献金と不信仰
私はずっと神様に負い目があった。
それは、献金についてだ。
今は晴れて、十一献金をしている。
十一献金がクリスチャン界隈で割と嫌われてるのは知っている。
その主たる原因は他人に強要される、されたからの一言に尽きるのではないかと思う。
また教会によっては、献金の使い道が不道徳だったということもあるかもしれないが、そういうことが今回の論点ではないことを先に断っておく。
私はかつて、浸礼以外は洗礼ではないと思うようなゼロ百思考の持ち主であり、
先鋭化したパリサイ人だった。
十一献金についても、心の奥底では真面目にやりたかったのだ。
しかし、私はここで書いた自己嫌悪と同等かそれ以上に自分にかけた呪いがあった。
それは、「私はお金を稼げない人間だ」という呪いである。
だから、献金をすることによって自分のお金がなくなってしまうことが恐怖だった。
この恐怖は、神様は何でも不足なく与えてくれるというみことばを、本質的には信じていないために起こるものだ。
「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
倒れる前の夫が、お金の本質について書いたこの本を買ってくれた。
この本曰く、お金の正体を突き詰めると、天然資源か労働力のどちらかに行き当たるというものだった。
この見解は稼げない呪いから、少しだけ私を解放してくれた。
というのも主婦の仕事の対価はゼロであるが、
労働には変わりなく、本来お金に換算する価値があるものだという自信に繋がったからだ。
主婦の家庭内労働を外注したら結構な金額になるというのは、色んなところで試算されてはいるが、その事実を真剣に受け止めている夫や、家庭はどのくらいあるだろうか。
そして、この家庭内労働を請け負う主婦が、知らずのうちに自信を失う呪いの構造は、何もうちだけに限らないと思うようになった。
少なくとも主婦業はもっと評価されてしかるべき内助の巧である。
しかしながら私は、元々数字に関してチャランポランな人間で、夫に家計を丸投げしていたこともありここには負い目があった。
また何かの折に、家計簿をつけようとすると夫に無碍もなく断られることが続いた。
夫が倒れ、家計状況がわかると顔面蒼白に変わった。この件で夫は夫で、家計の不正利用をしていたことが明るみになった。
夫頼みだった家計は火の車だったのだ。
会社の倒産危機も重なり、お金のことについて夫婦共々悩まされた。
さて、十一献金といえば、お馴染みのマラキ書である。
「人は神を偽りうるか。 あなたたちはわたしを偽っていながら どのようにあなたを偽っていますか、と言う。 それは、十分の一の献げ物と 献納物においてである。 あなたたちは、甚だしく呪われる。 あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。 十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。 これによって、わたしを試してみよと 万軍の主は言われる。 必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。 また、わたしはあなたたちのために 食い荒らすいなごを滅ぼして あなたたちの土地の作物が荒らされず 畑のぶどうが不作とならぬようにすると 万軍の主は言われる。」
試すなという神様が、十一献金については
試せと言っているのが面白い点だ。
十一捧げないことによって神様から盗んでいるということを裏返すと、
人生は、そもそも収入の9割で事足りるということだ。だから本来、収入の100%、自分のために使えると思うこと自体が、実は間違っている。
また、レビ記を読めばこう書かれている。
「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。」
このように十一献金とは、神様の作った世界の法則である。
そもそも天然資源も労働力(=気力➕体力)も全て神様が作ったものなのだ。神様のものは神様に返すというのが人間の原則である。
「彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」」
この聖句から、税金を払っているから、
それをもって十一献金とする説が、
神様に対しての不誠実な態度であることがわかる。
税金=皇帝(カイザル)=この世のものである。
とはいえ神様はこの世の物理法則の外におられ、お金、富を必要とはしないため、当時の献金は祭司職専任のレビ人の生活を支えるために使われた。
レビ人は祭儀を勤めとし、とても重要な役割でありながら、それ自体が物理的な収益を産むことはない。
そのため、この献金が用いられるのである。
(面白いのは、そんなレビ人にも十一献金の義務があることだ。)
実質、稼ぐことができない人を稼ぐ人が支える合理的かつ優しいシステムだ。
この考え方は、レビ人と同様に稼げない主婦業も肯定してくれる気がする。
主婦業を軽視する現代人にとって、十一献金もまた無意味な制度に感じやすいかもしれない。
現代のクリスチャンは、現代のレビ人、更にその中のケハテ族のように、最も神聖な勤めをする牧師を支えることを喜んですべきだと思う。
すべての富は神様からいただいているからである。これは、クリスチャンの富の再分配制度とも言い換えられる。
(ちなみに我が家は、十一の中から教会以外にも3団体ほどに定額の募金という形で、献金している。)
しかし理屈の上ではそう思えても、私自身が実行できていなかった。
浸礼という一度きりのセレモニーにこだわるのは簡単だったが、十一献金のように生活に密着した教えは無視せざるをえなかったからだ。
私は毎月の給料から1割取り分けて、献金するという秩序を作るまでに実に5年を擁した。
だがそうしてるうちに、この不信仰が家計の破滅を招いた。
ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
それでも不思議と方々からの助けがあり、自己破産を免れたことは奇跡だったと思う。
献金に纏わる一連の経験により、みことばを1つ守ることも、とても難しいと実感した。
まじめに献金を始めると、
雪解けとともに、我が家に大きな救いが訪れた。
夫と細く長くつながっていたとある方が、信じられないほどの好条件で夫の人生の立て直しを申し出てくれたのだ。
もちろんこのような結果を忍耐して待っていたのだが、怒涛の勢いで色んな伏線が美しく回収されていて、状況を理解するのがやっとである。
こちらがみことばに応答すると、
神様は待ち構えていたかのように、何百何千、何万倍にも祝福を返して下さることを現在進行形で体験している。
ここに至るまでに、
JosephDaniel さんが書いた献金についての証に、とても力付けられました。
引用したマラキ書についての新しい視点も得られてとても有益なので、以下にシェアします。
十一献金に負い目を感じている人には必見です。
