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実績紹介④|音楽の仕事|過去作品のリマスタリング・デジタル解禁にあたり

合同会社raco project(ラコ・プロジェクト)の阿部です。本日は実績紹介としては4つ目の投稿です。

前回は、現在の仕事のひとつ、マネジメント・トレーニングの仕事についてご紹介させていただきました。

今回は、本来このnoteでは音楽関連は取り扱わない予定だったのですが、とある事情から急にホットな話題になってきたので、音楽の仕事についてもちょっとご紹介させていただきます。

私はかつて「racoustik(ラコースティック)」という名義でユニバーサルミュージックの全国流通で2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースし、2枚のコンピレーションアルバムに参加させていただいたことがあるのですが、

このたび、その2枚のアルバム(シングルA面曲含む)が最新リマスタリングの上、各種サブスクやSNSで解禁となり、またリリースのタイミングでFMで再度オンエアしていただく、というような流れとなりました。

今回リマスタリングして再リリースされる作品は下記の二つです。

「たわんだ大気圧」2009年
「ざわめく木々の音楽」2012年

私のキャリアのスタートが音楽だったことは、過去の投稿で若干言及しています。

紛らわしくて恐縮なのですが、今回リリースされるのはracoustik名義の作品でして、本投稿のヘッダーの画像は、その前にやっていたTWELLVEというバンドのモノです。(今回TWELLVEは再リリースはされません)

今回、音楽の仕事について何か書こうと思い出してみたところ当時の記憶から思い起こされたので、本日はそこから赤裸々にお話ししてみたいと思います。

私は、大学院の研究室に在籍当時にTWELLVEというバンドでデビューすることとなりました。研究と音楽、どちらも心から真剣にやりつつも「研究と音楽なんて浮世離れした活動が両方うまくいくはずがない、どちらかがきっと限界が見えてダメになるだろう、そのときは残った方をがんばろう」というつもりでどちらも奮闘していたのですが、結局「研究もある程度軌道に乗り」「同時に音楽のデビューも決まる」という状態になり、かなりうろたえたのを覚えています。

さいわい、TWELLVEはデビューシングルから注目をいただき、当時の数多くの雑誌(思えば当時は紙媒体が完全にメインの時代でした)でインタビューをいただくような流れとなりました。

ヘッダーの雑誌の画像は、デビューしてまもなく、2005年の正月に撮影したフォト・セッションの写真のひとつを用いて、音楽雑誌ROCKIN’ON JAPAN(ロッキング・オン・ジャパン)で“ニューカマー”として見開きでご紹介いただいたときのものです。

この日のカメラマンの方は、普段は美輪明宏さんを撮影している超大物の方だと聞かされた記憶があります。

極寒の中、春に発売するシングル用の宣材写真だったので、薄着で屋外。全身にカイロ貼りました。

フォトセッション中、私は、そのカメラマンの方から

「もう少しセクシーな目つきで」

「下唇をつきだす感じで(私は当時自分の唇の厚さが死ぬほどコンプレックスでした)」

と次々要求されました。

私は「違う違う、なんだこれは、こんなはずではない」と思いながら、流れに抗えず、なすがままに。

その頃、私はある音楽事務所にも所属していて、そこのディレクター/マネージャーの方からも

「メガネは外して」

「髪型はパーマをかけてもっとふんわりさせて」

「東大大学院在学中の王子様的キャラで」とあれこれ言われていました。

若くて、世間知らずでナイーブだった私は、心が傷だらけになりながらも「これが、昔から憧れてた、音楽で食べていくという道なのか」と、自分に言い聞かせて日々を乗り越えていました。

当時は、SNSもなく、ブログも出始めぐらいで活用の仕方が確立されておらず、「作り上げられたイメージ」が一人歩きするのが普通の時代でした。(現在の音楽業界の実態がどうなのかはわかりませんが)

