松本清張「張込み」オマージュ|短編小説「落ちた羽と折れた枝」/比翼の鳥にも、連理の枝にもなれず。
本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
この作品を着想したきっかけは、「張込み 傑作短編集(五)」松本清張(新潮文庫)・Kindle版に収録されている作品、「張込み」を読んだことです。
原作はこういう話です。
地方都市でケチな男の「後妻」という檻に閉じ込められた元カノと、強盗を犯したのち、会いに来た元カレ。
元カノの燻る情念に、元カレが火をつけ、一瞬だけメラメラと炎が上がるが……。
という、メロドラマというか、昼ドラのようなお話。
筆者にとって、元カノを後妻に迎えた「ケチな旦那」が、強く印象に残りました。
原作を引用あるいは要約します。
――その亭主は六時近くに帰宅した。痩せて背がひどく高かった。うつむいて歩く癖らしく、猫背であった。わずかな間に見ただけだが、頬骨が高く、皺がある顔だった。背を屈めてわが家の玄関の中に消えていく。――
近所の噂では、妻より20歳上の48歳。生活費は毎日小出し。挙句の果てには米櫃に錠前をかけ、毎日自分で計量していたという。自分は酒を飲むが、妻に娯楽は一切与えない。
これを元にして、次のような話を考えました。
あらかじめお断りいたします。ここから先は非常に不愉快な描写(性的なものを含みます)があります。十分に留意して読み進んでくださるよう、お願いする次第です。
一
篠田卓(すぐる)が数学教師として信奉していたのは、徹底した「合理性」であった。
前妻が病死し、家政を担う者がいなくなった時、彼は自身の生活を円滑に運営するための「機能」として後妻を求めた。
亡妻との間には、中学二年生を筆頭に三人の子供がいる。育児、家事、そしていずれ訪れるであろう自身の介護。
これらを一手に引き受ける「安価な労働力」の確保は、彼にとって喫明の課題であった。
そんな折、人伝に聞いたのが順子の存在だった。
24歳の彼女は、昨年、県立高校の美術教師と駆け落ちし、泥沼の末に実家へ連れ戻された「事故物件」であった。
世間体という名の無菌室に幽閉された彼女は、両親から「生存の鍵」を一つずつ取り上げられていた。
「嫌なら自力で就職しなさい。誰の金で飯を食っていると思っているんだ」
食事のたびに響く箸の音さえ、未婚の娘を養うコストへの非難として響く日々。順子にとって、20歳上の篠田との縁談は、絞首台の階段を上るのと同じ、唯一にして最後の移動手段であった。
嫁いだとき、彼女は25歳だった。
篠田は順子を「市場価値が暴落したパーツ」として買い叩いた。
彼はインテリ特有の虚栄心から、自分から望んだのではなく「貰ってやった」という形を整えた。
彼にとっての結婚は、救済ではない。月経という生物学的現象を含めた「再利用可能な資源」の管理に過ぎなかった。
二
篠田家での順子の生活は、静かな窒息の連続であった。
数学教師である篠田は、家庭運営においても異常なまでの「数」への執着を見せた。米櫃には物理的な錠前をかけ、毎日自分が計量する。調味料の減り具合、洗剤の残量、すべてが彼の手元にあるPCの表計算ソフトに記録され、順子は毎日、一円の狂いもない家計簿の提出を義務付けられた。
篠田は妻にスマートフォンを与えなかった。話題にすることすら禁じた。
「君には前科があるからね。外部との余計な接触は認められない」
そう言って冷笑する篠田は、学校でも生徒から忌み嫌われていた。成績の悪い生徒に対し、教科書の文言を一文字の狂いもなくノートに転載させる「写経」という苦役を課す。思考を禁じ、単純作業の物量で精神を摩耗させる。それが彼の教育方針であった。
それでも順子は、完璧な家政婦であり、貞淑な妻であり、よき母であった。
夕刻、猫背の篠田が帰宅すると、玄関には三つ指を突く順子の姿があった。彼女は決して声を荒らげず、篠田の指示に従順に従った。彼女の若さと美しさは、4年の月日を経ても衰えるどころか、むしろどこか透明な艶を帯びていくようであった。
