原理は多くの場合でプリキュアサイドとわかりやすい対比構造をとり、プリキュア自身も彼らとの対話を通してマインドを更新し、精神的に成長していく。


この姿勢は今回もやはり守られていて、映画の中で丁寧に展開される。
まずは序盤、アイアイ島のアイドルフェスティバルに招かれたアイドルプリキュアたちは、かつて島を守護する女神を歌と踊りで元気づけた巫女の伝説をきき、「女神と巫女の関係はファンと推しアイドルの関係と同じ」と定義する。

お互いに元気を与えあうことで、毎日を頑張る活力を得る。そんな構図は確かにわかりやすい喩えであり、『キミプリ』のコンセプトと重なるところ。
しかし同時に、これは美談であり理想形だ。言ってしまえばタテマエ的であることを、現実を生きるわたしたち大きなおともだちは既に知っている。
そこにホンネをぶつけて揺るがす存在が、映画オリジナルキャラである女神アマスと孤独な少女テラだ。
推しアイドルに絶望して職務放棄したアマスと、そんなアマスやアイドルに「無責任」と憤りを隠さないテラ。2人はそれぞれafter推し / before推しともいえる立場で、周縁から渦中に対する反論を行うのだ。


大好きな推しをもつことにはプラスもあればマイナスもある。
推しという他者を拠りどころにして自己肯定感・自己効力感を得る行為は、ともすれば「依存」に繋がり得るからだ。
この推し依存についてライブ感あふれる文体で生々しく・解像度高く描いた作品として記憶に新しいのが、2020年に芥川賞を受賞したことで話題にもなった宇佐美りんの小説『推し、燃ゆ』。
本文中には、推しの喪失を前にしたこんな一節がある。
やめてくれ、あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。
完全に寄りかかってしまうと、推しの引退や炎上、あるいは自分の好意や期待に応えてくれない…といった拗らせなどによって、自己がダイレクトにぐらついてしまう。アマスは「背骨」をなくしてしまったのであり、テラはそもそも自分の進退を他人任せにするなんてのは弱さであり理解できないと批判する。
↓※関連:「推し」のロスは(死に限らず)グリーフ反応を誘発する
アマスとテラは対照的な立場に見えるけれど、いずれも「孤独に耐えて自らの責務をがんばってきた」共通点もある。
そこに差し込む推しという光の可能性、それに対して「出会わなければよかった」あるいは「初めから避けておけばいい」という考えは表裏一体であることに気付くだろう(そして、この構図は中盤以降のストーリー展開にも直接的に関わってくる)。
3.理屈を超えて自然に:それでも「推せ」!
そんなホンネをぶつけられてなお、今作は、アイドルプリキュアは、「キミを独りになんかさせない!」ともう一度目の前に立ってみせる。

アマスとテラ、そしてアマスの推しだったアイドルにまつわる哀しい真実を知ったプリキュアたちは、受け取った彼女らの想いを再び繋げ、「アイドル」「推し」の存在意義を構築し直すのだ。
ここでまずその答えを端的に書くならば、推しというフィルタを通して「この世はそんなに悪くないよ」と気付かせることだった。
仮にその推しを何らかの形で喪失したとしても、推しを推していたときの充実や感動は嘘ではない。出会えたこと自体に価値があり、その推しを愛せたキミ自身にも何か美しいものや良いものを発見する才能があること。
そしてその推しが笑って存在した場所なのだから、キミならもう一度この世界を推せるはずであること。世界のきらめく断片から、「推し」との物語を再構成できるはず。
↓※関連:喪失は過去を物語化して意味づけ・整理することによって克服できる可能性がある
https://www.participations.org/16-02-07-schiavone.pdf
プリキュアたちを襲うヤミクラゲは、森や珊瑚礁といった自然、あるいは人間さえも真っ白な石に変えてしまう。いわゆる闇堕ちとはつまり、自分にも周囲にも目を向ける余裕をなくし、すべてが無味乾燥で色のない存在のように感じてしまう状態のことなのだろう。


しかし、アマスとテラが生命力を取り戻したとき、再び世界は鮮やかに色づき、アマスのモノクロ(セピア色)だった回想の場面にも天然色が甦るのだ。「思い出した…世界はこんなにも美しい」。
そしてこのようなメッセージを成り立たせているのは、何よりもアニメーションの魅力に他ならない。中でも中心に置かれた主人公咲良うた / キュアアイドルのアイドルたる説得力、その演出がすさまじい。
本編でもちょうど、アイドルプリキュアの中でもなぜキュアアイドルが自然とセンターに収まるのか?という回(31話『アイドルプリキュアのセンター!?』)を終えたところなのだけれど、今作ではうたがアイドル嫌いを宣言するテラを「攻略する」過程によって実証していく。