そんな時代に、当時ものすごく影響力のあった有名音楽雑誌ROCKIN’ON JAPAN(ロッキング・オン・ジャパン)で見開き2ページの取材・記事掲載が決まった!と大喜びしていたら、質問されて正面から否定したことが、なぜか肯定した感じの私のセリフとして記事になったりして、頭が真っ白になり、絶望したことを覚えています。

※当時のレーベルとメディアの売り出し方は私を“ポスト小沢健二さん”としたかったらしく、インタビュー中に3、4回「で、阿部くんは小沢健二にあこがれて東大に入ったの?」と質問され、そのたびに「いやだから違います、自分は人類進化の研究がしたくて、それを専門に研究できるのが東大か京大しかなかったので猛勉強して大学院に入ったんです」と繰り返し否定したのですが。記事の中では「ちなみに阿部くんは、小沢健二にあこがれて東大に入学し・・・」などと紹介されてしまい(特にこの雑誌は、事前に記事内容の確認ができずに勝手に書かれることで有名だったのですが)、これが「平気で捏造する音楽業界のメディアの世界なのか」と呆然とした記憶があります。

その頃、私は「周囲の大人の期待」に応えようと必死で毎日過ごしていましたが、タフさのカケラもなかった、ナーバスな私の精神は少しずつ侵食され、完全にバランスを失いました。

マネージャーの方とともにすごい数の(当時のほぼ全社?くらいの)メジャーレコード会社の方々と「打ち合わせ」と称した飲み歩きをしました。将来の夢や期待が膨らむようなお話も沢山ありました。一方で、明らかに矛盾したダメ出しもたくさんもらいました。

やがて私は、自分が誰なのか、何のために自分が音楽をやってるのか、わからなくなっていきました。

ストレスで顔の肌がボロボロになり、片方の眉毛が全て抜け落ち、あるテレビ番組に出演する時には、それらを覆い隠すような不自然な厚塗りメイクをされ、くっきり不自然眉毛を描かれてまた失望し…。

あるところで、ふいにプチンと糸が切れ、自分はこの世界に向いてないから辞めよう、と考えて、リーダーだったくせに、バンドの脱退を決意しました。

辞めることを決意して、関係各位に伝え終わって一波乱終わった後、落ち着いて考えます。

「自分は本当に音楽そのものを辞めたいのだろうか?それとも、明らかに不適応を起こしている『この状況』を辞めたいのか…?」

大分考えこんで思い悩んだ結果、自分はまだ、自分の立てた仮説で、自分のやりたい手法をもちいて、自分の書きたい音楽を書いてやりたいようにやり、それをもって自分の力で交渉して、道を切り拓いてみるということをやれていない、と思い至ります。ここで辞めたら心残りだな、と。

そこで、バンドを脱退した私は自分の音楽プロジェクトをracoustik(ラコースティック)と名づけ、自分でレーベルを作り、演奏メンバーとも、制作エンジニアの方とも、レコード会社(ユニバーサルミュージック)とも、音楽出版社とも、デザインチームとも、イベンターの方とも、メディアの方とも、ファンの方とも、それぞれ自分の言葉で信頼関係を築き、ライブ活動を重ね、アルバム制作に至りました(当時はCDが本格的に斜陽になる前の最後の時期でした)。いくつかの企画のコンピレーションにも参加しました。

結果として、前のバンドTWELLVEで“大人たち”の言いなりでやっていた頃よりも、何倍も売れました。

「そうか、業界の人達がさも真実を捉えたかのように色々言ってくることも、結局はその人達の“好みと勘”の話でしかないのだな」と体感しました。

結局のところ、音楽の当たりはずれは予想できず、裏付けは薄いのですのですね。

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と、いう感じで、本日は「音楽でデビューした頃と、その後自分で自分の制作・マネジメントをすべてオーガナイズしはじめるまで」のころの記憶を書いてみました。

デジタル解禁の再リリースは3月下旬の予定です。そこまでにあと何回か、音楽の話も思い出してしてみようかな、と思います。ここまでお読みくださりありがとうございました。

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