篠田はそれを、自らの完璧な管理教育の賜物であると確信し、悦に入っていた。
三
その崩壊は、ある曇天の午後に訪れた。
警察からの電話は、高架橋の下で男女の心中死体が発見されたという報せだった。
篠田は警察署の冷え切った廊下で、担当官から淡々と説明を受けた。遺体は時速数十キロでアスファルトに叩きつけられた衝撃により、激しく損壊していた。男女の肉片は混じり合い、目視による判別は不可能。
所持品から、それが篠田順子と、かつての駆け落ち相手・芳賀克利である可能性が高いという。
「奥様の身元を確定させるため、DNA鑑定が必要です。ご自宅から奥様の毛髪や、直接身につけていたものを提供してください」
篠田は足早に帰宅し、家の中をひっくり返した。しかし、そこで彼は膝をつくことになる。
順子のクローゼット、鏡台の引き出し、洗面所。どこを探しても、彼女の衣類も、使いかけの口紅も、一本の歯ブラシすら残っていなかった。彼女は、自分の存在を証明するすべての痕跡を、あらかじめ完璧に「デリート」していたのだ。
「ゴミ箱、あるいは掃除機の中はどうでしょうか」
警察官に促され、篠田は震える手で掃除機のダストボックスを開けた。
灰色の塵、埃。その汚濁の中に指を突っ込み、彼はピンセットで一本の黒い毛髪を拾い上げる。
かつて自分が支配していたはずの女の一部を、ゴミの中から探し出す屈辱。
数学を愛し、清潔な論理を尊んできた篠田にとって、それは自らの尊厳が解体されていく音を聞くような作業であった。
鑑定の結果、死体は間違いなく順子と芳賀であった。
篠田を襲ったのは悲しみではなく、烈火のごとき憤怒だった。
「自分の許可なく勝手に廃棄(死)された」こと。そして、家事という役割を放棄した妻の身勝手さ。
彼は遺体の引き取りを拒否し、二人の火葬代だけを投げ出した。
それを最大級の「慈悲」だと自分に言い聞かせながら。
四
しかし、順子の復讐は死をもって完結してはいなかった。
数日後、篠田は副校長室に呼び出された。部屋に入ると、副校長はこれまでに見たこともないような、汚物を見るような眼差しで彼を凝視した。
机の上には、一台のタブレットが置かれている。
「篠田先生、これを見なさい。ネット上で拡散されている。……我々の元にも、保護者から通報があった」
「篠田先生の名前を使って、1本あたり2時間程度の動画が20本近くも投稿されているんだ。画面には、動画の内容を補足するように丁寧な字幕まで付いている。勤務先、住所、そして家庭内での『合理的』な振る舞いまで、ご丁寧に全部ね」
「奧さんの実家からこちらに連絡があった。『近所や親戚から後ろ指を指され、恥ずかしくてたまらない。平穏な生活をどうしてくれる』とね。……篠田先生のところにはなかったかね?」
「……私のところには何も……。」
画面をタップすると、そこには鮮明な動画が映し出された。
そこには、かつての美術教師、芳賀の姿があった。彼は宅配業者の制服を着ていた。芳賀は現在、運送会社に勤めており、篠田家への配達を機に順子と再会していたのだ。
そして、画面の中の順子。
彼女は、篠田が一度も見たことのないような、異常なまでに妖艶で淫らな姿を晒していた。美術教師であった芳賀の色彩感覚と演出によって、彼女の美しさは限界まで引き出されていた。動画の構成は、市販のアダルトビデオそのもの——「人妻不倫」「痴女」といった卑俗なジャンルを体現していた。
密会場所はホテル、そして篠田の留守中の「自宅」であった。
篠田が大切に守っていたはずの聖域で、順子は芳賀の腕に抱かれながら、カメラに向かって嘲笑を浮かべていた。
「お前なんかに、こんなことは絶対にしてやらないよ」
動画の中の順子が吐き捨てる。
「ヘボの役立たず。妻を欲求不満なまま放置して、スマホも持たさず、旅行にも連れて行かない腐れたケチ。……死ぬほど嫌いだった。毎日、あんたの死顔を想像してご飯を食べていた。お前に触られた素肌の汚れ、すべて克利くんからきれいにしてもらってるから。彼の愛撫のことばっかり考えてた。……お前とのことなんか『仕事』でしかないから!」