うたは何かにつけては「キラッキランラン~♪」とすぐ歌い出しちゃう女の子なわけだけれど、今作ではその本質を明らかにしている。彼女が歌うのは、目の前に美しいものを発見したときだ。
「宝石みたい」な夕焼けや、満天の星空、思いがけない出会い、そしてかっこよく魚を獲るテラの姿…
この世は注意を向ければメロディに変わるような驚きや美しさでカラフルに溢れていること、キミといるからこそより輝いて見えること。「推す」ことの意味を体現して教えているのだ。愛され上手は愛し上手、世界を推せるうただからこそ推されるに足るという納得感がある。
劇中で、蒼風なな / キュアウィンクや紫雨こころ / キュアキュンキュンが「アイドルと歌手のちがいって何なんだろう?」と問いを投げたりするのだけれど、一つあるとするならばこの「寄り添い」(笑顔の"ユニゾン")なのかもしれない。今シリーズがなぜ『キミとアイドルプリキュア』なのかが詰まっている。
このプロセスは、丁寧な作画、音楽、情感の台詞によって盛り上げられる。それらが波状攻撃的に蓄積し、かんたんに推したりなんかしない!と頑なだったテラの瞳が次第に揺れ、ついにうたの姿が直にぶち込まれた瞬間、ハートが爆発するような感動を覚えてしまう。

これが「推す」ってことなんだと分からせられるというか、いや推しに限らず一度でも何かや誰かを大好きになったことのある人なら、そのときの高鳴りを思い出せるんじゃあないだろうか。
4.もう心キュンキュンしちゃう:馬瀬が止まらない
そしてやはり、トドメを刺すのは『キミプリ』らしく音楽の破壊力だ。クライマックスには怒涛のファンサの嵐が待つ。

お馴染みの劇中歌が矢継ぎ早に披露され、ピンチには先輩プリキュアが駆けつけ、超作画でのアクション披露…まではまあまあ映画のお約束として、そこからのアノ演出は初見時もはやパニックである。
サプライズのインパクトに、『キミプリ』=アイドルだからこそ可能となる必然性。エモーションとロジックの両方を灼き尽くされてもうライフはゼロなわけだけれど、そこからラストにかけては更に何段階かの畳みかけが用意されてオーバーキル。半分暴力と言って良い。
こんなのやり過ぎであり、耳と目が追いつかない。そりゃあまた観に行っちゃうよなって感じだし、今作を特別な一本にしていると思う。
そんな中でひときわ燦然と輝くのが、映画用主題歌として用意された新曲『♪HiBiKi Au Uta♪』。
この楽曲は単にめちゃくちゃ良い曲というだけに留まらず、映画自体と完全に融合している。
初めはうたのハミングから生まれたこの曲が、上述の「テラちゃん攻略編」を通して何度かリプライズされながら、その度に進化していく。歌詞がつき、伴奏が足され、振りが出来て、最後にはアイドルプリキュア5人によるバージョンへ。
このアプローチにはクライマックスへ向けて楽曲を観客に刷り込む効果もあるだろうし、うたが世界の美しさをインプット⇒歌としてアウトプットすることによって進化していく流れは、この映画が提示した「アイドル」「推し」とのあるべき関係性そのものといえる。
楽曲の構造に目を向けても、ストーリー性を強く感じ取ることができる。
特徴的なのはBメロの途中(2行目)に仕込まれた転調だけれど、ここの歌詞は「世界はほら こんなに今 キラッキランラン」。
まさに劇中のアマスやテラのように、世界の美しさに気付いた瞬間の驚きと高揚が、不意打ちで半音上がった調として表現されているんじゃあないだろうか。加えて、バックでは花がその瞬間に満開になったような歓喜のコーラスが銀テープのごとく噴き上がる。

続くサビでは再度転調。今度は中心となる音が自然にふわっと下がる転調で、母のような広がりと安心感で包み込む。
「喜ぶキミを見ると 嬉しくなる」。こんなにシンプルで、だからこそ真理にも思えるようなラインが、推す側・推される側どちらにも初心を思い出させてくれそう。仏様やん…(いいえ、ゴッドアイドルです)
こんなに複層的に結びついた物語と音楽の楽しみ方はなかなかできるものではなく、瞬間最大風速は『ウィキッド』並みと言ってなんら過言ではない。
この『キミプリ』の音楽たちを生み出しているのが、多くの編曲や劇伴までも含め馬瀬みさき氏であるという事実。キュアウィンクは「おそれない心で 転調をかさねていくの」などと歌っていたけれど(2番)、ちょっとおそれなさすぎておそろしいかもしれない。
5.おわりに:たくさんの「キミ」へ
ひとつ懸念があるとするならば、映画がこんな完成度だとあと本編でやることあるんか?ってくらいだろうか。
最近、30話を越えてそろそろ佳境のはずだというのに「お相撲さんがアイドルになるって駄々をこねる話」とかやってた気がするのだけれど…いやまさかね…

