📚シリーズ未整理と断片:「経済小説」を知っていますか?――その魅力と衰退の背景考える
1950年代半ば頃、日本の企業や業界の生々しい内情を描く「経済小説」という独特の文学ジャンルが登場した。
企業、業界、経営者、官僚、金融事件、そしてサラリーマンの生き方を描く小説である。
このジャンルの代表的作家である城山三郎、清水一行、高杉良、梶山季之、山崎豊子など、多くの作家が活躍した。
なぜ、多くのサラリーマンに読まれたのだろうか。
当時の会社は、利益を上げるための「機能集団」であると同時に、社員が共に働き、生活や将来を支え合う「共働き共同体」でもあった。
社員は時間、忠誠、転勤への服従などを会社に差し出す。その代わり会社は、長期雇用、昇給、生活保障、所属する場所を与えた。会社は単なる勤務先ではなく、戦前の「村」に代わって戦後日本人の生成を支える「世間」だったのである。
しかし、共同体の論理と機能集団の論理は、いつも一致するわけではない。
長年尽くした社員を、経営合理化のために切れるのか。上司への義理と職業人としての良心のどちらを選ぶのか。会社を守るためなら不正を隠してよいのか。
経済小説が描いたのは、まさにこの亀裂だった。
僕の住む名古屋出身の城山三郎さんが問い続けた「組織と個人」も、会社という世間に支えられながら、その論理に自分の意思を奪われまいとする人間の葛藤だった。
経済小説は、サラリーマンにとって、自分たちが生きる世間を映す鏡だったのである。
ただし、舞台の多くは大企業だった。大企業の社員の経験が「日本の会社員一般」の姿として描かれ、中小零細企業の現実は十分に物語化されなかったと思う。
1990年代以降、会社という世間は崩れていく。長期雇用や生活保障は後退し、会社は機能集団化した。
ところが、忠誠、空気を読むこと、職務を超えた献身という共同体の型だけは残った。
まるで魂がないのに動き続けるゾンビのようにだ。
会社は社員の人生を支えない。しかし社員には、昔のような忠誠を求める。
この「会社という世間の片務化」に対し、社員は静かに生成を引き揚げる。
これが「静かなる退職という働き方」であり、捨象された怒りが退職時に回帰するのが「リベンジ退職」なのではないだろうか。
かつての経済小説は、会社という世間の矛盾を描いた。現在、その世間は衰退し、矛盾よりも抜け殻だけが残った。
経済小説の衰退とは、一つの文学ジャンルの衰退ではない。
それは、日本人の人生を丸ごと包み込んでいた「会社」という巨大な物語が、終わったことの表れなのかもしれない。
✍️補足:「静かなる退職」と「リベンジ退職」
📍静かなる退職という働き方
「静かなる退職」とは、実際に会社を辞めることではない。雇用関係を維持しながら、与えられた必要最低限の仕事だけを行い、それ以上の自発的な努力や貢献を差し出さない働き方である。
定時に退社する、職務外の仕事を断る、昇進を望まない、会社と心理的な距離を置く、といった行動として現れる。
これは、必ずしも怠慢を意味しない。会社が社員の生活や将来を支える共同体ではなくなった以上、社員もまた、共同体に対する無限定な献身をやめ、労働契約の範囲へ戻ろうとする反応とも考えられる。
つまり静かなる退職とは、
会社を辞める前に、社員の生成が会社から先に去る現象なのである。
📍リベンジ退職
「リベンジ退職」とは、職場環境、処遇、ハラスメントなどへの不満や恨みを抱えた社員が、退職時に会社へ打撃を与えようとする行動を指す。
繁忙期に突然辞める、十分な引き継ぎをしない、会社の問題を外部へ告発する、といった形で現れる。
ただし、データの削除、業務妨害、機密情報の不当な暴露などは、法的責任を伴う可能性があり、正当化されるものではない。
それでも、これを単なる「退職マナーの悪化」と見るだけでは不十分だろう。社員の不満や苦痛が社内の正規ルートで受け止められず、意思や理由として構造へ着床できなかった結果、退職という出口から圧力として噴き出した可能性があるからだ。
つまりリベンジ退職とは、
会社が捨象してきた社員の生成が、退職時に正規ルートを経ず回帰する現象
と捉えることができる。
静かなる退職が「生成の引き揚げ」なら、リベンジ退職は「捨象された生成の回帰」である。どちらも、働く人の倫理だけの問題ではなく、会社という世間の双務性が崩れたことを知らせる「ゆらぎ」なのだろう。