彼女は、篠田が禁じていた隠しスマホを芳賀に用意させていた。
……だが、その罵詈雑言の背後で、カメラを持つ者の嗚咽が微かに漏れていることに、篠田は気づかない。
レンズ越しに、壊れていく最愛の女を見つめ、声を殺して泣く芳賀の絶望に、彼は最後まで盲目であった。
そして、高架橋から飛び降りる前夜、この復讐動画をネットの海へ垂れ流していたのだ。
動画の撮影日時が、あからさまに残されており、その日付は、順子が後妻になってから半年も経たない頃から、心中直前までの期間まで及んでいた。
「私は……懲戒処分を受けるのですか」
篠田は掠れた声で尋ねた。副校長は深い溜息をつき、首を振った。
「いや、君は被害者だ。法的に君を裁く理由はない。だが……この動画は生徒たちの間にも広まっている。君が教壇に立つことはもう不可能だ」
下された辞令は、県立図書館の資料室への転勤であった。
「もう現場復帰は厳しいだろうね。ほとぼりが冷めるまで、静かに余生を過ごしたまえ」
五
県立図書館の地下にある資料室は、太陽の光が一切届かない、静寂と埃の墓場であった。
そこで篠田に与えられた仕事は、古びた新聞記事や行政資料を、ただひたすらに目録化する作業だった。かつて彼が生徒に強いた「写経」そのものの時間が、無限に続く。
しかし、篠田の精神はすでに、ある場所から動けなくなっていた。
彼は誰もいない資料室で、毎日、順子の動画を再生し続けた。自分を罵り、間男と睦み合う妻の姿。それを、彼は一秒も逃さず網膜に焼き付けた。
動画の中の彼女は、篠田の前で見せた無機質な「機能」としての姿ではなく、最愛の男性から愛される一人の女として、かつてないほど生命の輝きを放っていた。
かつては「不潔なもの」として切り捨てていたその情事が、今や彼の唯一の生の実感となっていた。彼は、自分を誰よりも深く憎んでいる妻の姿に、異常なまでの性的な興奮を覚えるようになった。順子の狙い通り、彼は彼女の「毒」に完全に侵されたのだ。
ある日の午後。
資料室の棚の影で、篠田は激しく自慰に耽っていた。画面の中の順子が芳賀と交わり、エクスタシーを迎える瞬間に合わせて、彼は絶頂を迎えようとした。
その時、不意に資料室の扉が開いた。
巡回の職員と、資料を探しに来た利用者が、そこに立っていた。
ベルトを解き、画面の中の淫らな亡霊に溺れる元数学教師の無惨な姿。それは、言い訳のしようのない「現場」であった。
彼は即座に停職となり、事態を重く見た教育委員会からの圧力によって、自主退職へと追い込まれた。
退職金は教育界からの手切れ金そのものだった。
これまで積み上げてきた実績も、すべてが泥の中に沈んだ。
六
夕暮れの林道は、冬の気配を含んだ風が吹き抜けていた。
篠田は、人通りのない林の奥へと足を踏み入れた。視界の端で、一本の大きな広葉樹の枝が突き出しているのが見えた。
彼は震える手でベルトを解いた。かつて、厳格な教師としての身なりを整えていた、黒い牛革のベルト。
彼はそれを枝にかけた。
見上げた枝は、かつて自分が無理やり折り曲げ、思い通りに仕立てたつもりでいた順子の人生のように、細く、頼りなく見えた。しかし、一人の男を吊るすには十分な強度を持っていた。
順子は、最後に自らを「肉片」に変えることで、芳賀と永遠に混じり合い、篠田の支配から逃げ切った。自分を売り飛ばした実家へも復讐した。
彼女は「落ちた羽」となって空へ舞い上がり、残された篠田を、自分という呪縛から一生出られない孤独な檻に閉じ込めたのだ。
篠田は輪の中に首を通した。
最後に耳の奥で聞こえたのは、あの動画の中の順子の、狂おしいほど美しい嘲笑だった。
ガサリ、と枝がしなった。
折れることのない強固な絶望が、男の重みを静かに受け止めた。
(完)
米櫃の錠前は、彼女を閉じ込めるためのものではなかった。
彼が自分の尊厳を繋ぎ止めておくための、最後のか細い鎖に過ぎなかった。