でも映画は大人に響くところが多かったような気もしたし実際に重たい話でもあったので、本編はあくまで明るく楽しく、でちょうど良いくらいかもしれない。
それに、この映画はもはや「プリキュア映画」の枠を飛び越えた「本質映画」だったと思う。
これから先、もしも「推し」やそれに準ずる何かや誰かについて悩んだり哀しくなったりすることがあったら、駆けつけて助けてくれる作品なんじゃあないだろうか。それってあまりにも『プリキュア』であり、一億総推し持ち時代となった現代のエリクサーなのだ。タイトルの『お待たせ!』は裏切らない。

『推し、燃ゆ』の主人公は、心身ボロボロになりながらも最後には微かな光明を見つけ出した。同様に、この映画も最後には「自分が気付かなくてはならない」と言っている点で実は共通している。
世界は美しい、でも時に厳しく、つらい。そんなとき、振り返れば何度でも待っていてくれるこんな映画があることは何よりの心強さになり得る。『キミプリ』を推せる世界を、今こそわたしは推そう。
小ネタ集
癖のバーゲンセール
多様な種族が集まるアイアイ島のアイドルフェス。これを機に様々な癖の種を全国の児童に植えつけんとする製作陣の野望を感じる(陰謀論)



アクション
劇場版らしくアクションはキレキレ。キャラ同士の関係性がコンビネーションの中で見えたり、なんてポイントもいちいち細かく押さえてくれてる。




ファッション
メイン3人の劇場版私服がみんなかわいい。
ガーリー全開のうた、麦わらド清楚おねえさん・なな、キャップとオーバーサイズでストリート感のあるこころ。

各キャラの個性
限られた尺の中でこれだけ色々な要素を回収しながら、うたやテラ、アマス以外のキャラクターもみんな洩れなく見せ場がある。被ることなくロールを分担しているからだ。
そして、ちょっとしたカットがいちいちかわいい!なんで映画館には一時停止ボタンないの!ってなってた。
冷静に状況を分析するなな、アイドルに関することには誰よりも前のめりでアツいこころ。


話が重たくなりかけたところにギャグ成分を足してくれる天真爛漫なプリルン、人を思いやってツッコミ役まで手掛けるようになったメロロン。


更にはタナカーンまでがかっこいい。必見。
音楽づかいが細か巧すぎる
・OP『キミとアイドルプリキュア♪ Light Up!』リハver.
映画冒頭、アイアイ島のステージでリハーサルをするアイドルプリキュアたち。曲はお馴染みのOPなんだけれど、5人が歌っているバージョンなのに加えてリハーサルらしい仕掛けが施されている。ホールっぽい音響や、踊りながら歌っているなら自然な声の揺れなど。この細やかさにツカミは十分、どうやら本気だこれ…って悟った瞬間だった。
あとぐるんぐるん動くカメラワークもかっこよすぎ。「決意、リボン、結んで!」の瞬間だけでもチケット代は報われる。
・2回かかる『Awakening Harmony』
ズキューンキッスのみ持ち歌が2回歌われる。2回目のそれは全員分まわす義務もありつつではあるんだろうけれど、場面ともしっかりリンクして意味ある使われ方になっている。
「私の気持ちなどわかるものか!」と怒りをぶつける相手に対して、ちょうどAメロの歌詞「暗闇のまんなか…」が被さるのだ。かつて闇に吞まれそうになったメロロンだからこそできる共感。
ふだんのTVサイズだとAメロパートはかからないので、あえて聴かせにきてるのには意思を感じるところ。
・『♪HiBiKi Au Uta♪』ラスサビのアレ
ラスサビでは、既存のメロディに被さるようにカウンターメロディが歌われる。
そのパートを歌っているのはキュアアイドル(松岡美里)の声のため、主人公らしいソロパートの見せ場かと思っていたのだけれど、最近明かされたCVに関するある事実を踏まえると、もしかしてあれを歌っていたのは…?
とか考えるとまた泣いちゃう。
瞳と手
上述のテラちゃんに代表されるように、瞳の描き込みには力の入り具合を感じる。光が揺らめく瞳が端々で印象的で、何かに感動する(できる)ことの尊さが伝わる。目まぐるしいアクションの中ではあるけれど、つばあげコンビの瞳にも注目。

あと、要所要所における「手」の造形がフェティシズムを感じるレベルで良い。指や爪がやたら美しすぎるのだ。
たとえばうたとテラが繋ぐ手、小さく挙手したこころの手、泣き顔を覆うななの手…などなど。
